3-7 止まれない
「対中どうした?」
智也に対する揶揄いがひと段落し、やっと彼らが本来の授業の目的を思い出した矢先、今度は智也が落ち着きなく、教室の扉に何度も視線を走らせていた。
「成瀬がいないからって、そんな……すぐ帰ってくるよ」
まるで子どもを嗜めるように口にした関目が、「資料取りに行ってるだけなんだし」とさらに言葉を続けた。
いつもなら、そこですかさず否定の言葉が入るのに、智也は少しの反応さえ示さない。もうすっかりこの手の弄りに慣れてしまったのだろうか、と智也の様子を不思議に思った関目が、首を傾げながら智也を見つめる。
「………やっぱり、俺も行ってくる」
関目の熱い視線すら視界に入っていないとでもいうように、智也はそれだけ口にすると勢いよく席を立ち、戸惑う班員たちを尻目に教室を出た。
「成瀬、資料取りに行っただけだよな?」
関目は再度同じ言葉を繰り返す。
「心配なのよ。色々と」
「色々って?」
「お子ちゃまな関目くんには、まだわかんないでしょうね」
「それ、まだ弄られんの?」
ため息混じりに洩らす関目を面白がるように、秋葉が「私、しつこいのよ」と自信満々に胸を張る。
そんな秋葉と関目は置いておき、久弥が班長に代わって指揮を取る。残る班員は美桜だけなわけだけれど、特に気にする様子もなく、作業の続きに取り掛かった。
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莉李は両手に資料を抱え、特別教室のある校舎を歩いていた。前方にも同じものを手に持ったクラスメイトたちがいて、授業で使うための資料を運んでいる。
あと5分ほどで休み時間に入るという段になって、担任がふと思い出したかのように口を開いた。「旧校舎まで資料を取りに行ってほしい」と。
そのタイミングの悪さに再び教室内がざわつきそうになったのだけれど、それを見越した担任が、「多少遅れてもいいから」と続けた。
同じ授業が二時間連なっている時間割のため、ある程度融通は効くのだ。ただし、休み時間が終われば他の教室は授業に入るため、移動はなるべく静かに、と釘を刺した。
とはいえ、サボれるほどの時間でもないし、何より移動が面倒臭いと思っている者が大半だった。
それでも仕方なく各班から一人ずつ駆り出され、資料を取りに来たというわけだ。
莉李たちの班から莉李が選ばれたのは、彼女が自ら名乗りを挙げたからである。
決してサボりたいという気持ちがあったわけでも、面倒事を引き受けていい顔をしようとしたわけでもない。莉李には、資料を取りに来る他に別の目的があった。
資料室を出てまっすぐ進むと、突き当たりを左に曲がったところで階段に当たる。元の校舎に戻るには、渡り廊下のある階へ行くためにその階段を下るのだけれど、莉李はクラスメイトたちとは反対に階段を上っていく。
一階分だけ階段を上がった。その階には生徒会室がある。
莉李は
生徒会室にも、資料を取りにやってきていた。たった一枚。A4サイズの紙一枚のために、ついでとは言え、わざわざ旧校舎まで足を運んだのか? と思わずにはいられない。放課後でもいいんじゃないか、と。
けれど、わざわざ足を運んだことに理由はあり、手にした紙を見つめながら莉李はため息をついた。
「最近、ダメダメだなぁ」
誰もいない生徒会室に、莉李の声がポツリと響く。
莉李が取りにきた資料は、生徒会担当教員に提出しなければならないものだった。その提出期限は昨日。莉李には珍しく、締め切りを忘れてしまっていたのだ。
今回のこの資料に関しては、一応締め切りを作ってはいたけれど、急を要するようなものでもなく、特にお咎めはなかった。逆に、初めて締め切りを破ったことを心配された。
せめて少しでも早く提出しようと、このタイミングに生徒会室に赴いたのだった。
資料作成は終わっていたのだから、早く提出してしまえばよかったのに。この注意力散漫になっているところが、ここ最近の不運につながっているのではないか、と憂いを隠せない。
