コンペイトイロ短編集 テーマ:人形

コンペイトイロ

『賛美せよ』幹野みそぎ

 絵の具の香りが鈍く沈む室内で、私はゆらめき、立ち昇る煙を見つめていた。真っ白な何も書かれていないキャンバスを前にして、何をするわけでもなく煙草をスパスパと吹かし、酩酊に似た、二日酔いにも似た感覚を求め、ただただその時が来るのを待っていた。

 一枚一枚仕上げるたびにこの感覚に飲まれている。ある世界を描き出した後にまたそれよりも美しく、儚げな、未亡人のまつ毛の如き世界を求め、また創る。毎度毎度同じことを飽きもせず繰り返す。反復練習で技術は高まれど、複製された世界観は次第に色あせて、初めの頃は手に取れるように思い描けていた世界はどこか遠い存在として、それこそ煙草の煙のようにどこかへと霧散してしまった。日に日に熟練されていく技術と、日に日に摩耗していく想像の世界のはざまで私は揺れていた。

 汚れた窓ガラスの外を覗いてみれば、また別の世界が広がっている。そこらを試しに歩いてみれば少しは気晴らしになる。ひょっとしたら、頭の中の世界よりもこの世界の方がマシだと、そう思えるかもしれない。

 俺は何本も無作為にシワの伸びたシャツを身にまとい、重い扉を開いた。

 空は暗い。分厚い雲が何層も重なり合って青空を覆い隠している。ふと、路地に目を向けると痩せこけた老人が俯いて、地面の粒を数えていた。なるほど、この空を見るよりか無機質なコンクリートの粒を眺めている方がいいだろう。そう思うと同時に、俺は賢者に教えを乞う生徒の如く、老人の隣に腰を下ろした。

「お前は見たか」

 ぶっきらぼうに、まるで独り言のように老人は呟いた。それは問いかけというよりかは独白に近く、その声色にはどうしようもない悲壮感が満ち満ちていた。

 私はまわりを見渡す。見たか、とは何のことか。

「その様子だと見てないようだな」

 答えあぐねている俺の様子にしびれを切らし、老人は語る。

「見たって、なにをですか」

「見ればいい。そうすれば答えはもたらされる。何もかもの答えがね」

 老人の顔を見る。深く年月の刻まれた皺だらけの顔が、歪む。

「『あれ』を見てから世界に色が失せた。あれほど綺麗なものはない。『あれ』を見た後じゃ、何もかも失われたままなんだよ」

 老人はか細いが、確かな声でそう紡いで、小さく鳴いて地面に倒れた。彼の右手にはガラスの破片が握られていた。あっという間だった。血が老人を中心に広がっていく。彼は喉を自らの手で掻き切ったのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。

 私は急に怖くなって路地を飛び出た。死を選んだのは老人自身ではあるものの、間接的にその引き金を引いてしまったように感じられて、その場から逃げ出すように走りだした。

 しかし、走り始めて十数秒もすればその足は止まり、その代わりにせわしなく眼球が動き始める。

 下界があまりにも静かすぎるのだ。いつもは窓を閉め切ったアトリエの中でさえ街の喧騒が聞こえてくるほどに騒がしいのに、今日は嫌に静かじゃないか。

 快い。快い気分ではある。誰一人声を上げず、騒がしい人工物が吐き出す騒音も聞こえない。風の吹く音だけが聞こえるその世界はまるで森の中のようで、自分が愛してやまない何かを感じさせる。しかし、建物の立ち並ぶ街並みにはあまりに似合わない。得体のしれない不気味な何かが首をじわりじわりと締め上げてくるような焦燥感が溢れていく。

 私の足を止めたのはその静けさだけではない。街を行く人々が、普段せわしなく動き回る人々が皆足を止め、その場に座り込んで、まるで廃人のように空を見つめ、口をだらしなく開いている。

 異様な光景。私がアトリエに籠っている時に毒ガスでも撒かれたのかと、そう疑ってしまう。

「き……君。大丈夫か?」

 まるでそう尋ねるのが義務かのように、尋ねた。誰も返事を返さない。そうして何度も何度も尋ね回っていると、一人の青年が小さく声を上げた。

「なぜだ、あんたは狂ってる」

 狂ってる? 狂っているのは俺ではなく、街の人々だろう。

「あぁ、そうだ。狂ってる」

 自分で自分の言葉を確認するかのように、青年は呟いた。

「あんなにイイ女……いや、そういう下卑た言葉で表すものじゃないかもしれない。あれは美だ。すべてを超越する美だ。完璧な美。完璧な肢体。完璧な眼差し。完璧な声。完璧な性格……なにもかもが、美だ。彼女こそが、美だ」

 私は青年の言葉に聞き入っていた。青年の要旨はけして高尚なものではなかった。不良の若者特有の乱れた服装、髪型であった。しかし、神を信じる敬虔な信徒の如き口上には一切の穢れはなく、すべてを投げ打ち、信仰に身を捧げるその姿は、神父や修道女を彷彿とさせる。

「賛美せよ」

 彼はそれだけ呟き、瞼を閉じた。口を結び、手を重ね、祈った。

 私は自分の中に著しく強い衝動を感じていた。熱く渦巻き、私自身を飲み込もうとするほどに強い衝動だ。

 その美を拝みたい。

私が求めていた美が、そこにはあるのではないか。それを見ただけで廃人となるほどに強い、麻薬に似た美が、ある。その事実は私の足を動かすには十分すぎる理由となる。

その『美』がどこに行ったのかはすぐにわかった。呆けている人々は正気を取り戻した後に、祈り始めるのだ。つまり、呆けている人々が多い方にいけば、その先には『美』がいることになる。

私は彼女を追いかけた。ただひたすらに追いかけた。やがて国境を越えた。国境警備隊も呆けて、その手に持っていたはずの銃を落とし、ただ空を見つめていた。他国への侵入は容易だった。仮に容易でなかったとしても、私はどんな手を使ってでも彼女を追い続けていただろう。

街の風景が変わる。色鮮やかな装飾に囲まれた住宅街に入ると、彼女を見失った。単純な道であれば人と道を見れば行く先は簡単にわかるのだが、複雑に入り組んだ道であるため、彼女がどこにいったのか把握できなくなったのだ。

