17:空の龍《エア》

「エア!」


 エアは足を止めない。

 蛞鹿龍メルストロムが喉を激しく収縮させて、太鼓みたいな音で鳴いて体を捩り、首に噛みつこうとした噴火アグニを振り払った。

 親父は無事か? 揺れる視界の中で目を凝らすと、蛞鹿龍メルストロムが半透明な翼で親父をうまく包んでいる。


「キュララ! キュララ!」


 甲高い声を上げた噴火アグニが、胸から上を大きく反らす。真紅の鱗の隙間から朱色の光が漏れ始め、風が渦巻く音が聞こえてくる。

 聞いたことがある。噴火アグニは、体内に溜まった熱を光線にして放出して攻撃をするって。口から出る溶岩みたいに熱い光は並のドラゴンの鱗ならどろどろに溶かせるらしい。直接目にしていないけれど、僕とエアを襲った時に出していた熱線と同じか、それ以上の攻撃を蛞鹿龍メルストロムに向けようとしているに違いない。

 至近距離であんなものを浴びたら……と考えただけで、背中を冷たい汗が伝う。噴火アグニが大きく開いた口の内側が眩く光り、僕はもうだめだと親父たちのいる方向から目を逸らした。

 その瞬間、初めて出会った時のように、エアが太い角笛みたいな音を出した。地面も、空気も震えてあっと言う間に空に真っ黒な雲が立ち籠める。


「なんだ?」


 ポツポツと手の甲に大きな水が落ちてきた。まさかと思って空を見上げると、あの時と同じように桶をひっくり返したような激しい雨が降り始めた。


「――ロ、ロ」


 注意しろ、とてもいうようにエアが短く二度鳴く。熱線を吐くのを中断し、尾を薙いで蛞鹿龍メルストロムを転ばせた噴火アグニが、両翼を広げてこちらへ滑空してくるのが見える。


「キュララキュララララ」


 細かい牙がびっしりと並んだ口を大きく開きながら翔んでくる噴火アグニが鱗の隙間を赤く光らせた。

 さっきは翼で防ぐことが出来たけど……エアは素早く動くのを見たことが無い。それに対して噴火アグニ自然の名を冠する龍グランドドラゴンの中でも機動力が高いと言われている。実際目にしたけれど、あんなに大きな体なのに孔雀龍フウァールと変わらない速度を出している。


「逃げろって! エア! ダメだ。親父も兄貴も死んで、大切な友達のお前まで死んじまったら……」


 近くで飛び回りながら熱線を出されたら、多分エアに勝ち目はない。体は少しだけ大きくても、こいつはただの大きいだけの優しいドラゴンだ。

 雨粒が、噴火アグニの体に落ちてすぐに蒸発している。湯気を纏いながら、真紅のドラゴンは口から赤い熱線を吐き出した。

 次こそもうだめだ。ダメ元で、体内に熱い空気を吸い込んでしまわないように口元を服の袖で覆う。その時、片方の腕でしがみついていたエアの捻れ角が光を帯びた気がした。

 次の瞬間、破裂音が響いて反射で目を閉じると、急にお腹の中がひっくり返るみたいな感覚がした。


「わ……」


 思わず声を上げた後に、熱い風が頬を撫でた。でも、体は全然熱くない。

 恐る恐る目を開くと、僕の視界は一面真っ青だった。空を覆っていた分厚い黒い雲を突き抜けて、青空の中を飛んでいる。


「エア……飛べたのか」


「ロン、ロン」


 体を乗り出すと、視線だけ僕の方を向けたエアが、自慢げに鼻を鳴らした。


「キュララアアア」


 鳴き声が聞こえてきて、身を竦める。大きな両翼を広げたエアの真下から、赤いドラゴンが現れた。

 暗雲の中でも雨に濡れていたのか、身体中から白い湯気を上げている。噴火アグニは苛立っているのか、鱗の隙間から強い光を放っている。

 頭を仰け反らせて口を開いた噴火アグニを見たエアが、体を大きく傾けた。しかし、噴火アグニはピッタリとエアの真下を位置取ってきて振り切れそうにない。

 小さく「ぐるる」と喉を鳴らしながら、腹をあいつに見せないように何度も姿勢を変えている。柔らかい部分に熱線が当たると危ないってことか?

