タナトスの崩壊

桜部遥

退屈な毎日に一滴の刺激を(前編)

二千三十三年。

全世界にインターネットが普及し、使用者率は世界総人口の九十八パーセントを超える。

生活において、なくてはならない物となったインターネットは、様々な面で役立っていた。

更に、インターネットを用いて仕事をする人が殆どで、ネットを使って芸能活動をしている者もいる。

政治、経済、治安維持、犯罪率の低下。そのどれもがインターネットの普及によって成り立っている。

一見すると、インターネットが正しい物のようにも感じるが、一つだけある数字が、毎年上昇傾向にあった。


それは……自殺者数。


自殺者の原因、その多くは不特定多数による精神的攻撃。

言い換えれば誹謗中傷だ。

ネットは顔を晒すこと無く悪口を書ける。

その中傷によって、多くの人々は自殺にまで追い込まれていた。

社会問題として真っ先に挙げられる誹謗中傷問題。

その問題に約十年もの間悩まされてきたこの日本という国。

しかし今、新たな問題が浮上していた。

その問題とは……。




『昨日未明、原因不明の変死体が都内マンションで発見されました。警視庁によりますと、被害者は爪で手首を引っ掻いた後、自らの首を締め付けており、同じような事件が何件も続いている事から、警察は何らかの事件性があると見て調査しています。更に、現場には赤い血で『タナトスの賛歌』と言う謎めいた文字が残されている事から、警察は謎の解明を進めている様子です。なお、同様の事件はこれで七件目にのぼります。』


薄暗い部屋の中で、ブルーライトの光が灯る。

AI技術の発達により、今はアナウンサーという職業はなくなってしまった。

人間のように抑揚を付けて滑らかに話す人型AIを、画面越しに眺めていると、どこからともなく声が聞こえてきた。

「ユトー!もうすぐで学校の時間だぞ!」

その声に、ユトと呼ばれた男はテレビの横に置いてあったモニターに目を向ける。

勝手に電源が入ると、モニターには三頭身の男の子が映っていた。

男の子というには少し幼げな姿には、ユト自身も愛着が湧く。

「学校……?今は気分じゃない。」

ユトの黒髪を青白い光が照らす。

デスクに突っ伏しながら、気だるげに答えるユトに、再び画面の中から声がきこえてきた。

「でもよ、今日は三ヶ月に一度の登校日だぞ?行かないと留年確定になるぞー?」

『留年』という単語にユトの眉がぴくりと動く。

昔、一人暮らしをする為の条件として、母親から『留年はしない事』と言われたのを思い出す。

ユトは睡魔に襲われつつ、大きなため息を零した。

ゆっくりと重い腰を上げて、ゴミだらけの部屋から制服を探す。

「ウィール、バイタルチェック。それから学校にインフォークの提出を。」

ユトの言葉に、画面の中でウィールが敬礼する。

「了解!これより、モードアルファに移行!」

その瞬間、ウィールの表情から笑顔は消え、目の中に小さな文字列が動く。

「バイタルチェック中……呼吸、脈拍、体温、血圧、意識レベル、共に異常無し。しかし、若干の栄養不足が見植えられます。直ちに、健康的な食生活をお勧めしますが、オーダーされますか?」

目を黄色く輝かせたウィールは、無機質な声で告げる。

棚の中から、新品のワイシャツを取り出したユトは、静かに袖を通した。

「ノー。別に死ぬ訳じゃない。」

ユトの言葉を認識したウィールは、独りでに話し始めた。

「了解しました。続いて、学校へのインフォーク提出に移ります。第百五回インフォーク、正答率百パーセント。これまでのインフォーク正答率、提出率共に百パーセント。第百五回のインフォーク、提出します。……提出完了。只今の評価、エスプラス。摩耶堂ユトのIQ、およそ百八十七と推定されます。摩耶堂ユトのIQに当てはまる就職先を千五百十三個程検出しました。その内、ランクエープライス以上の企業をピックアップしますか?」