誰かに道を尋ねよう。そう思い、壁にもたれかかりながら、祈りを捧げる若い夫婦を見つけた。

「失礼。よろしいですか?」

 夫婦は二人そろってこちらを見て、答える。

「えぇ、もちろん」

「はい、喜んで」

 その瞳には慈愛が満ち、すべてを導く何かの存在を信じて止まないような、そんな信仰心を感じさせた。

「彼女は、どこへ?」

「彼女? あの人のことを言ってるとしたら、それは間違いよ。彼女ではなく、彼よ」

 妻の方はそう呟き、やさしく笑う。夫の方はキョトンとした表情を浮かべ、首を傾げた。

「僕は彼女だと思うけど……彼なのか?」

 夫は妻に尋ね、顎に手を置いた。

「まぁ、性別なんて関係ないわ。あの人は美しく、高貴でいらっしゃるもの。あの人の前ではどんなことなんて些細な問題よ」

 夫は瞼を閉じ、自らの妻の言葉に聞き入るように息を吸った。

「その通りだ。彼女は守るべき存在。あの声色を聞いただけで、自らの力を捧げる覚悟をする」

「そのとおりよ。彼は愛すべき存在。あの姿を見たのならば、自らの肉体を捧げる覚悟をする」

二人は指を指した。

「あの人ならあっちに行った。よくは分からないけれど、まっすぐ、まっすぐ行った」

 私は指さす方を見つめ、会釈し、その場を去る。去り際に、後ろから声が聞こえた。

「canta le lodi.(賛美せよ)」

 歩きながら、私は考える。

人は基本的に嫉妬するものではないのか。若ければ若いほど、パートナーが自分以外の異性の話をしていたら面白くないだろう。

正確にしろ、容姿にしろ、その異性を褒めれば褒めるほどに嫉妬を感じるはずだ。しかし、先ほどの夫婦にそんな様子はなく、お互いに一人の人物を愛することで共感し、同一の個体になっているような、そんな雰囲気を感じさせた。

美には二つの要素が存在する。男性的な美。女性的な美。『美』はどっちなんだ?

それとも、どちらでもないのか。男性的な美も女性的な美も超越する、何かなのか。ますます恋焦がれる思いは強くなっていく。一刻も早くその姿を拝みたい。一刻も早くその声を聴きたい。

その存在を求め、私は再び歩き出した。

 しばらく歩くと、歌が聞こえてきた。その声に合わせ、奏でられる音楽も聞こえてきた。長年部屋に閉じこもっていた私でも、その歌は知っていた。『歓喜の歌』である。

 しかし、それらの演奏はいままで聞いてきたテレビの中やレコードによって奏でられたのものとは異なる。音の一つ一つが重なりあい、それぞれの音がそれぞれを踏み台としてより高みへ昇っていくような、そんな感覚を私に抱かせた。それらによって積み上げられたバベルの塔が神の手によって崩れようとすれば、それを支えるように歌声が支柱となる。控えめに言っても、それは福音だった。

 瞼を閉じればまだ見ぬ幻想を私の中に抱かせ、心に穏やかさをもたらさせる。先ほどまで『美』を追い求めていた私の中からソレを忘れさせ、ただ聞き入ることに全神経を捧げさせる。見事な演奏だった。

 しかし、その音はピタリと止まる。

「このようなものではない‼」

 男の叫ぶ声が聞こえる。私は立ち止まっていた足を再び動かし、その声の主の元へ走る。

「これではまるで毒婦の嬌声だ‼ 私の心を乱し、かの人を歪ませる‼」

 男は手に持っていた楽譜を地面に叩きつけ、瞼を閉じ沈黙した。指揮者らしき人物は彼を見て、深くため息をつき、祈った。演奏者たちもまた、皆空を仰ぎ、祈った。

 私はにわかに動揺した。あの演奏に欠点があったようには思えない。完璧だ。神を称え、人を称えるには最高の音楽ではないのか。しかし、現に目の前の人々はその音の稚拙さに呆れ、崩れているではないか。

「今の演奏は最高だっただろう! なのになぜ彼らは、貴方は悲しんでいるんだ? 私にはそれが分からない」

私は思わず彼に声をかける。男は慌てて楽譜を拾い上げ、答える。

「以前の私なら、そう感じたはずだ。だが、今は違う」

首を横に振り、男は続ける。

「どんなに練度を高めた楽団であっても、自然を味方につけることはできない。観客の僅かな物音、埃の舞う空気を操ることはできない。だが、彼女は違う。その声は、幾重にも重なった歌声を遥かに凌駕し、その所作によって奏でられる物音は、どんな楽器にも勝る旋律を奏でる。それらの音は人々を、自然を味方につけ、高みへ、高みへ立ち昇る。

 まさに神の産物。いや、神そのものだ。崇拝すべき対象であり、賛美すべき芸術なのだ」

 その言葉には強い熱がこもっていた。砂漠を歩き続けた男がようやくたどり着いたオアシスを称えるような、そんな熱が、あった。

 男はおもむろにメモ帳を取り出し、線を引く。音符が打たれ、その線はやがて曲になる。

「願わくば、私の作る音を彼女に奏でてほしい。それこそが我が生涯最高の瞬間であり、尊ぶべき最後なのだよ」

 男はメモ帳に走り書きをして、破った。その手に強く握られ、手汗で僅かに滲んだ楽譜を、私は覗き見る。

 タイトルには、『賛美せよ』の文字だけが記されていた。

私は焦っていた。行く先々の人々がかの『美』に巡り合い、ある種の救いをもたらされているのに、私は一向に彼女に出逢えないままだ。旅は長く続いている。しかし、旅が続けば続くほどに私の中で疎外感が次第に大きくなってゆくのだ。

