第17話 聖母の舌打ち

 放課後、本屋で参考書を買うついでに、ほかの売り場に立ち寄った。

 読みたかった本や、興味のそそられる本が並ぶ中、つい時間を忘れて売り場をぐるぐると回ることになってしまった。

 そんなことで、家に着いたのは、夜の七時近かった。


「おかえりなさい。慎ちゃん」


 シフォンのワンピースを着た母さんに迎えられる。緑に花の模様の入ったよそいきの服だ。母さんは、これを大切な人に会うときに着る。


「あのね。お父さんの仕事のお客様からご招待を受けているの。あら? 慎ちゃんに言ってなかったかしら?」


「うん。聞いてない」


 母さんは、時々こんなうっかりをする。

 まぁ、大したことじゃないからいいけど。


「わかったよ。僕は日菜と何か適当に食べるよ」


「それがね。日菜ちゃんは、この前の水族館に一緒に行ったお友達。女の子が三人いたんだけど、その中の一人の家にお泊りに行くことになったの。言ってなかったかしら?」


「うん。聞いてない」


 またうっかりだ。


「水族館に行ったときに意気投合して、お泊り会をすることになったの。三人でお泊り会をするのよ。いずれ家にも来るから、その時はよろしくね」


 母さんは家を出ていった。


「さてと……」


 何を食べようかな……。

 一人だと、どうでもよくなってくる。


 棚にパスタセットがあったことを思い出す。この前母さんと食べた残りがあるはずだ。……が、あてにしていたパスタセットはなかった。


 母さんがお客さんと一緒に食べたかな?

 冷蔵庫の中を見ても、これといってめぼしいものはなかった。


「そっかー。これから買い物をして作るのも面倒だな。コンビニ弁当でも買ってくるか……」


 諦めて外出しようとしたとき、


 ―― ピンポーン


 インターフォンが鳴る。


「はい」


 返事をする。

 誰だろう? こんな時間に。


「私よ」


 聞き覚えのある声。


「部長!?」


 神宮司部長だった。


「待ってください。今、開けます」


 なんだっていうんだ?


 ドアを開けると、神宮司部長が、結婚式の引き出物を入れるような手提げ袋を提げて立っていた。


「どうしたんですか?」


 部長は、ベージュのブラウスに緑のフレアースカートを履いている。


「日菜ちゃんとLINEをしていたら、あなたが一人だって聞いたので、お夕飯を持って来たわ」


 珍しく優しい表情と話し方。この前罵詈雑言を浴びせた人間と同じとは思えないくらいだ。

 

「ありがとうございます」


 僕はそれを受け取ろうとするが、部長は渡す気配がない。


 あれ?


 帰らないのかな?


 確かに、食事だけ受け取って帰すのは申し訳ない。だけど、僕一人の家に女の子を入れるのは気が引ける。

 お礼ならば後日あらためてすればいいはずだ。


「入るわね」


 部長はいつの間にか玄関に入り込んできた。


「あ、あの……」


 困る。

 でも、玄関であたふたしているところを、誰かに見られるのも困る。


「ど、どうぞ……」


 まぁ、いいか。


 この人をどうこうする気は、さらさらないんだから。


「どうぞ」


 僕は部長を食堂に案内する。


「入れてもらえないかと思ったわ」


 そういいながら、手提げ袋をテーブルに置いた。


「いえ……そんなことは……」


 本当。食事だけ置いて帰って欲しかったよ。


「日菜と親しくしていただいているんですね」


 日菜を人質に取られたような気がする。

 この人とはあまり関わり合いたくないのに。


「ええ。妹のように懐いてくれて、とてもかわいいわ。日々のちょっとしたことも教えてくれるの」


「今日のことも、それで知ったんですね」


「そうよ」


 部長は、手提げ袋から風呂敷包みをとり出すと、するすると紐解いた。


「すごいですね!」


 現れたのは三段のお重だった。

 漆塗りの高級そうなやつだ。使い込まれた感じがする。

 この人は、普段からこういうことに慣れているんだ。


「それからこれ」


 ポットもある。しかも二つ。


「お椀と湯呑をお願いね」


「は、はい」


 僕は部長の言いなりだ。

 いつも通り。


 僕が戻ると、部長がお重を広げるところだった。


「一段目はね……」


 四種類のおにぎりが並んでいる。

 どれも小さくて、交互に数種類食べられそうだ。


「それから二段目」


 そこには和食の総菜が、肉、魚、野菜の煮つけがと数種類入っていて、それぞれが仕切りできちんと分けられている。


「三段目はね」


 苺、カットされたグレープフルーツ、キウイ、リンゴ、それから白玉あずき。

 デザート付き。至れり尽くせりだ。


「あはは……こんなに食べられませんよ」


「何を言っているの? 二人分よ」


 二人分。部長と僕か……。

 今日は観念するしかないな。


 僕の持って来たお椀に、ポットの一つの中身を注ぐ。

 味噌汁だ。食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。


「これはほうじ茶なの。お食事に合うわよ」


 そう言って、湯呑に注いでいく。


 僕らはお椀と湯呑を前に、お重を挟んで向かい合って座った。

 なんだろう。この親密な感じ。

 まるで初めて正月を迎える新婚夫婦みたいだ。


「いただきます」


 まず、おにぎりに手を伸ばす。


「これ! 美味しいですね!」


 状況はどうあれ、美味しいものは美味しい。

 さっきまで死ぬほど腹を減らしていたせいだ。


「じゃこと、ごまと……?」


 なんだろう? シャキシャキとした食感がする。


「みじん切りにした大根菜を入れたのよ」


「うまいですね!」


 僕が夢中になって食べたせいだろうか?