「ノー。何処もどうせ、クソ会社だ。」

学校のエンブレムが刺繍されたジャケットを羽織り、リュックの中に筆記用具を入れる。

「了解しました。以上で摩耶堂ユトのオーダーを全て完了。モードベータに移行します。」

黄金に輝いていたウィールの瞳が、徐々に元の色へ戻っていく。

憂鬱な気分のまま、制服に身を包んだユトはリュックを持って玄関に向かった。

掌にすっぽりと収まる小型端末を、ズボンのポケットに入れて、扉を開けた。

鬱陶しい太陽の光が差し込んで、ユトの目を眩ませる。

「……面倒くさ。」

その言葉を、これから向かう学校に向けて言ったのだろうか。

それとも、この最悪な世界に告げて吐き捨てたのか。

それは、ユトにしか分からない。

けれど、この面倒くさい日々が摩耶堂ユトの日常だった。





◾︎




最寄りの駅に着くと、同じような服装の男女が一方通行に歩いていた。

歩道を横並びに歩きながら、友達と駄弁る人波の中に紛れるように歩くユト。

ここ数年は、ネットのせいでコミュニケーション能力の低下が見られるが、こうして仲良さそうに会話をしているのを見ると、それは真意なのかと疑いたくなる。

人の波に流されるように歩いていると、いつの間にか校門を潜っていた。

明るい笑い声が絶え間なく響く昇降口を抜けて、教室へと向かう。

教室では仲のいい友達同士が集まりになって、様々な雑談を交わしていた。

聞くに耐えない雑音を横目に、自分の席に座る。

備え付けの電子パットが独りでに光だし、特殊な電波を送る。

その電波は、ユトにしか聞き取ることの出来ない無機質な声を発した。

『おはようございます。二年二組摩耶堂ユトの出席を確認しました。本日のプログラムを確認の後、授業開始までしばらくお待ちください。』


見晴らしのいい、二階からの景色。

この窓から眺める空は、少しだけ澄んで見える。

それなのに、世界は変わらない。

繰り返す日常は、いつだって同じ景色。同じ時間。

怠惰な日々を繰り返すだけの世界に、果たして存在意義はあるのだろうか。

きっと神に問いただしたところで、その問いの答えは見つからない。

ここは、そんな世界なのだから。


欠伸が止まらない程退屈な授業を終わらせるチャイムが鳴り響く。

鎖に繋がれ、檻の中に閉じ込められたかの様な窮屈な時間から解放されたユトは、一人教室を後にした。

中庭と校舎を繋ぐ、大きな階段にぽつりと座ったユトは、空を仰ぐ。

風の向くままに流れる雲を、ただぼーっと眺めていると、ポケットの中に入れていた小型端末が光を放った。

「ユト〜。学校は終わったのか?」

聞き覚えのある声に、ポケットから端末を取り出す。

そこには暇そうに寝転ぶウィールの姿があった。

「ああ。もうじき帰る。それより、昨日頼んだ事はやってくれたのか?」

「もっちろんだぜー!なんせおれっちは、ユトの相棒だからなっ!」

自慢げに胸を張るウィールの姿に、ユトは少し気が緩む。

愛らしいマスコットの様な容姿と、声変わり前の少年みたいな声は、とても愛嬌がある。

「インターネットに潜り込んで、めぼしい奴を一人見つけたぜ!データを送信しといたから、確認してなー。」

ウィールが指さすファイルをタップして、そこに映し出された文字を読む。

一通り読み終えたユトは、ウィールの名前を呼んだ。

「ウィール。今夜決行する。準備をしておいてくれ。」

ユトの指示に、ウィールは笑顔で答える。

「了解だぜ!詳しい情報と、時間の設定をしておくから、後でまた声掛けてくれ!」

少年の様な話口調で告げたウィールは、そのまま端末の何処かへと消えていった。

液晶の明かりが、プツンと消えた端末をポケットの中にしまい、再び空を見上げていると、背後から気配がした。

ユトが振り返る前に、背中越しに声が聞こえてくる。

「貴方、摩耶堂ユトさんですよね?」

自分の名前を言い当てられたユトは、静かに振り返ると、そこには見慣れた人物がいた。

この学校の生徒ならば、誰もが知っているであろう有名人。

他人に興味が無いユトでさえ、彼女の名前を知っていた。

「君は確か……有栖川美咲さん、だよね?」

漆黒の黒髪が、そよ風に揺れる。

ダメージの無い、艶やかな髪が静かに背中に戻ると、美咲はこくりと頷いた。

着崩れのない制服、校則通りの前髪の長さ。

誰が見ても、ひと目で優等生だと悟ることの出来るその姿。

けれど、彼女が有名なのは優等生だからでは無く、もっと他にある。

それは、彼女が笑う姿を誰も見た事が無いからだ。

眉目秀麗、成績優秀、容姿端麗。更に親は警視庁の署長。

全てが完璧の有栖川美咲は、一度も笑った事が無い。

だからこの学校の生徒達は、密かに彼女を別の名前で呼んでいた。

『氷上のいばら姫』と。

そんな彼女が、どうして自分の名前を知っているのかは、ユトも分からない。

ユトは警戒しながらも、美咲に笑いかけた。