『美』は、意図的に私を避けているのではないか。そんな疑問が浮かんでは、消えていく。

今は歩みを進める他にない。そうだと分かっていても、この感情を消し去ることはできない。

旅を進める中で、私には一つの趣味ができていた。それは、拝む人々に、あの『美』について尋ねることだった。誰かの口からであれ、その詳細を尋ねて、自分の内でその姿を想像することで、疎外感を僅かに満たせるのだ。だが、それはあくまで僅かなものでしかなく、日に日に疎外感は膨らんでいくばかり。そうして、私は彼女を見つけた。

女は科学者だった。特に有名というわけでもない。だが、その研究テーマゆえに、私は彼女と強い接点を感じたのだ。

『美とは何か』。初めてその研究テーマを耳にしたときに、強いシンパシーを感じたのだ。手法は違えど、私の追い求めていることと同じなのだ。

『美』と出会えばその疑問の解答は得られる、という理由のない根拠が、私にはあった。もう既に彼女が『美』と出会っているのであれば、彼女なりではあるものの、答えを掴んでいることだろう。

私は研究所の扉を叩いた。

 返事はない。住所は間違っていないはずだ。

 私はもう一度扉をノックする。返事は返ってこない。留守なのだろうか。日を改めようか考え、一分ほど扉の前で考えていると、唐突に扉の開く音が聞こえた。

「何か御用でしょうか」

 彼女は典型的な科学者だった。そう、まるで絵本から出てきたかのように、イメージ通りの、科学者。薄いフレームの眼鏡をして、白衣を身にまとい、その頭髪は無造作に伸ばされている。仕事柄……絵描きであるがゆえに人の美醜にはついつい目が行ってしまう私だが、不思議と、けして清潔感のあるとは言えない彼女のその容姿に嫌悪感は抱かなかった。

「貴女がエヴァン博士ですか?」

 私は彼女にそう尋ねた。それは疑問というよりも確認に近しかった。首から下げられた名札には『EVAN』の文字と彼女の写真が張り付けられている。

「えぇ、ワタシがそうですが……貴方は誰ですか? 母からの使いでは、なさそうですが」

 彼女は私の頭から足まで目を配らせた後、そう尋ねた。先ほど美醜を見極めたが、自分も彼女の容姿をとやかく言える立場ではない。けして一丁前と言えるような服は着ていないし、髪の毛もセットしているわけではない。あくまで寝ぐせを治した程度の身だしなみしかしていないのである。

「ロイス、ロイスです」

 大概の人間には、この一言で通用した。もう既に私には姓も名もなく、ただ雅号だけが馴染みのある単語として、知れ渡っていた。

「客人など何年振りか……貴方がどこの誰なのかはわかりませんが、立ち話もなんですから、どうぞ、中へ」

 私はそのぶっきらぼうな態度に驚いた。我ながら、自分の雅号は広く知れ渡っているものだと自負していた。新しく絵を描けば世界中のメディアで取り上げられるくらいには、高名だと、そう思っていた。

「すいませんね、いつも使っている部屋から玄関まで遠いもので……」

 研究所内はかなり広い。ノックしてから彼女が来るまで時間があったのも頷ける。しかし、異様なのは広さだけではない。

「エヴァン博士、ここには貴女一人しかいないのですか?」

 そう、他に職員が見当たらないのだ。周りを見渡せば、いくつか椅子とテーブルがある。部屋も数多くある。なのに、誰一人として所内で動く人はいない。私と、彼女を除けば。

「皆辞めてしまいましたよ。『貴女の研究に価値はない』とね……例の、あの人ですよ」

 私は瞬時に、彼女が『美』について言っているのだと分かった。俄然胸が高鳴ってきた。きっと、彼女もその姿を拝んだはずだろう。彼女はふと立ち止まる。目の前には大きな扉がそびえ立つ。どうやらこの先が所長室らしい。エヴァンが扉の前の機械へカードキーを差し込むと、音を立てて扉は開かれる。

 簡素な部屋だった。それは研究者の部屋とは思えないほどに簡素で、必要最低限の、部屋だった。

「貴方も…ロイスさん、でしたか。止めにきたのでしょう? 私の研究を」

 ふと彼女は立ち止まり、眼鏡のレンズ越しに私の顔を覗き見た。その表情には呆れと、どうしようもない怯えが隠れていた。見れば、その肩は僅かに震え、その小さな手は白衣の裾を握りしめている。慌てて私は本題を切り出した。

「いえ、私は彼女を見た感想を伺いたかっただけなのです。私は彼女を見れていないものですから……」

 エヴァンは私の言葉に目を大きく見開いた。そうして、叫ぶ。

「貴方もですか!」

 その返答は、私をひどく困惑させた。

「他の職員は見たのです。けれど、私の目の前にはけして姿を現さない。かの人を、貴方も、見ていないと!」

 その表情はみるみる明るくなっていく。私の頭に、あの疎外感が浮かんで、消えた。彼女もきっと、私と同じように疎外感を感じていたはずだ。だが、今目の前に、同じように苦しむ仲間を見つけた。その喜びは、私も同じであった。

「おっと、お座りください。コーヒーでよろしいですか。よろしいですね。少々お待ちください」

 興奮冷めやらぬ様子で、彼女は自らを落ち着かせようと深呼吸した後に、別の部屋へ移動する。

 彼女の姿が消えたのを確認すると、私は改めてその研究室の全容を観察した。

 部屋の中央には机が置かれ、PCが一台置かれているのみである。壁際には本棚が並び、研究資料らしき冊子が無造作に積みあがっていた。

 しかし、そんな簡素な部屋であるがゆえに、椅子が『二つ』あることが奇妙だった。机には椅子一つが入るスペースしかない。この、今私が座っている椅子は、何のためのものなのだろう。職員と話し合うためか。否、違うだろう。それにしては新しすぎるのだ。誰も座っていない、新品の椅子。今初めて、この椅子に腰かけたのが、この私である。

