モデラシオンな僕ときゃべつ姫
志戸呂 玲萌音
第1話 妹はきゃべつ
僕の最も古くて、最も鮮明な記憶は、ふんわりとした白い布だった。
レースの襞飾りがついたおくるみ。
持っていたのは僕のかあさん。
母さんは、それを僕に近づけて、
「あなたの妹よ」
そう言ったんだ。
白いレースに囲まれて、ふにゃふにゃした赤ちゃんが、すやすやと寝ていて、顔を近づけるとミルクの匂いがした。
あまりにも弱々しくてちょっと怖かったけど、
「ねぇ。抱っこさせて」
母さんにねだったんだ。
そしたら母さんは、
「もう少し大きくなってからね」
と言って笑った。
赤ちゃんは、僕が生まれたときに使ったベビーベッドに寝かされた。
父さんと母さんは、
「早く名前をつけなくちゃね」
楽しそうだ。
僕らの家族は、パリのサンジェルマン=デュ=プレ教会の近くのアパートに住んでいる。そして僕はこの町で生まれた。
僕が生まれる前、父さんと母さんが結婚してすぐ、二人は父さんの海外赴任で渡仏したんだ。
妹の名前はまだついていない。
妹はしょっちゅう泣いていた。
そのたび、気になってベビーベッドへ覗きに行く。
そして笑うんだ。
僕の顔を見て!
「母さん! 赤ちゃんが笑ったよ!」
と言うと、
「まぁ! よかったわね! あなたのことが好きなのよ。可愛がってあげてね」
母さんが優しく笑う。
しばらくして僕は気づいたんだ。
赤ちゃんは突然やってきた。
でも、赤ちゃんはこんな風に、なんの前触れもなく来ることなんてないってことに。
そのことを遊び友だちのクロードに話したら、
「ああ、それはね。キャベツ畑から持ってきたんだ」
と言った。
「キャベツ畑?」
「うん」
クロードが急に大人びて見えた。
クロードにはたくさん兄姉がいるから、いろいろなことを知っている。
でも、なんだか偉そうでちょっと嫌なんだ。
「僕のお姉ちゃんがそう言っていたんだよ。時々、赤ちゃんはキャベツ畑から貰われてくることがあるって」
クロードが胸を張りながら言った。
「そうなんだ……」
クロードの言葉で僕の疑問は晴れていく。
嫌な奴だけど、相談してよかったと思うよ。
そう言われてみれば、妹はだんだんキャベツらしくなってきた。
弱々しさはなくなり、つやつやとして、まるっとしてる。
確かにキャベツみたいだ。
キャベツ。
きゃべつ。
妹はきゃべつなんだ。
きゃべつはどんどん大きくなる。
よく笑うようになって、寝返りをして、ハイハイをするようになった。
よちよちと歩き始め、僕は手を引いて一緒に歩く。
時々なら、母さんはきゃべつを僕に抱っこさせてくれた。
「ほぉ〜ら。きゃべつ! お兄ちゃんだよぉ〜!」
そうやってあやすと、きゃべつは声を立てて笑い、その声は音楽のようにアパートに響いた。
母さんは僕が妹をきゃべつと呼んでいると、はじめのうちは笑っていたけれど、
ある日、
「ちゃんとした名前があるんだから、それで呼んで」
と言った。
母さんは、ちょっと怒っていた。
それで、僕はきゃべつを父さんと母さんの前では、新しい名前で呼ぶことにした。
「じゃあ、出かけてくるから……」
母さんはベビーシッターに僕ときゃべつを預けて、週一回出かける。
レース編みの集会へ行くんだ。
父さんとこの街に来たばかりの頃、母さんはひどいホームシックにかかってしまった。
父さん以外知り合いのいない街。拙つたない言葉で不自由に暮らす異国。
母さんは、あっという間に追い詰められていったという。
そんな母さんを近くに住む奥さんたちが、レース編みの集会に誘ってくれたんだ。
「あのときは助かったわ。みんなが編み物を教えながら親切に話しかけてくれたの」
母さんが口癖のように言う。
ホームシックは重傷で、重ねて僕がお腹にいたことで心身ともに弱っていたと。
そして……あのままでは、僕が無事に生まれなかったかもしれないといということも……。
母さんは家でもよく編んでいた。クロッシェというかぎ針で編むレースだ。
テーブルクロスや、カーディガン、ショール、アクセサリーにポーチ。
特によく編んだのがドイリーだった。
ドイリーってのは飾りの敷物で、コースターより少し大きいやつかな?
