てのひら

Yukari Kousaka

てのひら

 島尾さん、とあのひとの名前を口にして初めて、ああ私はまだ傷つくことさえできていなかったの、と悟る。足元がぐらりと崩れて、それに耐えたからだ、きっと、泣いてしまったのは。涙は私から出たものだったはずなのに次々と私を飲み込んでいく。いけない、何がいけないのかわからないままただ、いけない、と焦る。目の前の壁に掛けられた小さな絵がにじむ。ゆらぐ。ひかりがゆれる。

「戦艦テメレール」

 隣に立つ友人がぽつり、とその絵の名前をつぶやいて、だから、私は今につなぎとめられた。私、ターナーを、見に。そうだ、私は、ターナー展に、来たんだった。かぎられた有給をとってまで。ほおぼねを薬指でなぞって、滴をぬぐう。その絵の名前をたどる。せんかん、てめれーる。

「この絵そのものから、光がでているみたいね」

 確かにそう。画面がとても眩しくて、それでいてとろりと甘い。水音がきこえてきそうな海ももちろんだけれど、それ以上に空だ。うすぐもりのむこうの日の光が、絵からあふれていた。あのひとがしんだと聞いた日も、こんな空だった。

 しんだ?

 それを思い出してしまったから。

「だいじょうぶ?」

 友人は、絵を見たままささやいた。するりと手が彼女の体の横から伸びてきて私の指をつかむ。だい、じょうぶ。そう言って手をほどき、つなぎ直す。女でよかった、とふいに思った。ぬくもりと、しめりけと、かすかな脈拍が手をとおして流れこんでくる。男どうしだと手をつなぐことは憚られるかもしれないから。かるがるしく男を差別して、でも、と迷う。でも、もし男だったら、あのひとには出会わなかったかもしれない。

 そのほうが良かったかどうかなんて、わからない。結果論だから。

 でも、そのほうが、幸せになっていただろうということだけは確か。




「カバーは、お付けしますか」

 あのひとの声は、異性なのだということを思い出させるとてもひくい声だった。掻き上げられたながめの黒い髪やほそいくび、甘い香り、中性的な要素がめだつあのひとのなかの、異性らしさ。そのからだにふれたことはなかったけれど、いつもレジのカウンターの数十センチをはさんで、会話らしい会話もしたこともなかったけれど、その声にはいつもふれていた。本を渡した瞬間に私とあのひととの境界線がにじむ体温。

「お願いします」

 あと一言、あとひとつその声になにかをいいたかった私は、なにもいえないまま立ち尽くしていた。

「文庫2点、単行本1点、合計3点で2,800円です、袋は」

「いらないです」

 今ごろ思い出しても意味なんてないのに。今ごろ伝えようとしてもどこにも届かないのに。あのときにいいたかった言葉がいまさらわかって、いまさらあふれてきてしまう。私が死ぬことは本で読んで知っていたし、想像もできたのに、どうしてだか、あのひとがしぬことは思いつかなかったの。

「あ、オリオン座ですね」

 あのひとがほそい指をのばしてその本屋のとびらを指す。私はゆっくりとふりかえって藍色の空をながめた。外のほうが本屋の中よりも暗くなり始めて、うまく、みえない。まだ空はうす明るくて、すこしだけオレンジ色の混ざった透明な藍色は分かった。散らばる雲は重いグレー。

「オリオン座?」

 あのひとがカウンターに乗り出して、手をさらに伸ばす。「ほら、あそこ、赤い星」

 指のさす先にひとつきらりと粒が見えた。

「ほんとうだ。えっと、なんでしたっけ、リゲル?」

 あのひとがくすりと笑う。

「それはあの青いほうです、赤はベテルギウス」

「そうか、小学校の時に習ったような気がします」

「わすれて、いくものですよね」

 あのひとは乗り出した姿勢のままカウンターにひじをついて、そう笑った。甘い香りが遠のいて、泣きたくなったけれど、そうですよね、と笑い返した私がほんとうにいいたかったことは。後悔なんて今の自分を殺していくことだよ、そう言えたら私はきっともっと強くなっていて、なにかに囚われることもなくて。けれど、そんな関係のない誰かだからこそいえる言葉は、いらない。私が、いいたかったこと。わすれて、いくものですよねってあのひとは言ったけれど。