 思考を巡らせていると、エヴァンがお盆にコーヒーカップを二つ乗せ、戻ってきた。私は彼女に片方を差し出され、受け取った。

 ゆらゆらと、真っ黒な液体から湯気が立ち昇る。エヴァンはカップの淵に口をつけると、その眼鏡が熱で白く濁る。

「ワタシは、私の研究テーマゆえに、かの人に嫌われたのだと推察します」

 唐突に、彼女は口を開く。

「美の追求など、人間のやることではない。美は与えられるものなのだ……そういう、神のメッセージか、何かなのだと、そう思います」

 科学者はロマンチスト、という話はよく聞くが、私は今の瞬間にそれを実感した。無神論者であるがゆえに、エヴァンのその発言が突飛なものだと感じたのだ。

 しかし、よくよく考えてみると、自分も同じだ。私も美を追求し、絵を描いている。頭の中で理想を突き詰め、美しいものを作ろうと筆を動かしている。

「私は絵描きだ」

 彼女はその言葉に驚くと同時に、瞬時に悟った。同類なのだと、そう感じたのだ。

「私は神を信じない。信じるのは己の美のみだ。だが、それ故に、かの『美』から避けられているという点に関しては同意しますよ、博士」

 エヴァンは私の言葉を聞いて、数秒悩んだ後に、こうつぶやいた。

「ならば、ワタシたちは追いかけるべきです。自分の美の追求の答えが、尻尾を振りながら目の前を走っている。そんな状況なら、答えは一つでしょう」

 頷く。一人の旅より、二人で旅をする方がよっぽどいいはずだ。しかし、その結論に至っているのならなぜ、彼女は一人で旅立たなかったのだろうか。

 私がそれについて尋ねると、彼女はテーブルに視線を注いだ。『mom』とだけ走り書きされた、子供の落書きが、そこにはあった。色使いも滅茶苦茶だが、目と鼻があることから人の顔だということは理解できた。

「お母さんが、来ると思ったんです」

 エヴァンはその一言だけ呟いた。そのうつむいた顔に、影が差した。私はあえてそれ以上は尋ねずに、コーヒーに口をつけた。

唐突に、彼女は手を叩いた。静かな研究所内に、パン、と大きく音が響き渡る。

「今もこうしている間に、かの人は、『美』は逃げ続けています。善は急げ、百聞は一見にしかず、いそがば回れ、早く準備しましょう!」

 慣用句の使い方を間違えているように感じたが、あえて私は注意せず、頷いた。

「あ、それと、堅苦しい敬語はナシでいきましょう。お互い肩書は関係なしです。貴方はワタシをエヴァンと。ワタシも貴方を、ロイスと呼びます」

 その提案に、私も同意した。さしずめ、私たちは一匹の獣を狩る二人組の狩人なのだ。お互いに謙遜など、邪魔でしかないだろう。

 エヴァンはカバンを取り出し、身支度を始める。彼女のその様子を眺めながていると、ふと気づく。

 久しぶりに、人と親しくなったな、と。

 美を追求する仕事がある。所謂芸術家と呼ばれる集団だ。画家音楽家小説家……例を挙げればキリがない。まあ、結論から言ってしまえば彼らに本当の美がもたらされることはない。貪欲に美を求めるものにソレは与えられない――

 ふと、父のそんな言葉を思い出した。

 そんなことを思い出してしまうのは、今の状況だからだろうか。

 旅は長く続いた。エヴァンというパートナーができたとはいえ、かの『美』への道は長く、その果ては見えない。時に夜空を眺め、時に地平線を見つめる。

野外で、眠気が訪れるのを待っている時には、勝手に頭が動く。そうして、思い出したくもない幼少期の記憶を呼び起こしてくる。

彼も同じだった。今の私は、彼と同じだ。

 私の今の行動は、私を置いてかの東の地へと旅立った父と、何ら変わりない。

 思案は続く。それこそ永遠に。エヴァンが私に話しかけていなかったら、きっと、眠りにつくまで考え続けていたことだろう。

「——だと思いませんか?」

急に投げかけられた質問に、私は反射的に答える。

「あぁ、そうだな。僕も、そう思うよ」

 やっぱり、と、その一言だけ呟いてエヴァンは目の前でぱちぱちと燃える焚火を見つめ、跳ねる火の粉を目で追った。

 それからしばらく時間が経って、私は尋ね返した。

「すまない、なんだって?」

 エヴァンはキョトンと、一瞬だけ間の抜けた鳥のように私を見た。数秒して、私の問いの意味を解したのだろう。再び焚き木へと目線を戻し、つぶやいた。

「『美』は機械でしょうか」

 その問いは、ある種の悟りを私に与えた。今まで、私はずっと考えてきた。美とは何か、『美』とは何者か。彼女の説は私のいくつかの問いに解答を与える。『美』は私たちを避ける。まるでレーダーでも付いているのかと思えるほど、正確に。ずいぶんファンタジーじみた仮説にはなるが、『美』の正体が機械なら、人間の脳波に影響を与える周波数を絶えず発し続けることで人を洗脳することも可能だろう。

 だが、そうだとしたら、なぜ私たちを避ける? 同じように、洗脳してしまえばいいではないか。

「えぇ、ワタシもそう思います」

 私がその疑問を投げかけると、エヴァンは頷き、俯いた。

「でも、そんな仮説、よく思いついたな。僕にはない発想だ。さすが科学者だ」

沈黙の後に、ひどく重そうな唇が開く。わずかな声でエヴァンは呟いた。

「母を、思い出したからです」

 それだけ呟き、エヴァンは横になった。

 どうやら、お互いに両親を良く思ってないらしい。美の探究なんかする人間は皆同じようなバックストーリーがあるのかもしれない。

 これ以上聞くのも気が引けたので、私も同じように横になる。静寂が流れる。風が頬を撫で、星が僅かに瞬いた。

「……『僕』って、いいですね。不思議と、よく馴染みます」

 突然、独り言のように呟いたエヴァンは、横になったまま、こちらを見た。

 私は何もいわずに、彼女に背を向けた。無意識のうちに漏れ出た一人称。久しぶりに使ったその言葉を、頭の中で反芻する。僕、僕、僕……言われてみれば、その通りだ。よく馴染む。

 『僕』は、瞼を閉じる。不思議と、満ち足りた気分だった。

 僕とエヴァンは、地方の小都市を訪れた。

 エヴァンと合流してから、追跡の方法は大きく変わった。私がただ考えなしにまっすぐ、彼女の跡を追っていたのに対して、エヴァンは次に彼女が訪れそうな街をピックアップし、そこに先回りするというやり方を取った。そのためか、街には腑抜けた人々はおらず、いつも通り、きっといつも通りの賑やかさがあった。