そんな憂いを掻き消すように、休み時間が始まるチャイムが聞こえた。その音に、ここで憂いていても仕方がない、と気持ちを切り替えた莉李は、早く提出してしまおうと、職員室の方へと足を向けた。
「あれ、莉李ちゃん?」
生徒会室を出て、来た道を戻り、突き当たりを曲がったところで下から声がかけられる。
「紫希先輩、遠野先輩」
「成瀬ちゃん、どうしたの? この時間に
手摺り側にいる遠野が声をかける。その隣を紫希が歩いていて、二人は階段を上りきるあと一歩のところで立ち止まった。一段分の余裕があるにも関わらず、背が高い彼らは上にいる莉李とほとんど目線が変わらない。遠野に至っては、少し見上げる位置に顔があった。
この二人が一緒にいることの方が珍しいと思う莉李だったけれど、よくよく考えてみると、二人は同じクラスなので、一緒にいても特におかしなことはない。もちろん、クラスが違っていたとしても並んで歩いていてもいいわけで。偶然、遭遇したのかもしれないし。
なんて、本筋に関係ないことを考えつつ、並んでいるところを見ると、二人の髪色もそうだけれど、とても目立つなぁと改めて思う莉李だった。
「もしかして、俺に会いに……」
「この資料出し忘れてて」
紫希の言葉を遮るように、莉李は言葉を被せるとそのまま紫希はスルーで、遠野へと視線を向ける。そのまま、手に持っているものを遠野に見せた。莉李は眉を下げ、とても居た堪れないといった表情を浮かべている。
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
莉李の手元にある紙を見て、事情を察した遠野はいつも以上に声のトーンを和らげていた。元々穏やかそうな顔にも、優しい笑顔を浮かべている。
「次から気を付けようね」
「はい……ありがとうございます」
「でも、初めてじゃない? 疲れてるとか? もしくは、何か気になることでもあるのかな?」
遠野の鋭い言葉に、一瞬ドキリとしながらも、莉李は首を振る。
「完全に私の不注意です」
「そう……何かあったら相談くらいは乗るからね」
「俺でよければいつでも声かけてね」と再度笑顔を向ける遠野の優しさに、莉李は嬉しさを感じる反面、隠し事をしてしまったような罪悪感も感じていた。
そんな感情を隠すように遠野から目を逸らしたところで、紫希と目が合う。紫希は紫希で、何やらよくわからない笑みを浮かべていた。その表情が、というよりは、口を挟まず静かにしていることに違和感を覚え、莉李は首を傾げる。それでも紫希は笑顔を絶やさない。
「それじゃあ、私そろそろ…」
不思議に思いながらも、ここで長話をしているほどの時間的余裕がないことを思い出し、挨拶もそこそこにこの場を後にしようとした。
莉李が会釈をしたタイミングで、通りやすいようにと遠野が最後の一段を上りきり、紫希を手摺り側へと寄せる。その気遣いに再度お礼を告げて、足を踏み出そうとした時だった。
突然、轟音が鼓膜を貫いた。
その音の正体を考えるよりも前に、莉李たちに向かって何かが勢いよく飛び込んでくる。
視界に広がる白。
全身に白を纏った何かは、そのままスピードを緩めない。そんなところに人がいるなんて思いもしなかったのかもしれない。
もしくは、気づいた時にはすでに遅かったのかもしれない。
人も簡単には止まれない。
そこにいる誰もが、あまりにも突然のことに、回避する動きを取れなかった。
飛び込んできた人物は、一番手前にいたものにぶつかって、そのまま後ろに尻餅をついた。
走っていたかのような勢いだったため、ぶつかった地点からは思った以上に離れたとこらで転がっている。
じゃあ、こちら側は?————
一番手前にいたのは、莉李だ。
視界に広がった白は、学ランなわけで。男子学生が勢いよくぶつかり、しかもその張本人が飛ばされているのだから、莉李のような女の子がその衝撃に耐えられるはずもなく……