 僕にはエアを励ますことしか出来ない。

 前脚や尾を使って噴火アグニを振り払おうとするが、あいつは執拗なまでに追跡をやめない。

 大型のドラゴンは獲物と、天敵以外には強い関心を持たないはずだ。だから、噴火アグニが、水竜系を追い払おうとするのはわかるが、自分と近い大きさのなんの脅威にもならなそうなエアに執着する理由が思い浮かばない。


「ロ、ロ、ロ」


 短く何度も鳴く。何かを要求するときの鳴き声。僕は、エアの角に両腕を回す。

 僕が角にしがみついた瞬間、両足がふわりと浮いて肝が冷える。エアが背中を下にして飛んでいるんだと、追いかけてくる噴火アグニが逆さまに見えるのを見て気が付いた。口の端から黒煙を漏らしながら、《噴火》は高度を上げて、エアの上を取った。

 なんだろう。この赤い龍は、さっきも孔雀龍フウァールを無視して蛞鹿龍メルストロムを攻撃していた。自然の名を冠する龍グランドドラゴンはバカじゃ無い。優先して攻撃をする理由があるはずだ。


「エア、もう少し耐えてくれ」


「ロ、ロ」


 僕の言葉をちゃんと聞いているのか、急かすようにエアが鳴く。

 熱線を何度も吐かれると思ったが、噴火アグニは幸いにも、ずっとエアの腹側を飛ぶことに執着している。

 蛞鹿龍メルストロムが吐いた水と、さっきの雨……そして、噴火アグニの体を覆っていた湯気……何かがわかりそうな気がする。

 ぐるぐると考えていて、さっき自分で言ったことを思い出した。


「こいつは


 だから、水を吐いて体を冷やす蛞鹿龍メルストロムを嫌ったのか。でも、それだけじゃエアを追いかける理由にはならないはずだ。

 だってエアは水なんて使えない。

 そこまで考えて、エアを見る。ちょうどその時、噴火アグニが振り下ろした前脚の爪がエアの腹を引っ掻いた。


「グルルウルルル」


 エアが低い唸り声を出した。足下が震動して僕の腕までビリビリとする。


「エア? 大丈夫か? 痛いのか?」


 心配して声をかける。グルグルと唸り声を上げながら腹を下に戻したエアは、徐々に高度を落としていく。


「エア、エア……痛いなら無理しなくていい。逃げよう。大丈夫だよ、だから落ち着け」


「ロ、ロ」


 弱々しく鳴いたエアの角に額をくっつけながら、なんとか噴火アグニがエアを追うことを諦めないか考える。

 でも、良い考えは浮かばない。熱が奪われるのを嫌うなら、氷の張っている池へ潜ればこいつをやりすごせるか?


「エア、僕がお前を助ける。だから、お前ももう少しだけがんばれ。一緒になんとかしよう」


 噴火アグニの方を見ていないけれど、あいつの体から水が蒸発する音が消えた。ごうごうと風が渦巻くような音が聞こえてくる。

 多分、体も乾いたし、熱線を吐く準備は整ったみたいだ。どうしよう。

 母さん、どうすればいいか教えてくれよ。僕にだってわかる。自然の名を冠する龍グランドドラゴンと仲良くなるための唄を歌っても今の噴火アグニには通じないんだって。

 でも、祈るような気持ちで僕は母さんから教わった唄を小さく口ずさんだ。


「空に恋をした雨を乞う龍よ。わたしは誓います、あなたと共にあることを。わたしは願います、あなたが空に愛されることを……虹色の角が輝き空と太陽があなたを祝福するとき、わたしとあなたは結ばれるでしょう」