「だいじょうぶ?」

 すっと引きずられるように現実が元にもどってきて、焦点があう。汗をかいた水のグラスをもちあげて口にあてる。キンと冷えた水に歯がしみる。ほのかにレモンとライムの香りがとおりすぎたあと喉と胃がつめたくなる。しかめた顔をゆるめてから彼女のほうを見る。首をかしげてほほえむ彼女の肩ごしのおおきな窓にくっきりと深い青がみえた。

「うん、まし」

 だいじょうぶ、ばかり言わせている私がわるもののような気がしてきて、だから、目の前に置いてあるメニューに視線を戻す。あまりにも静かで、おちつかない。周りには老夫婦が一組だけ。平日の開店間もないちいさなカフェ、気まずくて、口を開いた。

「きめた?」

「私このホットフルーツティーとココアワッフル。きめたの?」

「おいしそうね。私は、ホットロイヤルミルクティーと、いちごのパンケーキ」

 なにも食べたいとは思わなかったけれど、きっとまた彼女にだいじょうぶを言わせてしまうのだろうと思ったから、目についた一番大きい写真を指差す。

 彼女が手をあげて店員を呼び、4品を言う。男性店員はメモも取らずにうなずきながら、きちんと4品を復唱してみせる。みじかくて、茶色の髪、筋肉が硬くついたおおきな背中。島尾さんとは大違い、と思ってから、だからなんなのだ、と笑ってしまう。遠ざかっていく店員の、カフェエプロンをつけたふとく筋肉質なふとももに目をやりながら、島尾さん、ともういちど口のかたちだけで呼んでみる。

 島尾、真澄さん。

「しんだそのひととは、つきあっていたの?」

 店員が奥にきえるのを待っていたかのように彼女はあのひとのことを口にする。あのひとは、しんだそのひと、になったのか、と思った。彼女も私がまだのみこんでいないことを当たり前のように口にして、先へ進む。先には、あのひとはいない。断絶。

 どう表せばよいかわからなくて、口をあけてはとじ、かわいた舌の上で言葉をまとめる。長い間をあけて、答えた。

「ううん、つきあってなかった。ただ、」

 すきだったんだ。あの横顔が、声が、香りが、全部が。本を持ち上げる手が。書架からほこりのつもった本を取り出すときに背伸びをして見える足首が。いままでにつきあったひとの誰よりも本当の恋を、していた。かわいいと言われるためだけに、思ってもみないことを発して笑わなくていい。毎日すこしずつあのひとの何かを新しく発見して、こころのなかだけですき、を塗りかさねていけばよかった。

「片思いだったのか。それで、告白してなくて、後悔とか?」

「そう。それだけじゃないんだけれど、そうなの。あのひとがしんだことをまだ飲み込めていないし、生きていると思ってしまうし、生活のかたすみにあの人がにじむのよ、何をしていても。ごはんを食べおわってお箸をおいた瞬間にレシピ本を棚に挿しているあのひとの後ろ姿が、音楽を聴いていて曲のあいだの余白にパソコンをたたくあのひとの指が、全部、あのひとにつながってしまう」

 生活の中で息をすることを意識なんてしないように、切れめなく、私はあのひとのことをおもうの。コトリとおかれたミルクティーに手をさしだしてあたためる。そこでやっと気づく、あのひとに会うために、あのひとがしんだという日にぬったマニキュアがそのまま指の先でうずいていたこと。さくら色だった。あのひとに本をさしだす私の指がきれいでなくて、だから買ったマニキュアだった。さっきと同じ店員に、ありがとうございます、と告げてから彼女はフルーツティーの入った耐熱ガラスマグに同じように手を添えた。彼女のマニキュアはネイルサロンに行ったのだろうか、つやつやとした藍色と橙色のグラデーションだった。ストーンもちりばめられて、あのオリオン座の日の空の色。