 『美』の通った後の街は、平和こそあれど、そこに活気はない。すべての活動は『美』に還元され、自分たちが豊かになろうという野心は存在しない。

 だからこそ、この賑わいは私の心をひどく躍らせた。普段から引きこもってばかりいるためか、はしゃぐ声など騒音としか捉えてこなかったが、今はそれらの声に気分をより昂らせてしまう。

 それはエヴァンも同じだった。笑顔を浮かべながら通りに立ち並ぶ店のウィンドウに目を運ばせている。幸いお金には困っていない。何か買うのも悪くないだろう。そう思った矢先に、彼女は商品の陳列された棚から、何かを持ってきた。

「ラジオですよ、ラジオ。きっと追跡の役に立ちます‼」

 私たちの旅には、いかんせん退屈が多かった。歩くことも、乗り物に乗ることも多いが、それ故に長時間となると話題が尽きるのだ。元来両方とも多弁な方ではないため、時に沈黙が苦しくなることもある。だが、ラジオがあるとなれば話は別だ。同じ番組を聴いていれば自然と会話もできる。仮に話題が無くとも、ラジオを聴いているという態度をとれば沈黙もそこまで苦しいものとはならないだろう。

 僕は頷き、親指を立てる。だが、僕は一つ、重要な見落としをしていた。

 しばらくして、エヴァンはトボトボと冴えない足取りで僕の元へ戻ってきた。その両手に、先ほどまであったラジオは存在しない。

「買わなかったのか?」

 僕が尋ねると、彼女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた後に、わずかに潤んだ目を逸らしながら、呟く。

「財布、落としちゃったみたいでぇ……」

 『美』を前にするとラジオなんてものはやってられないらしい。いくつかの周波数に合わせてもノイズが聞こえてくるだけで、何かしらの放送は聞こえてこなかった。

 しかし、ローカルな放送であれば問題ない。あの小都市で放送されているラジオ局は未だに放送を続けている。安いホテルの一室で、ラジオから流れてくる陽気な音楽を聴きながら、僕とエヴァンは市場で買ったパンを齧る。

 僕の自費ではあるものの、無事ラジオは買えた。そして、無事エヴァンの財布も戻ってきた。まぁ、中身は消えてしまっていたが、ガワだけは戻ってきたのだ。良しとしよう。

 エヴァンは財布を落としたと言っていたが、きっとそれは違うだろう。賑やかであればあるほどにスリはやりやすい。どうせ中身だけ取ってあとそこらへんに投げ捨てたんだろう。しかし、親切な人が拾ってくれて届けてくれたのもまた事実だ。

 ふと、腑抜けになった街を思い浮かべる。活気は失うが、たしかに『美』は平和をもたらす。きっと、あれらの街であればエヴァンがこんな思いをすることもなかった。

 しっかり彼女を見ておけばよかった。ぼんやりと浮かんでくるそんな後悔に、ため息をついた。

「ロイス。そんな顔をしないでくださいよ。ワタシが大事だったのはお金じゃなくて、財布なんですから」

 僕は彼女の財布をちらと見る。なるほど、子供っぽいデザインの財布の所々に、補修した跡がある。確かに長年大事にしてきた物なのだろう。

「財布……新しいのは、買わないのか?」

 頭に浮かんだ疑問を、そのまま問いかける。エヴァンは何も言わずに俯いて、財布をじっと見つめて、答えた。

「……そうですね。そろそろ、変え時でしょう」

 にっこり笑って、そう言った。どこか寂しさを孕んだその表情に、僕は思わず彼女から目をそらす。

「父の話をしようか」

 それは、この気まずい雰囲気を打開するための話題だった。俯いていたエヴァンはハッとした表情を浮かべて、僕の方を見る。どこから話したものか。考えながら、言葉を紡ぐ。

「父は人形作家だった。僕の家は代々人形を作る家系でね。工房にはその代の最高傑作と呼ばれる人形がズラッと並んでたんだ。親の、そのまた親の、その親の、親の、親の……とにかくいっぱい、あった。異様な光景だよ。恐怖すら覚えるね。でも、どれだけ忌避していても、血はいつかその人を人形へと導く。父もそうだった。幼いときは工房は恐ろしい場所だと感じていたが、ある時を境に頻繁に出入りするようになり、祖父が亡くなるころにはそこを自らの居城とするようになった。

 僕も当然、人形には惹かれた。ちょうど十を迎えた時のことだ、今まで恐れていた人形を酷く美しいものだと感じるようになったんだ。父が人形を作る傍らで、その作業をずっと眺めていた。でもある時、思ったんだ。『人形である必要はあるのか』ってね。ちょうど同じ時期に、僕は師匠と呼べる存在と出会ったんだ。その人は長く延ばされた黒髪の隙間から世界を見て、キャンバスにその光景を描き出した。その絵を見た瞬間に感じたんだ。『人形よりも、自分の世界の方が美しい』と。より美しいものをつくる、究極の美へと至る。それが僕の家系の宿願だった。僕はその願いを、人形ではなく自分の思い描く世界に向けた。そうして絵を描くようになったんだ。

 師匠の元へ足繁く通うになってから、五年経ったある日、父は私の絵を見て、家を出た。突然のことだった。母は病で死んでいたから、朝目が覚めると空っぽの家に一人だけ取り残されていたんだ。ただ一つだけ残された机の上の手紙には、『極東に究極の美に至る道あり』とだけ書かれていた。

……不思議と、父を探す気にはならなかった。父の作る人形には中身がなかったし、それ故に自分の描いた世界の方が美として優れていると、そう思っていた。だから、もう必要なかった。そこらへんは、やっぱり血の運命だよ。究極の美へと至るため、自らの美より劣る美は切り捨てる。その宿命が僕にもしっかり刻まれてたんだろう」