「ブォオオオオオオオォン」


 唄を聞いたエアが咆哮をする。耳が痛い。

 驚いていると、僕がしがみついていたエアの捻れた角が、真ん中の方からじわじわと透明になっていく。

 そこかしこから、剣同士が擦り合うような硬い音がした。足下を見ていると、エアの元気なく寝ていた鱗が立ち上がっていき、徐々に光り始める。


 色を失っていた透明エアが、色を取り戻した……そう思った。


「エア……お前、その色は」


 空色の鱗を持ち、燃えるような太陽の光みたいな瞳を備えた大きなドラゴン。

 天を突くように聳える二本の虹色の角で天気を操り、全てのドラゴンを統べる空の王。


「ブオオオ」


 もう一度大きく鳴いたエアが、太くて長い尾を振り回して熱線を口から吐こうとしている噴火アグニの頭をひっぱたく。

 興奮しているのか、噴火アグニの熱線が空高くに消えていってもエアは落ち着かない様子でめちゃくちゃに飛び回っている。振り落とされてしまいそうで、僕は必死で太陽の光を受けて七色に光るエアの角にしがみついた。


「エア、落ち着けって」


 さっき痛い目に遭ったにもかかわらず、振る噴火アグニは、怒り狂うエアから離れる様子はない。

 もし、エアが、本当に空の龍なら、噴火アグニが執拗に狙ってくる理由もわかる。天気を操るドラゴンは、確かに天敵だ。


「聞けって。なあ僕の友達エア


 僕の声が届いたのか、いくらかは落ち着きを取り戻してくれたらしい。少し速度を落としたエアの角に、縦に割いて紐状にした外套を巻き付けて、自分の腹に結んだ。それから、エアの頭に腹ばいになって寝転びながら語りかける。

 

「氷、わかるか? お前の好きな池に張ってるアレだ」


「ロン」


 不満そうなエアの声が響く。返事が出来るくらいに落ち着いたってことだと思っておこう。

 ペタペタと頭を片手で撫でながら、僕は話を続けた。


「あいつは、冷たいものが嫌いらしい。だから、アレを降らせてあいつにぶつけてやれ」


「ロ、ロ」


 エアが短く鳴く。僕はしっかりとエアの角にしがみついた。

 両翼を畳んだエアが、下に広がっている黒雲へ頭から突っ込んでいく。後ろを見ると、噴火アグニは僕たちの後をしっかりと追いかけてくれていた。

 雲を抜けたエアは地面に降り立った。太陽の光が届かない場所でも、エアの鱗は綺麗な空色のままだ。

 少し遅れて噴火アグニが姿を現すと、エアは低い大きな声で鳴いた。透明な捻れ角が光ると同時に、どこからか吹いてきた冷たい風が首筋を撫でる。

 自分の息が白い。まさか、本当にこんなことが出来るなんて……と驚く間もなく、白い羽毛みたいな雪が手の甲へ落ちてきた。

 

「ロ」


 慌ててエアの角を掴んだ。次の瞬間、猛烈な風に運ばれた雪が噴火アグニに向かっていく。

 かじかむ手で飛ばされないように必死にエアの角を掴みながら、噴火アグニへ目を向ける。体内から弱々しい光を放って口を開いた赤いドラゴンの熱光線は不発に終わった。

 太鼓のような音がして、エアが急に翼を広げた。僕を隠すように両翼を開いたエアによってまた視界を奪われる。

 下を見てみると、エアの足下には水が広がっていた。その水も寒さのせいでどんどん凍っていく。


「お前に助けられたよ……」


 エアが唸りながらも翼を降ろした。それと同時に、親父の声が足下から聞こえてきた。

 体をすっかり冷やされた噴火アグニは、少し離れた場所でうつ伏せになって動けなくなっていた。親父の乗る蛞鹿龍メルストロムは、噴火アグニに向かって容赦なく放水を続けているため、赤い鱗が凍って白みがかっている。


「ああ、孔雀龍フウァール……お前」


 ガサガサと音がしたので、驚いて目を向けたが、そこにはよろよろと右翼を引きずった孔雀龍フウァールが、意識を失った兄貴を嘴に咥えてこちらへ向かってきた音だった。


「エア、すごいぞ。お手柄だ。村が落ち着いたら牛を腹一杯食べさせて貰おうな」


「ロロン」


 そう言って僕が頭を撫でると、エアは穏やかな声で鳴いた。それから、ゆっくりと体を横たわらせ、目を閉じる。

 いくつかの卵をいきみながら出したエアは、そのまま二度と目を開かなかった。

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