第3話  初夏の庭と白い指

「行ってきま〜す」


 僕たちは家を出て学校に向かった。


 歩くたびに日菜のスカートが揺れる。

 その姿を僕はちらちらと眺めた。


 日菜は、指で髪を梳きながら僕の方を振り返ると、


「ねぇ。お兄ちゃん。おかしくない? 似合う?」


 と聞いてきて、


 そのたび僕は、


「うん。似合うよ」


 そう言って再び歩き始める。

 そんなことを何度も繰り返していた。


 やがて日菜が、


「ねぇ。お兄ちゃんどうしたの?」


 怪訝な声で言う。

 

 くるりとした目で見つめられ、言葉に詰まるけれど、何か言わなくちゃいけない。


「あ……あ……あのさ……サイドテーブルの上のドイリー」


 今一番ではないが、やはり気になることではある。


「あれ? うん。 私が作ったの。簡単なやつで恥ずかしいけど」


「そんなことないよ!」


「え?」


 僕の声に驚いた日菜が、丸い目をいっそうまん丸く見開いて僕を見ている。


「ごめん。ごめん。急に大声出して」


「うん。私、びっくりしちゃったわ」


 日菜が、ほっとしたような笑顔を見せた。


「……あ……あのさ。お前上手になったよ。編み目も揃っていた」


「そう? お兄ちゃんに言われるとうれしいな」


 日菜の足取りは、生まれたての小鹿みたいだ。

 風に乗って、軽やかにスキップをする。


 僕らに気づいた近所の人が、


「まぁ! 日菜ちゃん。かわいい制服ね」


 声をかけてくる。


「ありがとうございます!」


 嬉しそうに日菜が頭を下げると、栗色の髪がさらりと揺れる。

 ぶかぶかの帽子をかぶっていた頃には、見られなかった光景だ。


 うん。かわいいよ。

 僕も驚いている。


「ほら! 駅だよ!」


 車両に乗り込む。


 僕は電車通学が初めてだ。


「じゃあ、私はここで降りるから」


 先に降りた日菜が、ちょこんとホームに立っていた。

 赤いリボンタイと、栗色の髪が風になびいている。

 ホームから小さく手を振り、僕を見送ろうとしていた。

 新しい制服になって、正面から日菜を見るは初めてだ。


「か、かわいい」


 思わずつぶやくと、隣のおじさんがチラリと僕を見た後、すぐに関心を失って、手に持ったスマホに視線を戻した


 かわいいよ。日菜! 兄にそんなかわいい姿を見せてどうするんだ。


 “ほら! 早く学校に行かなきゃ! 遅刻しちゃうよ!”


 窓外に向かって、顔をしかめたり、頭を振って伝えようとすると、ホームで日菜が面白そうに笑う。


 ったく! 面白がらせるつもりはないからね!

 