 長くなった。最後の一言の後に、僕はため息をついた。

「つまり、その、父親を良いようには思ってないって、ことだ」

 しまった。気まずい雰囲気を晴らすために話し始めたが、これじゃより暗くなるじゃないか。自らの考えなしにほとほと嫌気が刺す。しかし、エヴァンはその話に聞き入り、呟いた。

「……なら、次はワタシの番ですね」

 彼女は唐突に語り始めた。否、この空気を作ったのは僕だ。言いたくないことを言わせたのではないか、言いたくなければ言わなくてもいい。思わずそう口に出したが、彼女は首を横に振り、答える。

「いいえ、話したいから、話すんですよ。どうやらロイスとワタシは似ているようですから」

 それだけ呟き、続ける。

「ワタシの母は科学者でした。ワタシと同じことを……いいえ、母が始めた研究をワタシが継いだ、という方が正しいですね。とにかく、母は『美』について研究していました。

 母は優秀でした。ワタシの思いつかないアプローチ、ワタシの思いつかない理論を組み上げ、研究を進めていました。母はそれだけではなく、女手一つでワタシを育てあげました。否、育て上げていた、が正しいですね。まぁ、とにかく、優しい母でした。片親ゆえに虐められるワタシに、格闘術を教えたり、好きな子ができれば、ラブレターの書き方を教えてくれたり、誕生日には特大のケーキを手作りしたり……本当の意味で、優しい母親でした。

 ワタシの十五の誕生日、母は一言だけ残してワタシの元から去りました。『極東に究極の美に至る道あり』と。ワタシは母が帰ってくるのを待ちました、一日が経ち、一週間が経ち、ひと月が経ち、半年が経つころに、ワタシは悟りました。母は戻ってこない、と。そのころになると、ワタシは母の研究をほとんど受け継ぐ形になりました。以前より母の研究の手伝いをしていたので、都合がよかったのです。

 成長したワタシは、一つの結論に至りました。究極の美を求め、母は消えた。なら、ワタシが究極の美へと至ればよい、と。そうすればきっと、母は戻ってくる。そう思い、ワタシは研究を続けてきました。そうして、今のワタシが、あるわけです」

 僕は何もいわずに、湯を沸かした。二つのカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、湯を注ぐ。砂糖をたっぷり入れた片方を彼女に差し出す。彼女はそれを受け取り、見つめた。ゆらゆらと立ち昇る湯気が、彼女の眼鏡を曇らせる。

「どうやら似たもの同士らしい」

「まったく、親の代からそうみたいですね」

 思わず吹き出して、笑った。けして明るい話ではない。だが、今は笑いたかった。互いの暗い過去を語り、それを笑い話にできるなら、それはきっと、最高の気分なのだから。

「でも、『極東に究極の美に至る道あり』って、なんなんでしょう?」

 確かに、それは疑問だ。エヴァンの母も、僕の父もそれを求め旅立った。究極の美、と言われて連想するのは当然『美』だ。だが、至る道、とはどういうことか。

「……直接会って話ができればいいんだが」

 あれこれ考えを巡らせたところでその解答が得られるわけではない。その意図は当人にしか分からないものである。ぼうっと、何をするわけでもなく、何かできるわけでもなく、ホテルの一室からくすんだ窓越しの町を見つめる。

 夜が更ける。空が若干白くなりつつあった。エヴァンはいつの間にかベッドに横になって、寝息を立てている。

 無意識のうちに、僕は筆を取っていた。部屋をぐるぐると回って、ピタリと立ち止まり、その場に腰を下ろしてスケッチブックの一ページを破る。目の前の景色と白紙の紙をダブらせて、窓から差し込む光に照らされる彼女を描く。夢中で鉛筆を走らせ、黒鉛に命を宿らせる。ものの数分で描きあがったラフスケッチは、まるで宗教画のような神聖さを持って、僕の目の前に現れ、心の内から幸福を溢れさせる。

 瞼を閉じ、その場に横になる。分からないように、閉じたスケッチブックのページとページの隙間に隠し、眠りについた。

 その音を最初に聞いたのは彼女だった。

 もう日が明けるころに眠ったものだから、僕の意識は深い底に落ちていて、その声を、懐かしい声に目を覚ますことはなかった。

 僕を起こしたのは声ではなくエヴァンだった。慌てふためいた様子で僕を揺さぶる彼女に、僕は慌てて飛び起きる。

 昨日試したはずのラジオ局、そう、ノイズしか聞こえなかったはずのラジオ局から、声が聞こえるのだ。

 その声は忘れもしない、父親の声である。俺はエヴァン同様に慌て、ラジオの音量を上げる。

『……フランク、私だ。ゲルトだ。これが聞こえてるかどうかはどうでもいい。ここへ来い。ノイエルンだ』

 ラジオからはその文言が延々と繰り返されている。他の周波数もすべてその声の繰り返しである。どうやら録音らしい。

「これは……」

「えらく都合のいい展開だな」

 僕はコートを羽織り、外へ出た。エヴァンが慌てて後を追う。話を聞きたいと思った矢先にこれだ。都合がいい。

 僕が早足で歩いていると、エヴァンが肩を掴み、引き留める。

「……場所、分かるんですか?」

 彼女の問いに、何も言わずに頷いた。

ノイエルン、その村は僕の故郷であった。

 そこは酷く寂れた農村だった。ロイス家はその村に代々住み続けていたのだが、山奥故に利便性が悪く、絵の具などを容易に入手することのできない不便さから、師匠が村を出たタイミングで自分も村を出ることに決めた。

 電車を乗り継ぎ、五時間ほどかけて山を登れば、その村は見えてくる。どうやらまだ数人がそこに住んでいるらしく、数件の家の煙突からは煙が昇っている。空はもう暗く、完全に真っ暗になる前にそこへたどり着けたのは幸運と言えた。

 村の中央に位置する井戸の前で、ぐるっとあたりを見渡した。付近に父らしき人物はいない。

「……いませんね」

 エヴァンの呟きに、僕は頷いた。烏が鳴いている。わずかにだが、数件の家の窓から光が漏れている。久々に村人と会話するのも良いだろう。

 以前の自分であればそんな行動は考えられなかったが、この暗さと、長年会っていない父親に会うという状況から、どうにか人と会話して乱れる感情を抑えたかった。

 木製のドアをノックする。返事はない。明かりがついているのに、物音はしない。その奇妙さに気付くと同時に、どうにも不安になってしまい、エヴァンの顔を見た。彼女は僕とは異なり、平静を保っている。その顔を見ていると不安感が次第に消え、落ち着かないものの、一つの行動には至れた。