莉李は、男子学生とは反対側の————階段の方へと投げ出された。
その直後、階段の下で物音がする。バサバサと複数の音が重なる。
衝撃を覚悟して莉李は目を閉じた。
けれど、いつまで経っても想像していた痛みは来ない。
恐怖、もしくは痛みにより気を失ってしまったのだろうか、と恐る恐る目を開けることを試みた。
「……莉李ちゃん、大丈夫?」
馴染みのある声がすぐそばで耳に届いた。心配そうに莉李を見つめる顔も、すぐ横にある。
足は浮いた状態だった。そのまま目線を下に送ると、階段の下に手に持っていたはずの資料が落ちている。
いまだに状況を飲み込めない莉李は、地に足がついていない心許なさから、すぐそばにあったものに縋った。それは紫希の背中だった。
同じように莉李の背中に回された手の温もりに、宙に浮いた莉李の身体を紫希が支えてくれているのだと理解した。
「先輩、ありがとう、ございます……」
お礼の言葉を紡いだ莉李の声は弱々しく聞こえた。
紫希の腕に収まる小さな身体も、心なしか震えているような気がする。
極め付けは、紫希の背中に回された腕だ。普段なら絶対にそんなことはしないのに、抱えられた紫希にしがみつくように、背中に腕を回していた。
紫希もそれに応えるかのように、そのまま莉李を抱きしめる。
「何してんの」
ぶつかってきた犯人を確保した遠野が、紫希に向かって呆れたように口にする。
「いや、莉李ちゃんから飛び込んできてくれるなんて、そうそうないから」
紫希の口調はいつものように戯けたものだった。
いや、いつも以上に茶化すように————この場合、茶化している相手は遠野なわけだけれど————言葉を発した。その間も、莉李を抱きしめたまま。
けれど遠野の声に我に帰った莉李が、恥ずかしそうにモゾモゾと紫希の腕から離れる。この時ばかりは紫希も大人しく、ゆっくりと莉李の足が地に着くのを補助していた。
「成瀬ちゃんも嫌なら嫌って言った方がいいよ。今回のは仕方ないけど」
遠野は敢えて話題を逸らした。なので、最後の方は莉李には聞こえないように小さな声で呟く。
「……嫌、だと、思ったことはないです」
まだ落ち着かないのか、莉李の手は無意識に紫希の袖を掴んでいた。
言葉も辿々しく紡がれる。
「いつも急だから、驚きはしますが」
「ほらね」
「ほらね、じゃないよ。成瀬ちゃんいいの? そういうこと言うと、国東が調子に乗っちゃうよ?」
「まぁまぁ………ところで、遠野」
「ん?」
急に声色が変わった紫希に、空気も変化する。遠野の表情にも緊張が走ったのがわかった。
「あぁ。彼のことは俺に任せてもらっていいかな? ちょうどそこに、生徒会室もあることだしね」
「うん。頼むよ」
『頼む』と言う言葉が紫希から出てきたことに、正直遠野は驚きを隠せなかった。けれど、わざわざこの空気でそれを口にするのは野暮というもので。
遠野は、莉李と紫希に声をかけると、引きずるように彼を連れて行った。
「さて、と。莉李ちゃん、大丈夫かな?」
「あ、はい。ごめんなさい……びっくりしちゃって」
莉李の手は、まだ紫希の袖を持ったままだった。
震えは収まっているように見えたけれど、やはりいつもと様子が違う。
そんな莉李の姿を見つめていた紫希が、ほとんど反射的に莉李に向かって腕を伸ばした。
莉李の頭の後ろに手を置く。置いた手をそのまま自分の方へと引き寄せ、再び抱きしめた。
「いいんだよ。俺としては役得だし」
「?」
「わかんなくてもいいよ。それに、大丈夫。莉李ちゃんのことは、俺が守るから。どんなものからも。絶対に」
先ほどと同じようなトーンで紡がれる言葉に、莉李は再び首を傾げる。
けれど、それ以上紫希は口を開くことはなかった。
莉李も言及できる状態ではなく、ただその温もりに落ち着きを取り戻そうとしていた。
彼の顔に、不敵な笑みが浮かべられているとも知らずに————
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