第37話 ティータイムは和やかに

 神宮司家の車で帰宅した僕は、服を着たままベッドで眠り込んでしまった。

 深い。深い眠り。僕は夢一つ見ることなく眠り続けた。


 目が覚めると夜は更け、物音ひとつしない。家族は寝てしまったのだろう。

 時計を見ると、もうすぐ日にちが変わろうとしていた。


「こんな時間まで……そういえばお腹が空いたな」


 今日は昼ごはんもろくに食べていないのだ。空腹で目が回り、力が入らない。

 なんとか食堂へたどり着くと、


『食事は冷蔵庫の中にあります』


 と、手紙があり、冷蔵庫の中に肉じゃが、ほうれん草のおひたし、みそ汁が入っていて、それをレンジとコンロで温めた。

 

「母さん。感謝!」


 食堂で一人、礼の言葉を口にした。


「うまいな〜」


 肉じゃがに舌鼓を打つ。


「うまくいってよかったな」


 ここ数日の出来事が、映画を見るように思い出される。


 布地を探して歩き回ったこと。チュールやレースを縫い付けたこと。

フランの衣装を着た日菜。舞台の中央に立つフラン。日菜の首元を飾る白いクロッシェレースの襟。日菜の保護者の様に僕の隣に座った部長。

 何もかもが夢の中で起こったことで、現実ではない気がする。


 胸ポケットから、新聞の切り抜きを取り出す。

 パリに本部を持つある財団について書かれたものだ。それに日菜の母親の姿を見た。

 彼女はそこで理事を務めている。

 現在の夫は現地企業の経営者で、彼との間に子供もいる。


「立派な人だったんだ」


 仕事のために一時帰国していると、記事にはあった。

 母さんは、彼女の日本滞在中に日菜と対面させるつもりなのかもしれない。


 今日は疲れすぎている。僕は考えるのをやめた。


「ごちそうさまでした!」


 食事を片付け、再び眠りに就いた。


 



 数日後、母さんは日菜を連れて出かけた。

 『あの人』に会いに行くために……。

 ホテルのラウンジで待ち合わせているという。

 日菜は、自分の出生に気づいていた。

 その間の日菜の気持ちは、どんなものだったのだろう。

 今となっては、慮ることさえできない。


 僕は、黙々とレースを編み続ける日菜を思い出した。

 もしかしたら、言葉にできない思いを込めながら編んでいたのだろうか?

 サイドテーブルの上のドイリーを見る。

 

 ―― 優しい温もり。心休まる暖かな編み目。

 

 日菜の心は健やかに保たれていたのだろう。

 ……僕はそう信じたい。


 日菜の母親は、やはり母さんの遠縁の人だった。母さんと同じ学校に通い、パリでの編み物仲間の一人だったという。彼女の父親は、伯父さんが会社を継いだ時に力になってくれた人だと聞き、伯母や親族連中が、日菜にだけ優しかった理由がこれで理解できた。


 日菜は、三月の晴れた日に、僕らが暮らしていたアパートのすぐ近くの病院で生まれた。春の日ざしのような暖かい子に育ってほしいと、『日菜』と名付けたのは、日菜を生んだ人だった。

 だが、彼女は婚約者を亡くしたショックから立ち直れず、僕の両親が日菜を養子にした。


 母さんは、女性たちの優しさに救われ、僕はこの世に生を受けることができた。

 その話を聞くたびに、有難く思いながらも、生まれながらに負債を背負わされたような重苦しさを感じることさえあった。

 でも……日菜も同じだった。優しさが日菜を救い、今、僕の目の前にいる。

 日菜が存在しなかったら……。そんなことは考えることさえできない。

 世界中の善意に感謝したいくらいだ。


 “お兄様は人の役に立ちたいんですね”

 

 フラン。僕はあの時、ひどく慌ててしまったけど、君のいう通りかもしれない。

 僕も、いつか誰かを助けられる人間になりたいと思うよ。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 日菜が笑顔で手を振る姿を、いつものように見送る。


 僕と日菜は、生まれる前から繋がっていたんだ。編み込まれたレースの糸のように。

 

 でも……。

 『あの人』と初めて会った日のことを思い出す。

 『血』という濃い繋がりを思い知らされ、苦い思いが胸を満たしたあの日のことを。


 ―― 僕らは兄妹ではなくなるのか? 僕らを繋いだ糸は、ここで切れるのか?


 僕は自室で日菜の帰りを待った。

 ひどく長く感じられたけど、ほんの数時間のことだった。


「ただいま!」


 日菜が帰ってきた。


「ただいま! お兄ちゃん!」


 日菜の明るい笑顔。くるりとした丸い目。栗色の髪。

 何も。

 何も。

 変わらない。

 僕たちは家族なんだ。


「お帰り」


 僕は、いつも通りに日菜を迎えた。


 その夜、日菜は僕の部屋に来ると、『あの人』の話をした。

 嬉しそうな姿が少し妬けるけど、悲しむ姿をみるよりずっといい。

 

 春の夜が更けてゆく。

 僕らは時を忘れて語り合った。

 








 その週の休日のことだった。

 

 目を覚ますと、すでに昼近く、十一時だった。


「あちゃー! いくら休みだからって寝すぎだろ!」


 慌てて服を着て階下に降りると、居間の方が騒がしい。

 


 “きゃー!”


 黄色い歓声。


 もしや……。

 眠い目をこすりながら覗く。

 やっぱり。

 日菜とフランだ。



 居間は女子中学生二人に占拠されていた。何が楽しいのか? ソファーの上で、くすぐりごっこの真っ最中だ。


「あれ? 今日、手芸教室は休みだよね?」


 二人に話しかけると、


「お兄ちゃん!」


「お兄様!」


 ついこの間まで、小学生だった二人が一斉に僕を見た。


「あれ!?」


 僕はぎょっとする。


「ふみゅー! お兄ちゃんが【こういうの】好きだからって、フランちゃんが買ってきてくれたの!」


 二人はお揃いの猫耳のカチューシャをしている。

 か、かわいい!!