 ココアワッフルとパンケーキがそろって、友人は写真をとった。ピンク色のスマートフォンケースをだして、傾けて。そしてそのまま、今思いついた、とでもいうように、

「新しい恋でもしたら」

 は、と言ってしまった。

 新しい、なにを言っているんだこの子は、新しい。恋。

「しんだあのひとは戻らない」

 しんだ、のみこめていないはずのその言葉が思ったよりするりとでてきて、そのことにもう一度戸惑う。私はうけいれはじめている。戻らない。

「だからよ、しんだ人のことをいつまでも好きでも戻らないんだよ。じゃあ、忘れちゃいなよ、おぼえていても戻らないのに」

 そうか、と思いかけて、次にだんだんと腹が立ってきて、そして傷ついた。めちゃくちゃだ、私も彼女も。

「私の話の何を聞いていたの」

 彼女の言葉はどこまでもただしくて、そしてどこまでも間違っていた。パンケーキをできるだけていねいに切って、たべずに、彼女の言葉を待つ。

「だから、何も聞いてないって。あの日も、電話かけてきて、しんじゃった、しか言わないんだから。すきな人だったんだろうって、想像しただけよ」

 それは、ごめんと答えながら、なにが、だから、の前に接続したんだろう。上の空の私は、いつもよりどうでもいいことに気づく。

「だから心配していっているの、新しい恋をして、たくさんご飯を食べて、お菓子を食べて、寝て、わすれてしまおうよ。あなたの生活は続くんだから」だから。だから。

「私の生活は続く」だから、なんだというのだろう。

「そうよ、それにわすれたくないと思うことほどわすれていくもの。それなら、自分を大切にする時間を長くしたほうがいい、生きろよ」

 最後は冗談めかして強くいい放って笑った彼女、そういうものなのか、となにも言えなくなる。わかっている。わかっていた。私はあのひとにふれたことすらないただの書店の客。ただの一方的な想いが一方的におわっただけ。もしかしたら私よりもっとふかくふかく傷ついているあのひとの彼女がいるかもしれないのに。彼女はいなくてもあのひとのことをずっと見ていた家族や、友人がいるだろうはずなのに。恋は自己中心。ねえ、と友人の声がすこし怒りを含んだ。心配してくれたんだ、私を外に連れ出してくれたのだし、仕事に支障がでるほど余裕がなかった私に、無理やり有給をとらせて。そう思って笑う。

「そうなのかもね」

「そうなんだよ」

 それでもわすれられなかったらまた誘ってよ、旅行いこ、しまなみ行きたい、れもんパンケーキ、なぐさめようとしているとき友人は饒舌になる。無言がうれしいときはうっとうしくもなったけれど、この子は本当にやさしい子なのだ。とても、とても大切な親友なのだ。ありがと、と笑ってから立ち上がる。カフェ代は、割り勘にした。

 インクの褪せかけたレシートはあとで、ターナー展のチケットと一緒に、駅のごみ箱になげいれた。




 わすれて、しまうものですよね。

 新しい恋でもしたら。

 二つの声が重なって、私はふわふわと歩く。家にどうやって入ったのかも思いだせないまま、水道の蛇口をひねってコップにそそいだ。カフェで飲んだものよりもなまの水がのどを通る。外ははんぶん、夜になっていた。

 わすれてしまおうか。

 それもありなのかもしれない。囚われて、傷ついて、変われないまま、死んでいくのは、にんげん、無理なのかもしれない。こころをまもるために私の一部は、あのひとにあわなくなったその日から、デリートキーをおしつづけているのかもしれない。

 寝室に行って、さっき放り投げたバッグを回収して、ふとクローゼットに目をやると、ほとんど着たことのないアルマーニ・コレツィオーニのミニドレスが表に出ていた。あまりにも着ないから売ろうかと思い、外に出してそのままにしていたんだ。上半身がシックなネイビーでスカートは淡いグリーンの模様。そろえて買ったミュウミュウのパンプスもあったはずだ。