「えーっと、俺に何か要かな?」

心の無いユトの笑顔を、美咲はじっと見つめる。

彼女の瞳は、自分の心を覗き見ているような気がして、ユトはあまり好きでは無い。

二人の間に流れる沈黙にユトが耐えあぐねていると、美咲が話を切り出した。

「ねえ、摩耶堂くん。」

その呼ばれ方に、ユトは違和感を覚える。

さっきフルネームで呼んだ時は、確かさん付けだった筈なのに、今はくん付けに変わっている。

それが、彼女なりの距離の縮め方なのだろうと、ユトは気にしない事にした。

「貴方は、今騒がれている一連の怪奇事件について、どう思っているの?」

「……怪奇事件?」

ユトが聞き返すと、美咲は静かに腰を下ろす。

ユトの隣に座った美咲は、「タナトスの賛歌事件よ」と補足をした。

美咲の口から出た単語達に、ユトは顔色を変えること無く答える。

「さあ……。ただの一般市民としては、早く犯人が捕まって欲しいとは思うけど。それ以上は何も知らないよ。」

そんな当たり障りの無い答えに、美咲はユトをじっと睨んだ。

何かを探っているような視線に、ユトは苦手意識を覚える。


『氷上のいばら姫』こと有栖川美咲。

彼女は、警察庁署長の有栖川京師の一人娘だ。

有栖川美咲自身もかなり地頭がよく、成績はトップクラス。

さらに、刑事の血が流れているからか曲がった事が大嫌いな様子。

それが、ユトの彼女に対する見解だ。

だから、彼女の口から『タナトスの賛歌事件』というワードが出る事は別に珍しくも無い。

問題は、どうしてそれをユトに聞いてきたのか、だ。

ユトの答えを聞いた美咲は、顎に手を置いた。

「そう。けれどこの事件の話をした時、一般市民の口からは『犯人』なんて単語は出てこないと思うのだけれど。

ニュース番組でこの話が出る時は、ただの変死事件とだけ報道するように伝えているもの。

やはり摩耶堂くんも、この事件には犯人が居ると思っているのね。」

美咲の反応に、ユトの眉が少し動く。

確かに失言をしてしまった自分も悪いが、その一言からここまでユトに目を付けるとは。

侮れない美咲に、ユトはますます警戒心を強くして行った。

「まあ、こんな事が何回も続くとね。流石に自殺の線は薄いだろうって考えただけだよ。」

言い逃れをする為に、適当な理由を付けるユトに、美咲は目を細めた。

ユトの笑顔には、裏がある。しかし、だからと言ってその確信も確証もない。

美咲は探る様な視線でユトを睨み付けた後、空を仰いだ。

「確かに、この一件は事故では無いわ。誰かが意図的に仕組んだ他殺。立派な殺人よ。それは警察内部でも確信している事。そして、この事件はこれから先も続いていくでしょうね。」

何も答えず、ただじっと美咲を見るユトに対して、彼女は話を続ける。

「ねえ、摩耶堂くん。この事件には、何か裏があると思うの。そもそも、何故犯人は『タナトスの賛歌』なんて言葉を現場に残していったのかしら。タナトス、ギリシャ神話の死を擬人化した神……。つまり『タナトスの賛歌』は死の神を褒め称える歌って事?どうしてそんな言葉を現場に残すのかしら。」

美咲は、沈黙を貫いているユトをじっと見詰め返した。

そして、彼女は膨らみのある言葉でユトを挑発する。

「だから私は考えたの。もしもその言葉が、殺された被害者では無い別の誰かに向けたものだとしたら?

被害者は全員、何かしらの共通点がある。そしてその共通点とは、犯人の妬みを買うような何か。

そう考えたら辻褄が合うのよ。そして犯人は、何らかの共通点のある人物ばかりを狙って殺している。……どうかしら、私の推測は。」

警察署長の血を引いているとはいえ、美咲の洞察力の高さにはユトも圧巻した。

そして、彼女の推察力はユトの本音を隠していく。

侮れない相手に、ユトは神経を尖らせる。

「凄いな、さすがは有栖川さんだ。でも俺なんかに、そんな事を言ってもいいの?」

心の無い笑顔で笑うユトの姿に、美咲は納得がいかない様子だ。

二人の間に、見えない抗争が行われているようにも見えるが、静寂が全てを襲う。

「……ええ。摩耶堂くんには話してもいいと思っていたから。けれど、どうも私の勘違いだったみたいね。」

釈然としないまま、美咲はため息をつく。

美咲はゆっくりと立ち上がり、その髪の流れをを風に任せる。

「それじゃあ、私はそろそろ行くわね。手間を取らせて申し訳ないわ。」

「いや、俺も有栖川さんと話せて楽しかったよ。」

不満そうに眉を下げたまま、美咲は階段を降り始める。

トン、とローファーの硬い音が鳴り響いた後、美咲は体をねじって、ユトの方向に顔を向けた。

「あ、そうそう。それとね、摩耶堂くん。」

目を細めた美咲は、顔色を一つも変えないまま、ユトに注意を促す。


「——八方美人も大概にしておいた方がいいわよ。」







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