 部長がクスリと笑う。


「ほうじ茶おかわりする? 茶碗が空になっているわ」


「お願いします」


 甲斐甲斐しく世話をされると、本当に新婚夫婦みたいだ。

 平和だ。あまりにも平和で、僕はいつもの部長を忘れそうになる。


 おにぎりの合間に、みそ汁を飲み、ほうじ茶を口に含む。


 それから僕はおかずにも箸をつけた。


「この牛肉のごぼう巻き美味しいですね。味がよくしみています」


「ありがとう」


 部長は、海苔を巻いた白いおにぎりを手にしている。

 それには、こんがりと焼いたたらこが入っていた。


「この枝豆の天ぷらも、鰆の焼いたのも美味しいですね」


 天ぷらも鰆も一口サイズで食べやすい。筑前煮、菜の花のごま和えもある。美味しいだけじゃなくて彩りもきれいだ。


「あら……?」


 部長の顔が近づいてきた。

 甘い香り。シャンプーだろうか。


「え……あの……」


 部長の指が、僕の顔に近づき、胸が早鐘のように高鳴る。


「ご飯粒がついているわ」


 白い指が僕の頬に触れた。

 どきどきが止まらない。静まれ! 僕の心臓!


 なにか話をしなきゃ!


「……これは……部長が?」


「そうよ」


 お手伝いさんが作ったのかと思った。

 そんな状況がなんの不思議ではない人なのだから。


「誰かが作ったのを詰めてきたと思った?」


「い、いえ……そんな」


「お料理は有吉房子ありよしふさこ先生のお教室で習ったの」


 聞いたことがある。母さんが見ている料理番組の先生だ。

 ふっくらとした体に、エプロンをかけた姿が思い浮かぶ。


「確かに、いつも私が作るわけじゃないわ。でもね、家はお客様が多いの。その中には父の大切な取引先の方もいらっしゃるから、滅多なものはお出しできないのよ。だから、自分で用意するにしても、人にお願いするにしても、私も出来るようにしておかなければいけないの」


「家業の手伝いですね? ホビーフェスティバルでも?」


「ええ。父の仕事を理解しておきたいの。前にも言ったでしょ? 役に立ちたいって」


 ――チクリ

 胸に鈍い痛みが走る。棘を刺したような痛み。ホビーフェスティバルで感じたものだ。

 

 【嫉妬】

 

 僕は胸の痛みの正体を知る。

 この人は自分と一つしか違わないのに、すでに大人の世界に足を踏み入れているんだ。いろいろな人と出会って、様々な経験を積んでいるのだろう。

 僕がなす術もなく日々を過ごしているのに。


「興味ある? よければ話を聞くわ。貴方のことは前から気になっていたの。“何かがしたい” と言っても、図案を描くだけじゃ先に進めないでしょ?」


 『図案を描くだけじゃ先に進めない』

 その通りだ。

 初めてだ。こんな風にストレートに言われたのは。


 それなのに、


「あ、……これ! ごま油で炒めた高菜ですね」


 僕はおにぎりに手を伸ばした。


「貴方ってサイッテイね! おにぎりの方が大事なの!? ううん。そうやって話を逸らすつもりなのよね。どうして本音を隠すのかしら?」

 

 束の間の平和を惜しむ間もなく、休戦の終わりを告げるゴングが鳴った。

 部長は端正な顔を歪めて、怒りを露わにしている。


 ≪サイッテイ!≫

 その通りだ。僕のためになる話をしようとしているのに、本音を悟られたくないんだ。つまらないプライドがそれをさせないんだ。


「貴方は自分を負け犬のように思っているみたいだけど、貴方の方が見切りを付けたのよ! 過去と親族を振り切って自分の道をみつけようとしている! だから私は力になりたいと思っているのに!」


 僕を正面から見据る眼差しには、真摯な輝きがあった。

 こんなに真剣に僕に接してくれる人が、今までいただろうか?

 両親でさえ親族を気遣って、僕の進路の話がタブーのようになっているのに。


「部長」


 僕の心が揺れる。帰国以来、ずっと誰にも相談できずにいたんだ。

 初めて僕を理解してくれる人が現れたのかもしれない。


「坂下君」


 部長の声が僕を捕らえる。

 聖母マドンナがいる。日菜やフランを虜にした笑顔、慈愛溢れる眼差し。それが僕に向けられているのだ。


 僕は誤解していたのかもしれない。いつだって、この人は話を聞いてくれたじゃないか。今だって、僕の相談に乗ろうと言っているんだ。


「坂下君……」


 部長が僕に手を差し伸べている。





 ―― ピンポーン


 インターフォンが鳴った。

 誰だ?

 

 ―― チッ!

 信じられない音声を耳にする。


 “チッ” ?

 え? 舌打ち?


「誰よ! 大事な話をしているのに!」


 部長が声を荒げ、僕は我に返る。

 蒼く冷たい鬼火のような眼差し。いつもの部長だ!

 この人を女神のように思ってしまったなんて! 催眠術にかかっていたみたいだ。


 でも、誰だろう。こんな時間に。

 誰だっていい。僕を危機から救ってくれたんだ。


 僕は転がるようにインターフォンへ走り出した。


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