 わすれて、しまうものですよね。

 新しい恋、とつぶやいてから、私はそっとハンガーをドレスから抜き取り、ベッドに置いた。ジーンズをぬぎ、ストッキングに着替える。ドレスにうでを通してボタンを止める。マニキュアを、あのひとの思いのひとつぶを、さくら色を、ターコイズブルーで上書きする。ミュウミュウのパンプスの箱を見つけて、足を滑り込ませる。ヴィトンのバッグにスマートフォンと財布だけを入れる。洋服は、よろいだ。こぼれ落ちそうだった、なんで、どうして、すき。それらを全部うちがわにしまいこんで、私は強くなれる。強くなる。とびらをそっと押し開けて、ゆびさきから街に溶ける。

 よるのしたには、明日死ぬなんて思っていない若者たちの匂いで溢れかえっていて、酔ってもいないのに頭がふらふらする。この匂いは何時ぶりだろう、そう思い返して、ああそうだあのひとに会ってからだと思いだす。でも、もう忘れるから。いつもより少し高いヒールが地面から生えて私を押しあげる。背筋がのびる。

 あのひとをはじめて見たバーをめざしたのは、期待していたからだ。私をゆるめて、とかして、中でうずくものを全部すくいだして、きれいに舐めとってくれる人を。あの人は私にふれてもいないのに、それを簡単にやってのけた。おなじ場所でもう一度、上書きしたいからだ。セックスを利用したってかまわない。愛情をたしかめてかたちを留めていくセックスもわるくないけれど、いまはかたちをゆるがしていくものを求めていた。つきうごかすような、私の今の姿勢をかえてくれるようなはげしいもの。あのひとが私の毎日にあって、色をつけたみたいに。

 ホテルを背にしてひっそりとただずむそのバーは、内装がおちついていて昔から好みだった。親友は、「ホテルの近くのバーなんてヤりたいだけの男ばっかりじゃない?」と言っていたけれど、そうでもないのはこのおちついた雰囲気のためだろう。ダウンライトは最小限の明るさで、それでいて頼りないくらさに引きずられそうにはならない。寡黙なマスターは客がいてもいなくても、頓着することなくシェーカーをふるいマドラーをあつかう。からんからん、とつつましやかな音をたてながらふるえる扉の鈴にすこしだけ首をすくめてから「こんばんは」と声をかける。かけながら、ちらりと店内に視線をめぐらせた。くうきの上をたゆたうジャズの、ベースソロがはじまる。

 カウンターにひとり、男が本を読んでいた。

「こんばんは、お久しぶりです」とマスターが微笑みながら、好きな席へと手で促す。男とのあいだを2席分あけて、バッグを背にあさく座った。

「カクテル・ミモザとピスタチオ、お願いします。」

 昼すぎに食べたパンケーキがまだすこし胃におもくて、食事をとる気にはならなかった。かしこまりました、その一言を聞き流してもう一度、男の方をぬすみ見る。

 ほっそりとした体躯になじむ良いスーツを着て、品のいいデザインのネクタイをしている。本のタイトルはわからない、けれども、最近流行っている作品ではなさそうだ。流されない、そんなイメージが頭に浮かんだ。軽薄さとは無縁のじぶんというものを持った男。その白い横顔から目を外して、きれいなかお、と心の中でつぶやく。てをするりと伸ばす。カウンターを押してよこに滑る。

「となり、いいですか?」

 男は少し目を見開いた後、ふわりと鞄をのけて、どうぞ、と笑った。

 笑顔に、あのひとのそれと正反対で、影がなかった。

「何を読んでいらっしゃるのか、気になって」

 男はそっとカバーをこちらに向けた。澁澤龍彦。その立ち居ふるまいとの溝に、ぞくっとする。男はそっとこちらをみて、また手元に目を落とした。

「本を、よむのですか」

 男はしおりをはさんで本を閉じる。同時に、マスターが彼のたのんでいたらしいグラスを置く。ウイスキーの香りがひらく。

「すこし、ですけれど」

 あのひとが書店の店員だと知るまではほとんど読まなかったけれど。「忙しくて」言い訳のようにつけくわえる。私のカクテル・ミモザもそっと届く。ピスタチオの緑色が、爪のいろに合わない。

