幕間 潼関の戦い
建安十六年(西暦二一一年)の春、都で後漢皇帝を擁立している
しかしその時、関中一帯に噂が流れた。張魯討伐は名目で、実際には関中の諸侯を武力で抑える為の出兵である、と。
関中は周囲を山と大河に囲まれた肥沃な大地で、秦の始皇帝、前漢の
その西方の
長安の東は、
そして南方に向かえば険しい
後世に長安はシルクロードの玄関口にもなった大都市であり、都ではなかったこの時代でも、軍勢の経由地点として使われる事に何の不思議もない立地である。
一方でこの時代の関中は周辺一帯に小豪族が割拠し、非常に治めにくい場所でもあった。二十年ほど前に天下を騒がせた
また諸侯の思う曹操の人物像の影響も大きかった。
この三年前の建安十三年(西暦二〇八年)、中原から
もっともその時の曹操は、劉備・孫権の連合軍と争った
そうした記憶も新しい中、戦力を立て直しつつあった曹操が軍を長安に動かしたとなれば、関中の諸侯らが疑心にとらわれるのも当然の流れと言えた。
特に関中の全権を任されていた
出兵の目的が関中制圧であるという噂も、武力による鎮圧を正当化する為に、鍾繇が意図的に流させ、関中軍閥の暴発を誘ったと邪推する向きもあるが、真相は定かではない。
とにかく事実のみを挙げるならば、建安十六年の三月に曹操軍が軍を進発させ、関中の軍閥が同盟を組んで決起し長安を襲撃。
そして建安十六年の夏に、曹操軍と関中同盟は長安の東にある
激しい戦いが二カ月に渡って行われ、両軍合わせて数万の屍が築かれた末、関中同盟の中心人物であった
潼関で敗れた関中諸侯は離散し、ある者は曹操軍に投降、ある者は関中で最後まで戦って果て、またある者は再起を図って関中を脱出した。
潼関の戦いが終わると、曹操は腹心の
この後に夏侯淵は関中に残った残党軍の討伐に追われる事になり、関中の外へ逃亡した諸侯まで手が回らぬまま年を越し、建安十七年の現在に至るのである。
当然の事ながら、西方の隴山を越えた先にある涼州は、関中を逃れた諸侯にとって絶好の逃亡先であったわけである。遥か西域にて剣の修行をしながら流れていた趙英は、
そして家族が住んでいる
家族を案じた趙英が冀県へと帰る途上、呼狐澹と出会った。
或いは軍勢を相手の戦いになる事を考慮し、呼狐澹の狙撃と斥候の腕を買ったというわけである。
だが趙英が冀県へと至るより前に、その手前の
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