 ドアを開く。

 そこには、一人の老婆が倒れていた。その両手で一本のナイフを掴んでいる。ナイフの切っ先は、老婆の喉笛である。

 僕の脳裏に、記憶が蘇る。

「『あれ』を見てから世界に色が失せた。あれほど綺麗なものはない。『あれ』を見た後じゃ、何もかも失われたままなんだよ」

 最初に『美』について教えてくれた、老人。彼の言葉は、この状況下で、一つの結論を見出させた。

 エヴァンは死体をじっと見つめていた。何を言うわけでもなく、怖がるわけでもなく、じっと。それはきっと、僕よりも先に一つの結論に至っていたからなのだろう。

「『いたんだ』。さっきまで、ここに」

 僕の独り言を聞いたエヴァンは、続ける。

「じゃあ、あなたの御父上は……」

 その言葉を解した時、確認をしていなかったことを、思い出す。

「僕の家に、行かなくては」

 家は村から少し離れた場所にあった。森を少し進んだ先に大きく開けた土地があり、そこの中央に、僕の家がある。数年が経ち、誰も手入れしなくなった、誰も住まなくなった家には蔦が伸びている。あたりの風景に溶け込もうとする遺物が、そこにはあった。

 だが、一つだけ。たった一つの明かりが、僕の心を酷く惑わせた。

 家の窓に映る、火。蝋燭一本だけの火が、家の中でゆらめいていた。

 思わず立ちすくむ。普段であればズカズカと入っていけるはずなのに、足が動かない。

 恐怖なのだろうか。中にいるのは、父親か。『美』なのか。

 どちらにせよ、それに相対することを恐れているのか?

 なぜだ、父を恐れることがあるか。『美』なら猶更だ。なぜ相対することを恐れる?

「……帰りますか?」

 エヴァンが、青ざめている僕の顔を覗き見て、尋ねる。彼女はどうなのだろうか。もし、中にいるのが『美』なのだとしたら、彼女は、どう思うのだろうか。

「な、なぁ、もし、もしだ。中にいるのが『美』なのだとしたら、どう思う?」

 尋ねずにはいられなかった。エヴァンは数秒の沈黙の後に、答えた。

「もし、そうだとしたら……私は、怖いです」

 なぜだ、と。僕は自分に尋ねるように、エヴァンに尋ねた。

「——わかりません。母に逢うためには、究極の美を知る必要がある。美とは何かを、理解する必要がある……のに、どうして、恐ろしいのでしょう?」

 エヴァンの顔から血の気が引いていく。

そうだ。その通りだ。出逢えば、解決できる。『美』を、知れる。なのに、足がすくんでいる。

「何を恐れる必要があるというんだい?」

 突然投げかけられた声に、僕とエヴァンはビクリと跳ね上がる。声のする方を見ると、そこにはローブを被った、一人の男が立っていた。

「父親も、母親も、答えを得られた。その答えは誰にだって平等に与えられるべきだ。ようやく彼らに『至れた』のだから、次は君たちだ。君たちの領域にまで彼女が『至れた』のなら、もう世界に救えない人々はいなくなる。だから、早くしてほしいのだが」

 男は早口で、まくしたてるように言った。男は片手に燭台を持ち、その火で、僕らの顔を照らす。

「——この人が、父親ですか?」

 エヴァンの問いに、僕は首を横に振る。男はケタケタと下品に笑い、答える。

「父親かと聞かれればイエスだともいえる。文字通りゴッドファーザーともいえるからね。まぁ、そこのゲルトの息子の父親かと聞かれれば、ノーだが」

 ゲルト、その名前が男の口から漏れると同時に、僕は尋ねた。

「……父の友人ですか?」

「察しが良い。その通り。まぁ、父だけの友人かと言われればノーだ。母の友人でもある。そこのエヴァン嬢の母、クロエのだがね」

 飄々とした態度の男に、困惑する。男の態度には掴みどころがない。まるで意思を意思で上塗りするかのような態度である。

「……まぁ、彼女が来るまで時間がある。何も理解できないまま救われるのもアレだし、退屈しのぎにちょっとだけ話そうか」

 男は服が汚れることも気にせず、その場に座り込んだ。ポケットからビスケットの箱を取り出し、僕とエヴァンに差し出す。

「ポケットの中からビスケットが二つ……ってギャグはウケないみたいだね」

 ぶつりと、独り言のように語り掛ける男の様子は不気味そのものである。僕はエヴァンと目を合わせる。彼女の手を握り、この場から逃げ出すために地面を蹴った。

「お熱いことで。まるでゲルトとクロエを見てるようだよ」

 その一言で足が止まる。今、なんと?

「だから、俺のトコでお二人さんが仲睦まじかったって話さ……あれ、ひょっとして本当に何も聞いてないのか」

 男は笑う、不ぞろいの歯が、蝋燭の火でテラテラと光る。

 僕の父とエヴァンの母、彼らが共に出会える場所……目的地が同じであれば、出会うのは必然である。

 だが、この男は今、『俺のトコ』と。つまり、二人の目的地は、この男の元だった。ならば、なぜ?