「お仕事帰りですか?」

 ピスタチオを噛み締めたあと、のこる香りにむせそうになりながら訊く。

「はい、飲み会はなんだかうるさくて、いや、あの普段は好きなんですけど、今日は気分がのらなくて」

 何故か言い訳がましく説明する男にふっと笑ってしまう。こうも自然に笑ったのはいつぶりだろう。ハイヒールをわざと鳴らす。

「私でよければ」

 カウンターテーブルの下で男のてのひらを握る。男はもう一度目を見開いて、細める。背後のジャズが息をとめる。てのひらが、握り返される。



 風呂場で熱い湯をあびながら男の鎖骨をかむ。ぶあつい手がのびて体が痙攣するたびに引き寄せられる。バランスを崩して男の背中がかべに、どん、と当たる。鎖骨のみぞを指と舌でなぞりながら、男が持っていた澁澤龍彦をおもいだしていた。顔を持ち上げるとシャワーのしぶきから庇って上から顔がおりる。唇をくわえられる。舌がからまる。はげしい、でも怖いと思うことはなかった。触れるてのひらが優しいからだ。岩元さん、とさっき知った男の名前を、息がとぎれたときに呼ぶ。ん、と目が合う。自分の顔がうつる茶色い瞳をみないようにもう一度唇をもとめた瞬間、引き寄せられて壁におしつけられる。ふかくふかくキスをする。男の唇が私の唇から耳にのぼって舌を入れると同時に、つける、と簡潔に問われたとき脳が爆発した。まよったあと首をよこに振る。男は息を吐いた後、すこし膝をかがめて入ってくる。立ったまま男がふかく侵入するたびに乾いた声がのどを走った。膝がくずれて、男が奥をついたとき、いとも簡単に果てて、すき、が漏れ出た。ターコイズブルーのネイルは濡れて、うすあかるい光に反射している。

 自分自身がとおかった。

 ベッドに移動してもその感覚はあまり変わらなかった。ただ男よりもとおくに自分がいる気がしていた。天井から私をみているもうひとりの私がいるように。ひさしぶりにセックスをすると感情をぬきにした純粋な欲望がつきあげることがあるけれど、そういうわけでもない。快感はある。ただそれもどこか霧の向こうのできごとのようで、実感はともなわない。においも、あせも、感情も、べつの星からおくられてきた信号のように曖昧で、ぼやけている。シーツの冷たさだけがやけに現実的だった。声をあげながら、ちがうな、なんかちがうの。別の私がどこかで言っていた。

「なんかあったんですか」

 ふいに男の手がとまった、と思うとそう問われた。

「え」

「いや、なんか俺のこと見てないな、悲しんでる人のセックスだなって」

「なんですか、それ」

 笑おうとして、でも無理だった。セックスで男に感情がばれたことがなかった。男は私たちの感情には興味があまりないからだ。刹那の関係なら特に。岩元さんは上にのしかかるのをやめて、よこに腰をおろす。

「悲しいことを掻きだそうとしてる人、なんかわかるんです、自分を傷つけているみたいで、そんな人とやっても俺も苦しいだけだし」

 敬語がまざりながらも、俺、がでてきて、このひとは本当に心配しているのかもしれないと気付く。そのとたん、ただその一言がほしかったのだと、ただ傷の端を共有してくれる人間がほしかったのだと、からだの侵入ではなくてこころの侵入をだれかに許したかったのだと、あふれる。

 結局、私が泣きやむまでずっと男は背中をさすりつづけていてくれた。

「すきだった人が死んだんです」

 片想いだし、話したこと全然なかったし、触れたこともないし、馬鹿でしょ。世界で一番傷ついたみたいに泣いて、馬鹿でしょ。そういいながら泣く私を抱きながら男は息を吐くような笑い方をした。