 降車が終わると、入れ替わりにホームから乗客がどっと乗り込んでくる。

 僕は人に押され車両の奥に流された。もう日菜の姿を見ることはできない。

 この路線は、この駅から混雑し始めるみたいだ。

 僕は、初めての満員電車に早くも参りそうだった。


「いやー! これからずっとこの生活が続くのか」


 思わず愚痴が出る。


 学校は、最寄り駅から徒歩十分くらいのところにある。


 入学式が終わると教室に入った。


「女子はセーラー服なんだな」


 紺のセーラー服。リボンの結び方や、上着、靴下などは自由で、女子たちは工夫して着こなしているみたいだ。


 とりあえずの席順は“あいうえお”順。

 近くに座るのが、どんな人間かは分からないので、とりあえずは様子見だな。


 それでも名前を言って、あいさつ程度はする。

 最初に話したのは、後ろの席の須藤って奴だった。

 くせのある赤みがかった髪。なんとなく浮かべた笑顔。いつもこんなふうなんだろう。でも、嫌な感じではなく、大抵の人は彼に好感を持つはずだ。


 彼もこちらの様子を伺っている。

 気が合いそうな気がしないでもない。


 一人ひとり簡単な自己紹介をして、その日は終わった。


 校庭に出ると、各クラブが新入生の勧誘をしていた。


「ちょっと覗いてみるか……」


 特にやりたいこともないが、ぶらぶらと呼び込みを見るうちに、バトミントン部のブースに目が行く。

 練習着を身に着け、片手にラケット、片手プラカードを持って呼び込みをしている。


「短パン? この寒いのにご苦労なことで……」


 彼らを眺めていると、


「坂下君はバトミントンにするの?」


 背後から声がする。振り返ると須藤が立っていた。


「あ……いや。中学の時はやっていたけど」


「へぇ。偶然だね。僕もだよ」


「だけど、あまり振るわなかったなぁ」


 恥ずかしくない程度の成績は残している。

 でも、あと一歩のところで伸び悩んでしまい、それ以上先に進めなかった。

 高校で続けても、同じこととの繰り返しになるだろう。


「そっかー。僕もなんだよ。もう続ける気になれないな」


 笑顔の須藤が言う。


「バトミントンだけじゃなくて、部活をするつもりはないんだ」


「そっかー。やっぱり受験一筋?」


 僕の通う高校は、進学校として知られている。


「いや……そういうわけでもないんだ。一つのことに打ち込む気はないってことさ」


「僕もさ。いろいろな経験をしてみたいな。広く浅く? 勉強はおろそかにできないけどさ。ところで、敬称外してもいいかな?」


「うん。いいよ。僕もそうしたいと思っていたんだ」


 バレーボール、バスケット、テニス、美術、軽音……。

 様々なクラブ部員がユニフォームやメンバー・シャツを着て呼び込みをしている。


「そろそろ行こうか?」


 僕が言うと、


「そうだね。もともとその気はないんだ」


 須藤が同意した。


 そのとき、


 僕の視野から白いものが流れ去ろうとしていた。

 一瞬の出会い。


 こんなときは、何か大事なものが隠されているんだ。


 僕は振り返る。


 ――白いテーブルクロス。

 

 クロッシェ編みの……

 

 テーブルの端からこぼれた先端しか見えないけど、おそらく初夏の庭をモチーフにしたものだろう。


 つる薔薇、金雀枝えにしだ、くちなし……木々で揺れる緑の葉。


 見事な出来だ!

 呆然と見つめた。



 ―― がっしりと掴まれる。


 ……心を……


 じゃなくて、腕を。


 えっ? 腕?


 なんで?

 なんで腕?


 僕は腕を見る。


 掴んでいるのは、白い手。細く長い指。


 手の主を見た。


 黒髪が、夜の川のように肩から背中に流れ落ちている。

 細面の顔立ち。陶器のように白い肌。

 二重でぱっちりとしたアーモンドの瞳。目じりが、すっと細い切れ長の目だ。

 かなりの美人だ。だが、その美貌は研ぎ澄まされ、怜悧な印象さえ受ける。


 “美人” は椅子に座ったままで、立っている僕は下から引っ張られる状態だ。バランスを崩して危うく転ぶところだったが、なんとか踏ん張って堪えた。

 それでも腕をつかまれたまま、体は下に傾いている。


 “美人”は目をらんらんとさせ、こちらを睨んでいる。

  

 彼女の少し薄い唇が開いた。

 囁くような小さな声。

 だが、心に食い込んでくる。

 針のように。


「今、テーブルクロスを見たわね」


「えっ?」


 見ちゃいけないの? そんな決まりがあったの?

 僕はあっけにとられた、そして掴まれた右腕に目をやりながら、


「はぁ……見事な出来ですよね」


 と言った。

 言いたいことは他にあるけど。


「これだけ作品が乗っているのに、敷物のクロスを見たのね」


「えっ?」


 テーブルの上には、レース編みのコースターやショール、パッチワークのバッグ、ポーチ、ビーズのアクセサリーが並んでいて、それらはどれも趣味がよい。出来もそれなりだ。


 作品を無視したことを怒っているのだろうか?


「このテーブルクロスは祖母の手のものなの。思い入れのある品なの」


 だから?

 何が言いたいのかわからない。


「あ……その……そんなに大切な物なら、こんなほこりっぽいところに置かないで大切に保管した方がいいですよ」


 再び、自分を掴んだ手に目をやるが、離す気配は一向にない。


 周囲は新入生の勧誘に必死で、僕らのやり取りに気づく者はいない。

 呼び込みと勧誘。喧騒の中、僕たちだけが冷たい沈黙に包まれている。


「これだけの傑作を人目にさらすなというの?」


 ますます話が読めなくなってきた。


「そんなに人目につかせたいなら、作品の下に敷かないで、それ専用の掲示板を用意してそこに掛ければ……」


 と言いかけると、


 腕を握る力がいっそう強くなった。


「あ……あの……離してくれませんか?」


 ようやく本来言うべきことを言った。


「駄目よ! 手芸部に入部するまでは!」


 彼女は腕を掴んだまま言う。


 はぁ!? 手芸部?


 全く話が読めない。

 噛み合っていないし!


 僕らは互いに身動きがとれず、その場に凍り付いていた。

 



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