癒しの聖女の正体は肉食系~ツンデレ薬師(公爵令息)に執着されているようですが、私はお肉が食べたいです~
硝子町玻璃(火野村志紀)
第1話・偽聖女ヘルバ
ここには嫌な臭いがする人間がたくさんいる。
ヘルバはそう思いながら、目の前で優雅に扇を広げている美女を見詰めていた。
「分からないのなら、もう一度言ってあげましょう。あなたは聖女として必要な素質を持っておりません。お分かりですか?」
上質かつ大粒のルビーばかりを散りばめられた豪勢な玉座に腰掛け、溜め息をついているのはフィオーナ国の女王である。
美しい銀髪とルビーのような紅い瞳の持ち主である彼女は、この国の頂点に立つ存在であり、国一番の美女とも称されている。しかしその美貌には険しい表情が浮かんでいた。
原因は両手足を縄で縛られた状態で、女王をじっと見据えている少女にあった。
くすんだ色合いの茶髪は無造作に伸ばされており、ろくに手入れもしていないのか傷んでいる。
その上、顔はそばかすだらけで、白かったであろうワンピースは所々黄ばみ、獣のような臭いが漂う。少女の両脇にいる兵士も眉を顰めている。年頃の娘だというのに頬もほっそりと痩けていた。
まるで囚人のような扱いである。だが玉座の間にいる者たちの中で、少女の身を気遣う人間は一人もいなかった。
何せ彼女──ヘルバは大きな嘘をつき、王太子妃になろうとした大罪人なのだから。
「汚い、汚い。あれが偽聖女の末路というわけか」
「何故陛下はすぐにあの者を処刑しなかったのか……」
「自ら罪を認めれば、数十年の懲役刑で済ませるつもりだったらしい」
「何と慈悲深い……だが、あの娘一度も口を開かなかったようだ。自白すらしようとしない。とんだ悪女め」
小声で好き勝手吐き捨てる大臣たちだったが、女王がきつく睨み付けると慌てて口を閉ざした。
彼らがここにいるのは、王太子を誑かそうとした少女に激しい怒りを抱いているからではない。稀代の悪女、ヘルバが断罪される瞬間に立ち会いたいという野次馬根性からである。
「ヘルバ。何故あなたは聖女を自称し、我が息子エリックに近付いたのです。妃の座を得るためですか?」
「…………………」
「よいですか、ヘルバ。これが最期の機会(チャンス)です。わたくしも年若い娘を処刑することは出来れば避けたい。全てを告白なさい」
聖女。それは魔法と呼ばれる神秘の術を使える者たちの名称だ。
魔法の力は偉大である。人々の生命の源である水を、あらゆる物を焼き付くし熱を発する火を、時に優しく時に激しく吹き荒ぶ風などを生み出すことも出来る。
聖女は神の寵愛を受けた者でもあるので、聖女を妃として迎える王族や高位の貴族は多い。フィオーナ国も例外ではなかった。
そんな聖女の名を偽り、王族の一員になろうと企てた罪は重い。このような場で私語をする家臣たちの言う通り、早急に処刑してしまうのが正しかった。事実、過去に同様の事態が起きた時にすぐさま刑を執行した例もある。
しかしヘルバはまだ若い。自国の民たちが賛同したとしても、他国の反応を考えないわけにはいかない。未成年の死罪を禁止している国もあるのだから、今回のことを知れれば当然批難の声が上がるだろう。
何より女王自身、一人の人間として娘の命を奪うことに躊躇いがあった。
なので数十年牢屋に入ってもらいたい。そう思っていた時だ。女王譲りの銀髪と赤い瞳の美青年が玉座の間に乱入して来た。
マロンブラウンの長髪を靡かせた美女を引き連れて。
「……エリック、何故あなたがこの場に現れるのです」
「何をおっしゃるのです、母上。あの小汚い女に騙されたのはこの私です。私にはヘルバが裁かれる場に居合わせる権利があります!」
凛とした声が響き渡る。彼の登場に女王を見詰めるばかりだったヘルバが僅かに反応したが、王太子エリックはそれを無視して言葉を続ける。
「癒しの魔法。それがヘルバが神から授かった魔法だと聞かされていました。ですが真実は違った。このアネッサの手柄を全てあの女が横取りしていたのですよ!?」
「口を慎みなさいエリック。罪人と言えどもかつては婚約者だった少女をあの女呼ばわりとは……」