「馬鹿じゃないでしょ、死んだんじゃん、人が死んでなんで悲しんじゃ駄目なんだよ、意味わからないですよ。泣けよ」

「だって私に悲しむ権利ないです、私、なにも」

「だから悲しむ権利とか義務とか感情にないから、泣きたいときは泣けばいいし、誰かを傷つける感情以外は自分のものであっていいんだよ」

 たったひと時のつもりだった男にここまで救われて、私は癒しなどではなくて、同じ傷をながめて同じ感情をもってくれる一瞬の人がほしかっただけなのだと、いまさら分かる。

「わすれなくていいと思いますか」

「わすれたいと思ってもわすれられるものじゃないですよね、だったらずっと悲しんでればいいんだよ、悲しみ続けるのは無理だからさ、いつか、変わる時がくるかもしれない」

「……やっぱり、いつかはわすれるものですよね」

 涙をふいてから出した声が思っていたより硬く大きく、自分でもおどろいた。わすれてしまう、ものなのか。ひとの記憶のたしかさを、あいまいさを、私はわからない。記憶がどうやって消えていくのか、わからない。記憶はこされていくのか、記憶はにじんでいくのか、記憶はしずんでいくのか。言われたら思い出す、見たら思い出す、それは記憶している、なのだろうか。あるいは確かに覚えた筈のものを忘れてしまったとき、その記憶はいったい、どこへ消化されてしまったのだろうか。出あうその瞬間まで忘れていたあの子、街角でかいだことのあるにおい、記憶は。「だから、わすれたいなら何もしなければ、ただ悲しんでいればいい。わすれたくないなら、努力するしかないですよね、何か、何か覚えていられるものを持つ、とか」

 もの。

「それは、え、形見ってこと、ですか」

「死んだ人を覚えるならそうなりますよね」

 形見。あのひとの手から受け取った本。ちがう、それはあのひとを介しただけで。あのひとを覚えていられるもの。頭を岩元さんの言葉がかけめぐって、あ、と思う。

「ポップ」

 え、と岩元さんが間の抜けた声をだして、そのせいで余計にはっきりとした。

「ポップ、貰えないかな、書店員なんですよ、文字、覚えてられますよね、ポップだ、そうだ。今、何時ですか」

 岩本さんは何だかわからないままにスマートフォンを確認してくれた。「10時過ぎたところだけど、書店?その人、書店員なの」

 そうなんです、10時ならまだ閉まって間もないですよね、言いながら、下着を急いで身に着けて、ドレスを拾い上げる。着替えている間にも急に帰る用意をはじめた私を引き留めないどころか、そっと持ち物をひきよせてくれる彼にまた、救われていると気付いて、ふりかえって微笑んだ。

「今日は楽しかったです、すっきりしました」

「俺も、また会いませんか」

 頷いて、岩元さんに連絡先を渡して、パンプスを履く。「ありがとうございました」

 ホテルをとびだす。ここから本屋までは近い。最初はあるいていたけれど、次第に早足になりいつのまにか、駆け出していた。



 はんぶん閉まったシャッターから光が漏れていて、まだ人の動く影はときおり外に長く揺れていた、間に合った。すみません、と声をかけて数十秒くらいの後、若い男の人が出てくる。手に数冊の本をかかえて、反対の手でシャッターを押し上げて。