「ロイス……?」

 エヴァンが不安げに、僕の顔を見る。立ち去るべきか、聞くべきか。頭の中がぐるぐると回る。立っていられない。正常な判断ができなくて、その二つのどちらを選ぶべきか、わからなくて、眩暈がする。こういう状況に立った時、どうするのが正解なのだろう。全身は立ち去るべきだと悲鳴を上げている。だが、疑問を解決するには、この男に聞くほかにない。

「父は、何を……?」

「ロイス!」

 迷った末に、僕が選んだのは後者だった。男はニタリと笑い、語り始める。

「なに、目的は皆同じ。協力しようってだけさ。俺らを繋げたのは美への計り知れない妄執と渇望さ。ゲルトが肉体を作り、クロエが理論を組み立て、俺が気質を作った。それだけのことだ」

 男は空を仰ぎ、キイキイ鳴る喉笛で、続けた。

「つまり、君らがなんて言ってるか知んないけど、あの『美』の体現者は俺たちが作ったのさ。クロエが導いた、完璧な美しさの方程式に則ってゲルドが人形細工のスキルを使ってガワを作り、そんでもって、俺がその中身……いっちまえば所作、性格のプログラムを作った。すごかったぜ、街中に放り出したら皆拝み始めるんだもんなあ。でも、俺たちはそれじゃ足りなかった」

 まるでイタズラをした子供を親が叱るように、男は自分で自分の頭をコツン、と軽く殴った。

「物足りなかったってわけさ。普段美に触れている人間は、どうしても比べちまう。だから、学習するようにしたのさ。

 様々な美の観点を人から吸収し、姿かたちを、性格を、変化させるようにした。そうして独り歩きさせて、いろんな人を飲ませた。音楽家、小説家、写真家、科学者……もちろん画家もだ。どれほど美に対して触れているかを指標にして、慣れてない、弱い奴から食っていくようにした。

 隣人愛、家族愛、師弟愛、性愛、友愛……色々学んで、そのたび姿を変え、声を、性格を変え、そんでもって、ようやく昨日、ゲルトとクロエを飲み込めたんだ。あの『美』は限りなく完成に近い」

 どういうことだ。理解が及ばない。そんなことが可能なのか? 否、事実『美』はやってきた。この旅の道中で、『美』に魅入られた人を多く見てきた。疑いたいが、その事実が頭の中で揺れ動き、僕を惑わせる。

「でもよ、俺は駄目だった。一番根っこのプログラムを作ってたからよ。慣れちまってた。俺はまだ救われてねぇんだよ。まだ足りねぇんだ、美しさが。もっと、美に対して深い見地を持った人間を飲み込まないと、俺は救われないんだ」

 男は悲しそうに呟く。しかし、その声色に悲しみの色はない。むしろ、この状況をひどく面白がっているようにすら感じられた。

「なんで、そんなことを……?」

 思わず口を突いて出た疑問に、男はケタケタ笑って、頭を抱える。

「俺の夢は世界平和なんだよ。争いのない、みんなが幸せな世界を創りたかったんだ。でも、人はどうしても喧嘩しちまう。昨日おてて繋いでたカップルも明日になれば殺しあってるかもしれねぇ。

でもよ、でもよ、誰だって神には適わないだろ?」

 男は笑う。

「喜びは全て神が与える。争えば神が悲しむ。万人に共通する絶対的な愛情、幸福、正義があれば、人は争わない。

 嬉しいよ、俺は。もうすぐで夢が叶うんだから」

 まるで酒に酔っているかのように、男はフラフラと立ち上がり、両手を広げ、空を仰ぐ。

「おめえらがどう思ってるかは知ったこっちゃねぇが、お前らの美への見識は間違いなく世界最高だ! お前らを飲めば、『美』は『神』になる‼ 正真正銘、本物の神様だ‼」

「ふざけんな偽善者野郎‼ 救われたがりのマザコン野郎が‼」

 男のその言葉は、僕を動かすには十分すぎるものだった。捨て台詞を叫び、エヴァンの手を引き、僕は走った。森の道はひどく荒れていて、何度もつまづいたが、そんなこと気にしてられなかった。今は遠く、より遠くへ走る必要がある。

 どれほど走ったか分からなくなるほどに、僕たちは走った。

 身体が悲鳴をあげている、森を抜け、海辺に出ると、二人ともその場に、崩れ落ちるように倒れこんだ。

 あの男が言うことは、確かに一理ある。だが、僕の求める美は、そんなものじゃない。

父の言葉が頭をよぎる。『貪欲に美を求めるものにソレは与えられない』だと? 笑わせるな。与えられる美などこちらから願い下げだ。旅の中で芽生えつつあった違和感が爆発する。与えられる美など美じゃない。美は自分の手で探して、自分の手で描き出すものだ。

エヴァンの顔を見る。息を切らしながらもこちらを見つめるその視線に、確信する。自分の創り出した世界が、そりゃ摩耗するわけだ。もっと美しいものが、部屋の外に広がっているのだから。

自分のレンズを通した先に、本当に美しいものがある。なるほど、師匠の絵が綺麗なわけだ。

「なぁ、エヴァン」

「……はい」

「これからどうする?」

 彼女は、母と逢うために美を追い求めてきた。結局母親がどこにいるかは、わからない。その現実を前に、彼女はどうしたいのだろうか。『美』に飲まれたいと、そう思ってもおかしくはない。むしろ、その方が幸せにも思える。これ以上エヴァンが努力する必要はない。幸福に、生きることができるのだ。

「……財布、母からのプレゼントだったんですよ」

 彼女はバッグから財布を取り出す。ボロボロの子供っぽい財布。彼女は数秒の沈黙の後に、立ち上がった。

「うわあああ!」

 情けない叫び声と共に、大きく振りかぶり海に向かって財布を投げる。弧を描き、バシャン、と音がして水が跳ねた。そうして、水面には揺れる月が映る。

「せいせいしましたよ‼ なんで親のために私が自分の仕事決めなきゃいけないんでしょう‼ いやぁ、親離れですね‼」

 僕に顔が見えないように後ろを向いて、エヴァンは叫んだ。僕はそれが面白くて、思わず笑った。

「あ、そうだ」

 思い出したように、僕はスケッチブックを取り出した。不思議そうにこちらを見るエヴァンに、一枚の紙を差し出す。

「……なるほど、これがロイスにとっての美だと、そういう、洒落たやつですね」

 じっと、紙を見つめた後に、彼女はそうこぼした。

 面と向かって言われると相当恥ずかしい。だが、その絵は間違いなく最高傑作である。そして、その最高傑作は次の絵で容易に上書きされることだろう。

「旅をしようじゃないか。僕にとっての、究極の『美』を求めて」

「はい!」

――月明かりが、彼女を照らしていた。















「賛美せよ」

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