「申し訳ありません。しかしアネッサが真実を話してくれなければ、私は聖女でも何でもない女を妃としていました」
「はい、エリック様のおっしゃる通りです。わたくしはこの国の方々のため、尽力しておりました。なのにヘルバ様はそれを全て自分を行ったことだと、エリック様に伝えていたのです」
エリックの隣にいた美女が、涙ぐみながらそう訴える。彼女こそが真の聖女であり、エリックの現婚約者アネッサ・ミスティだ。
悲しげに顔を歪めるアネッサの名をエリックが優しく呼び、抱き締める。その光景は二人の間に強い絆が存在していると思わせるには十分だった。
ヘルバには抱擁を一度もしたことがない。ヘルバが城の一室で刺繍や読書に耽っている間、王太子はいつも地方の視察に出向いていた。
治癒の魔法を使う聖女は稀少だ。傷付いた者や病人を治すだけではない。穢れた土壌や水、大気すらも癒してしまう。
ほんの少し前までフィオーナは酷い惨状だった。二十年前の戦争が原因で、深刻な汚染に悩まされていたのだ。作物は育たず、雑菌まみれの水を飲用していたために罹患率も非常に高かった。
だがヘルバが各地を回り、癒しの力を以てそれらの問題を解決してきた。それを知ったエリックが彼女に求婚し、ヘルバは婚約者の地位を得たのだが。
「母上、ヘルバは処刑すべきです。このような悪女など生かしておいて何になるとおっしゃるのですか」
「エリック。ですが、まだわたくしたちは彼女の言葉を何一つ聞いておりません。もしかしたら、何者かが背後から糸を引いている可能性もあるのでしょう?」
「母上……あなたは優しすぎます」
母との主張の食い違いにエリックが眉間に皺を寄せる。そんな彼の方に手を置き、優しく微笑むのはアネッサだった。
「もうヘルバ様を許してあげましょう。この方にも何か事情があったのではないでしょうか?」
「アネッサ、君も君だ。自分の手柄を奪われたというのに、どうして彼女を許せるというんだい」
「わたくしはエリック様に知っていただければ、それで十分でございます」
穏やかな声で言葉を紡ぐアネッサ。その姿はまさに聖女そのものだ。家臣の中には涙ぐむ者もいたほどである。
ヘルバは二人をじっと見詰めていた。けれど先程とは違って体を震わせており、明らかに怯えた様子だった。
その変化に女王が目を見開く一方、エリックはアネッサの体を抱き寄せながらヘルバを罵った。
「怖いか? だがそれはお前の自業自得だ、ヘルバ!」
かつて自分を愛した者に激しい敵意をぶつけられる。にも拘わらず、ヘルバは最後まで弁解の言葉一つ漏らそうとしなかった。
エリックの剣幕を目にした家臣たちからは、ヘルバの死罪を求める声が上がった。更に国民からも処刑を求める署名が集まる。女王も他国の反応よりも自国の民たちの声を優先することを決めた。
ヘルバの運命は決まったようなものだった。
だがここで奇妙なことが起こる。
その日の晩、地下牢に閉じ込められていたはずのヘルバが忽然と姿を消したのである。鉄格子は大きく歪んでおり、人一人通れるだけの隙間が出来ていた。そこから逃げ出したのか、見張りの兵士も気絶した状態で発見された。
ざわつく城内にて、最も衝撃を受けていたのはエリックだ。
「ヘ、ヘルバ……どうして、こんな……」
顔面蒼白になりながら、その場に立ち尽くす。その彼にアネッサが不安げな顔で寄り添っていた。
その頃、地下下水道ではぺたぺたと裸足で走る音が響いていた。ヘルバは何度も後ろを振り返り、追っ手が来ないことを確認しながら走っていた。
少し立ち止まっていても大丈夫だと判断すると、その場に踞りドレスの裾を捲る。右の足首に填められた金色のアンクレット。ヘルバはそれを掴むと、強引に引きちぎった。
その破片を投げ捨てると自らの喉に触れる。手が白く光ったあと、ヘルバは大きく息を吸い込んだ。
そして。
「……ここ、臭い」
これまで一切口を開くことがなかった少女は、下水道の悪臭に嘆いた。
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