「なんですか」

 なんですか、責めているような口調ではなかったけれど、自分がなぜここにいるのかが滲みはじめてその問いにすぐには答えられなかった。

「忘れ物とかですか」

 どこかへ行ってしまった言葉をさがそうと考えている私を見て、バイトらしき男の子は自分の訊き方がわるいと思ったのだろう、いくらか優しい口調できき直してくれた。

「いえ、あの、島尾さん」

 なにか、なにか伝えなければと思って、出てきた言葉が最悪だった。

「島尾が、どうしましたか」

 男の子は身構えてしまった。シャッターをあげる手をおろして私に集中している。けれども、言わなければ。くちがかわく。

「島尾さんの書いたポップとかって残ってないですか、形見になるもの、欲しくて。ここに勤めていらっしゃったなって」

「ああ、彼女さんですか」

 や、知り合いなんですけど、仲良くしてもらってて、と嘘をついたけれど、男の子は疑う風でもなく、そうですか、と笑って続けた。

「ポップ、ちょうど今日棄てようと思ってたんです。バックヤードにあるので、中に入って待っててください」

 あのひとのいない本屋は電気だけがまぶしくて、どの本も面白そうには見えなかった。あのひとが書いたポップのない本屋。平積みになった主人公の彼女が死んでしまうのだろうタイトルの青春小説を見て、ばか、とつぶやいた。寿命が分かっているだけ、幸せだと思えよ。

「ありました、5枚あるんですけど、一応家族の方にも訊くので、2、3枚にしていただけると助かります」

 1枚でいいですよと笑って、あのひとの字をみつめた。

 なめらかで、整っていた。

 あのひとそのものだった。

 ホテルで泣きすぎたからもう涙は出ないと思っていたのにあふれそうになって、押しとどめる。中でも一番長く、うつくしく書かれたポップを引き抜いた。

 牧原楓「ワーテルローの手紙」

「あ、それ、島尾が一番好きだった作家ですよ」

 男の子が見る目ありますね、と冗談めかした。その言葉にもう一度ポップを見る。牧原楓。まきはら、かえで。この作家をみるたびにきっとあのひとを思い出すのだろう。

「じゃあこの作家の本もいくつか買って帰っていいですか、もしレジ閉めてなければ」

 まじですか、ありがとうございます。男の子は文庫と文芸の棚を回って、3冊の本をとった。さっきのポップのワーテルローの手紙、これが新刊ですね、あとこれはデビュー作。これは俺からのおすすめです、そういって見せる表紙にはどれも澄んだ雰囲気の写真が使われていて、あのひとらしいかもしれない、と思う。じゃあそれで、と言って、ふくろに三冊の本とポップを入れてもらう。

 外にでると、一番に、オリオン座をみつけた。冷たい風がふきつけて春はまだすこし気まぐれだった。ハイヒールを鳴らして、あるきだす。てのひらのなかに、あのひとの好きな本と、あのひとの文字。わすれられない、わすれない、新しい恋なんてしない、あのひとを知らない私にはもう戻れない。

「お姉さん!」

 角まで歩いたとき叫び声にふりかえると、さっきの男の子が書店のエプロンを手に持ったまま走ってきていて、忘れ物をしたかもしれないと焦った。けれども男の子が発した言葉は、想像していたものとは、違った。

「お姉さんって先輩のこと好きだったんですよね」

 え、とほんとうに間の抜けた声がした。先輩、があのひとを指すのだと分かってからも、なにがなんだか分からなかった。なんで。

 声に出ていたらしい。

「思い出したんですよ、よく来てたお姉さんじゃないかって、好きだったんですよね、先輩のこと見てましたよね、ずっと」

 え、や、だからそんなんじゃなくて。他人にばれるほどあのひとを見ていたらしい自分に恥ずかしくなったのと、過去形であのひとが語られていくことの悔しさと、面と向かって好きだったを発し続ける男の子にとまどったのとで頭が真っ白になった。え、と、や、と、その、を何度もくりかえして、けれども続く男の子の言葉にひきもどされた。

「忘れたくないんですか」

 わすれる。

「乗り越えられないじゃないですか」

 乗り越える。何を、人の死を、なのか。

「ずっとずっと想っても辛いだけですよ」

 知っているよ。そんなこと。

「俺は忘れたい、あのひとが飯おごってくれた日とか、あのひとに研修してもらったこととか。痛いんですよ、思い出すと。忘れたくないんですか、俺もわかんないんですよ、家族なら忘れたくないし、でも他人じゃないですか。どうせ。結局たった1年かそこらしかお世話になってなくて、あのひとの何も知らなくて、本当なら死ぬところなんて知らないまま二度と会わなかったかもしれないんですよ。忘れたくないんですか、それでも」