 フランがペルシャ猫なら、日菜はスコティッシュフォールドだ!

 

 思わず顔も緩むよ。どんだけ、だらしない顔をしているんだろう?

 それでも、僕は慌てて、にやけた顔を引き締めると、


「そんなこと僕は言っていないからね!!! なんだよ! 【こういうの】ってさぁ!」


 思いっきり否定するけど、なんて説得力がないんだろう。

 できることなら、腑抜け顔を見られる前に時間を巻き戻したいよ!


「ふみゅー???」


「お兄様?」


 二匹の子猫が顔を見合わせた後、“ひょこん” と首を横に傾けて僕を見た。

 

 く、くうぅぅぅぅぅ~~~!!

 か、かわいいじゃあないかぁ~~。


 それにしても……。

 

 なんだ? この二人。【仲良し】がパワーアップしてるぞ!?


「あ、そうだ! フランちゃんがね、マドレーヌを焼いてきてくれたの」


「そ、そうなんだ?」


 僕は、再び顔を引き締め、何事もなかったように振る舞う。


「朝五時に起きて焼いたんです」


 フランがいそいそとバスケットのマドレーヌを僕に見せると、


「フランちゃんえらいなぁ。それに比べて……」


 日菜が寝ぼけ眼の僕をチラ見した。


「あれ? 日菜? 新しい服?」


「うん! 先週ママとお買い物したの。背が伸びたから、新しいお洋服がまた必要になっちゃった。似合う?」


 日菜はミントグリーンのチュニックに、ネイビーのコットンパンツをはいている。

 僕の前でくるりと回ると、チュニックの裾が翻った。

 言われてみれば、日菜は少し背が伸びたみたいだ。


「う、うん」


 僕は、もごもごと返事にならない声を出す。

 に、似合うよ。それにすごくかわいい。

 日菜はますますお洒落になった。


 その時、


「いいかしら?」


 背後で聞き慣れた声がして、僕は勢いよく振り返る。


「部長!」


「インターフォン鳴らしたけど、返事がないし、ドアは鍵がかかっていなかったわ。不用心よ」


「は、はぁ」


 また、母さんのうっかりだ。

 それにしても、なんてときにこの人は来たんだろう。

 予想通り、部長は猫耳中学生をじっと見つめた。


「ふーん。やっぱり【こういうの】が、坂下君の趣味なのね。私もつけてみようかしら」


 部長が優しい笑顔と、冷たい声で言うと、


「あら! お姉さまはお綺麗だから、【こういうの】を着けたら子供っぽくなってしまいますわ! お姉さまには似合いません!」


 フランが可憐に、そしてきっぱりと言った。

 氷の女王を、“シャーン”と毛を逆なでて挑発する子猫。子猫の武器は小さな爪のみ。

 フラン! 君はなんて怖いもの知らずなんだ! 僕の神経の方がもたないよ!


 僕の顔は青くなったり赤くなったり……。まるでリトマス試験紙だ。

 そんな有様を見て、


「ふみゅ~??」


 日菜がきょとんとしている。


 部長は一瞬たじろいだけど、


「今日は美味しい紅茶が手に入ったから持ってきたの」


 すぐに体制を整え、手提げ袋から缶を取り出す。


「行きつけの紅茶屋さんが、ダージリンの夏摘みを届けてくれたの。今朝入荷したばかりのお茶よ。あら……。あれは?」


 部長が、テーブルの上のバスケットを見ると、


「フランちゃんがお菓子を焼いてきてくれたんです」


 日菜が言った。


「ちょうどいいわ。お台所貸していただけるかしら? 美味しいお茶の淹れ方を教わっているの」


「お姉さま! お茶の淹れ方を教えてください!」


 日菜が気色ばんで言うと、


「いいわよ。ほんの少しの工夫で美味しくいただけるのよ」


 部長がいつも以上に優しく振る舞う。


 あれ? 部長の【お姉さま感】がパワーアップしてるぞ? 


「フ、フランも!!!」


 それを見ていたフランが負けじと続く。


 ―― バチンッ!


 フランと部長の目が合い、火花が散った。

 ……ような気がした。

 き、気のせいだ。

 きっと。きっと……。


 するすると部長がキッチンへ入って行き、それに日菜とフランが続く。日菜が菓子皿を持ってきて、フランがそれに菓子を乗せる。二匹の子猫の耳が揺れる。

 ものすごいチームワークだ。

 いつからこの三人はこんなに仲良くなっていたのだろう?

 部長がティーポットとカップをトレイに乗せて戻って来ると、カップにお茶を注ぎ、僕はその姿を見守った。


「さあ。楽しいお茶の時間よ」


「わーい」


 少女たちが歓声を上げる。

 楽しそうだ。

 楽しそうだ。

 ……でも、このヒリヒリするような緊張感。 

 穏やかな午睡はぶち壊され、平穏な時間の終わりが告げられたのだ。

 

「ま、いいか」


 僕は鏡を見る。

 

 平均より少し高い身長。やせ型。短く刈られた髪。特に目立った特徴のない容貌。それほど悪いわけではなく、むしろいい方かもしれない。

 でも、何かが足りない。そんな気がしていた。


 ……でも。


 こんな僕でもいい。

 彼女たちといると、そう思えるのだから。


 


 和やかな。和やかなお茶の時間が始まろうとしていた。







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モデラシオンな僕ときゃべつ姫 志戸呂 玲萌音 @monokakisibou

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