植物をモチーフにして編むことが多かった。つる薔薇やビオラやダリアや木の葉……。
母さんが編み始めると、僕はそれをじっと眺めた。
母さんの手元と、図案をかわるがわる見る。
そのうちに編み方も、図案の記号もなんとなくわかるようになってきた。
「じゃあ。行ってくるわね」
母さんが、いつものように出かけた日、僕は引き出しから予備のレース編みの道具と図案を取り出した。
「ちょっとやってみよう」
軽い気持ちだったんだ。
母さんのチェストを開ける。一番上の引き出しの右側。編み針と縫い針とハサミにメジャー……。レース編みの道具が入っていた。針もハサミも危ないから、母さんは僕らの手の届かないところに置いたつもりでいたけれど、僕は背が伸びて、引き出しを開けられるようになっていた。左側には、ファイルに綴じられた図案が入っている。
きゃべつの機嫌が悪くて、ベビーシッターは、僕のことにまで目が回らなかった。
僕は道具と図案を取り出し、編み物を始めた。
きゃべつがむずがり、それをシッターがあやしている。
子守歌が、切れ切れに聞こえてきた。
Frere Jacques
メロディーを聞けば、誰もが覚えのある有名な曲だ。
懐かしい旋律を耳に、僕はレース編みに集中した。
母さんが編んでいた通りに編む。母さんのやり方は目を閉じれば浮かんできて、そのイメージ通りに編んだ。
いつの間にか……僕は時間を忘れていた。
「ただいま。いい子にしていたかしら?」
母さんが帰ってきて、ベビーシッターに労ねぎらいの言葉をかけ、僕たちを呼んだ。きゃべつの嬉しそうな声と、ぱたぱたと走る足音が響く。
でも、僕は母さんの方へは行かなかった。
そして、母さんは部屋の片隅でうずくまっている僕に気づいた。
「あら……? 何をしているの?」
のぞき込んで、
「まあ!」
驚きの声をあげた。
「これを? これをあなたが編んだの?」
ひどく驚いている。
僕の手にあったのは、基本的な編み方を組み合わせた、九段のモチーフ編みだった。円形の単純なものだけど、これを組み合わせれば、ドイリーやライナー、衣類さえも作ることができる。
「うん」
僕はちょっと試しにやってみただけなのに、母さんが驚いている姿を見て、
びっくりしてしまった。
「まぁ。いつの間に覚えたのかしら? これからは一緒に編みましょう」
それから、僕は母さんと一緒に編むようになった。
母さんは一人で編める。図案も自分で考えることもできるんだ。時には、蚤の市に行って、アンティークのドイリーを見つけては、それを買って家でコピーをしたりもした。
僕も。
簡単なものなら自分で作れるようになり、勉強や遊びの合間に編んだ。
そんな日々が続き、突然、僕らの帰国が決まる。
父さんの勤務先は、母さんの一族の経営する会社だった。
社長だった僕の伯父さんが亡くなり、父さんが事業を継承することになったんだ。
亡くなった伯父さんには、僕と同い年の男の子がいるけれど、当然跡を継げるはずもない。
「そんな……」
話が持ち上がったとき、父さんは顔を強張こわばらせた。
当然のことだろう。何人もの人を飛び越えての人事だったんだ。
でも、周囲は父さんの実力を認めて指名した。
「あなた……無理をしなくてもいいのよ」
母さんが優しく言った。
僕も父さんには無理して欲しくなかった。社長の苦労なんて想像に難くない。
僕にだってわかるよ。
でも、父さんは断るような人じゃない。
すごく義理堅くて、苦労するとわかっていても、引き受けてしまう人なんだ。
「役員のサポートがあるし、お世話になった義兄さんの大切な会社だ。役に立ちたい」
そう言って、引き受けることになった。
その頃から……。いや、それよりずっと以前から、僕はいろんなことがわかるようになっていた。
その一つは……。
―― 子どもはキャベツ畑では生まれないってこと。
きゃべつは。
きゃべつは。
僕の妹じゃぁなかったんだ。
じゃあ、誰の子どもなんだろうか?
どうして僕の家に来たんだろうか?
そんな疑問が湧いてきた。
振り払っても。
振り払っても……。
それが消えることはなかった。
帰国前の最後の日曜日、僕たちは家族でリュクサンブール公園へ行った。
リュクサンブール公園は、僕らのアパートから歩いて十分くらいのところで、僕ときゃべつは、よくここに遊びにきていた。
きゃべつが赤ん坊だった頃、母さんはきゃべつを乳母車に乗せ、僕の手を引いてここに来た。
「今度はいつ来られるかしら?」
母さんが言う。
「また来られるさ」
父さんは言うが、難しいと僕は思う。
父さんはこれからものすごく忙しくなるんだ。
リュクサンブール宮殿を眺めながら、緑に囲まれた道を歩く。
幼い頃から親しんだ公園。
散歩をしたり、子ども用の遊び場で遊んだ。ポニーに乗ったこともある。
でも、この懐かしい場所に別れを告げなくてはならない。
翌日、レース編み集会の友だちの一人が、母さんに別れを告げにきた。
数日前に行われた送別会に、出席できなかった人だった。
母さんにとって、パリでの生活は楽ではなかったはずだ。それでもたくさんの思い出があるのだろう。二人は涙交じりに別れの言葉を交わしていた。
僕もだ。
僕は、僕はこの街で生まれたんだ。
カルチェラタンの街並み。パリ大学にいたる学生街。
この街を離れるなんて、考えたこともなかったよ。
その日、僕は自分の部屋で少しだけ泣いた。
帰国の日がもうすぐ迫っていた。
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