「わすれられないよ」

 私は、泣いていた。男の子の痛みが、そのまま私の痛みとそっくりだったから。

 驚いて、それから自分が泣かせたことに気づいて焦る男の子を見て笑った。笑いながら泣いた。だいじょうぶだいじょうぶ、友人といたときとは違う、自然なだいじょうぶ、が漏れた。あのひとをわすれないと決めたことで、私は傷ついていくだろう。だからこそ、それを決めてしまったからこそ。

「あのひとの何もかも、わすれられないよ、でもきっとわすれてしまうんだよ。記憶はね、こされて、にじんで、しずんでいくの。どれかとかじゃなくて、記憶は最後に光と影とになるところまで、分かれていくのよ。色んな方法で。私たちはぼんやりあかるい闇からうまれたように、そこに帰っていくの。あのひともいつかは消えていくよ」

 だから。

 消えていくことに苦しむことよりも、消えないことに苦しんだ方がずっといい。消えたものは戻らない。消えないものは、いつかは消える。いつかは、あのひとも、私の人生の、ただの光と影になる。いつか後悔するなら、消えたことを悔やむより、消えなかったことを悔やんだ方がずっとずっと希望がある。

 私たちは生きる限りうしなうの。

 すべて、たいせつなものまで、時間と空間がたべてしまう。

「そう、ですか」

 男の子はすこし不満気だった、わからないのだろう。若いからだ、まだ。

「そう、だから貴方も、わすれられないならもういっそ覚えておきなさい。あのひとの良いところももし知っているのなら悪いところも。どうせあのひとを知る前の貴方にはもどれないんだから」

 どうせわすれてしまうのなら、いま忘れなくてもいい。

 無理にわすれようとしなくていい。

 もしもわすれていくことに気付くときが来たら、それをもう一度悲しめばいい。

 悲しむことで、あのひとはまたすこし、私の中でいきのびるから。

「じゃあね」

 男の子に手を振って、笑う。ありがとうございました、と頭をさげた彼が書店に戻るまでを見届けてから、前を向く。

 わすれて、いくものですよね。

 その声が頭の中にきこえた瞬間、全て受け入れたのと引き換えに、痛みがとまらなくなった。だいじょうぶなんかじゃ、ないよ。無理だ。

 あのひとは、死んだ。

 


 ハイヒールで疾走すると一人でもいきていけるような気がしてそれはとても怖いことだったけれどどうしようもなく楽しいことでもあった。風のことだけをかんがえて、足のことだけをかんがえる。そうやって足を動かしていけばどこまでも行けるような気がしていた。昨日おでんを買ったコンビニや去年新しくできたケーキ屋が流動体になって街をぐちゃぐちゃと歪みながら流れていく。息が切れはじめる。ああ私はどこにも行けないのだと分かってしまう。今まで気が付かなかった靴擦れの熱がじんわりと体の内側にやってくる。草がのびほうだいの河原につく。急に止まった私に舌打ちをして通りすぎていく古びた鈍色の自転車に乗ったおじさん。私はしゃがみこんで、水族館のマグロより不自由だな、私、と自己嫌悪のふりをしている。手もつかずにそのままうしろに倒れ込む。目に草が入ってすこし痛い。見上げると、さっきまではいなかったはずの夜がすぐそばにまで来ていた。今の私はオリオン座を見つけることができる。ベテルギウスとリゲル。けれどもオリオン座を教えてくれたあのひとはもう、いない。もらったポップをオリオン座に並べて、声をあげて泣いた。


 私はひとりだ。あのひとの声を、あのひとの横顔を、あのひとの香りを忘れるまで。ずっと。私は、ひとりだ。囚われて、傷ついて、変われないまま。


 すき。すきです。あなたのことだけが、わすれられない。

「わすれて、いくものですよね」

 わすれたくない。わすれるのだ。新しい恋。わすれてしまえ。わすれないよ。すき、すきだったんです。わたしはあなたが、好きだった。

 けれどもひとは何かをうしなうことでしか進めない。てのひらはあまりにも小さいから。

 かざしたてのひらに、オリオン座が、透けて見えた気がした。

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