14.マーチンゲール法極限チャレンジ


 勝負が始まった直後に、鯨波が入室してきたのには気づいた。

 私はそれを無視しながら、マサキが賭けるのをすぐ隣で見ていた。


「んじゃ、最初はここに賭けるっす」


 マサキは黒の6番に賭けた。

 この賭ける場所に特に意図はないはずだ。私が指示したことは唯一つ、全てのゲームに置いて一点賭けをするということ。


 ヒットチャレンジルーレットでは、三つまでで目を賭けることが出来るが、環季ちゃんが全ての出目を狙える以上、このルールにはあまり意味がない。あえて言うなら、客側がチップの減りを意識しづらくなると言った所だろう。


 三点賭けした場合、当てられた出目以外の賭け金は戻されるという点では保険として置いておきたくなるが、その分、勝った時の配当が減るというのも重要な点だ。どうせ当てられてしまうのなら、ここは三倍配当が約束されている一点賭けで勝負するべきなのだ。


 マサキが賭ける場所を指定し、手に持っている一千万円の札束をテーブルに置いた。


「チップに変える必要はないよね。どうせすぐに勝負はつくんだから、キャッシュでやり取りした方が、お互いに話が早いと思うし」

「ああ、それでいいよ」


 私の提案に、新藤は迷うことなく答えた。まあ、この提案が断られることは無いと思ったけれど、さすがに一千万程度では相手を動揺させることは難しいようだ。


 こちらの賭け金の上限がさとられないように、私達は今日、複数のバッグやアタッシュケースを持ち込んでいる。中には空のケースもあるけど、ハッタリとしては十分だろう。


 今回の勝負に置いて、最終的な目標は新藤を破滅させることにある。


 一週間前――櫻庭さんに対して環季ちゃんを倒すと啖呵を切った後、私は具体的に何をするかを、櫻庭さんと相談した。



 ※ ※ ※



「新藤に価値がないと无影に示すには、カジノが破綻するくらいに負けさせる必要があります」


 櫻庭さんは淡々と事実だけを口にした。


「カジノの規模にもよりますが、『モノクローム』くらいの中規模店であれば、一日の売上は五百万前後が平均でしょうね。週末営業であることを考えると、月に六千万程度の売上は上げていると考えられます。最も、これはあくまで平均なので、営業次第ではもっと多額の収益を上げていた可能性はあります」


 もちろんそこから、客への飲食代や従業員の給料などの経費を引くので、粗利はもう少し下がると思われるけど――それでも随分な大金が動いていることになる。


「加えて、新藤は前のカジノである『シルエット』で随分と売上を持ち逃げしています。あの規模の大きな店舗なら、売上は億に届くでしょう。加えて、ヒットチャレンジルーレットのようなレートの高い賭けも行っていたのですから、資金としては潤沢なはずです」


 カジノ『シルエット』が潰れた時、櫻庭さんはその債権の一部を買い取っていたはずだが、それが紙切れ同然の不良債権だらけだったのは、旨味があるものは新藤が无影とともに持ち去っていたからという理由らしい。つまり、櫻庭さんにとっても、新藤は一杯食わされた相手であるということだった。


「以上のことから、カジノを潰すことを考えるのであれば、最低でも億の負債を与える必要があるでしょう。カジノの準備金はだいたい五千万前後を設定することが多いので、その三倍の一億五千万――しかし、ヒットチャレンジルーレットなら、カモさえ捕まえればそのくらいはすぐに稼げる。なので、できれば三億から四億くらいの負けを与えたいものです」

「ヒットチャレンジルーレットは、一点賭けの配当が三倍なので、最低でも一億の賭け金を使って勝ちたいってことですね」


 しかし、問題となるのは環季ちゃんの正確無比なルーレットだ。


 もし金額の圧で押すつもりなら、一億の勝負一回きりでは駄目だ。少なくとも、負けさせたい金額以上の準備金が必要になる。


「ちなみに――櫻庭さんが私に融資できるとしたら、いくらまで出せますか?」


 私の質問に対して、櫻庭さんは冷ややかに答える。


「せいぜい五千万が限度ですね。それ以上になると、回収の見込みがない」

「……私、これでも売れっ子なんですけど」


 少しカマをかけてみたが、櫻庭さんには通用しなかった。


「あなたが今売れていることは知っています。それがライアーコインというユニットでの人気だとしても、一つ一つの単価が高い仕事をされているのは事実でしょう。ですが、それでも年収としては、一千万には届かなのではないのですか? 加えて、アイドルの人気は永遠には続かない。そう考えると、回収できる見込みが持てるのは五千万が限度です」


 さすがというべきか、インテリヤクザはよく現実を見ている。


 今回の勝負のために、私は自分の財産をすべてひっくり返した。海外に置いた口座や、家のタンス預金をすべてかき集めて、それで準備できたのは六千万。アイドルとしての仕事だけでなく、カジノ遊びで稼いだ金も含めてこれなので、返済能力として見込めるのは確かに五千万円くらいが限度だろう。


 他の金策を考えるべきかと思った所で、櫻庭さんから付け加えられた。


「ただし、これは一ノ瀬みやびというアイドルの収入に注目した場合の話です。仮に、あなたの生涯年収としての可能性を全て担保とするのなら、貸し付けられる額は跳ね上がります」

「…………」

「日本人の現代の生涯年収は二億五千万円です。つまり、方法さえ選ばなければ、一生をかければそれくらいは稼げるというわけです。もしあなたが、自分の生涯さえも犠牲にする覚悟があるというのであれば、追加で同額までは融資しましょう」


 櫻庭さんは、ニコリともせず、能面のような冷ややかな表情でいくつかのプランを見せる。


 提示された内容は想像通りだった。アダルトビデオ、風俗、富豪の愛人――この辺りはまだかろうじて人権があるくらいだ。はては臓器提供や卵子提供、代理出産と言った、人権を剥奪されるような代物が並んでいる。


 顔色を悪くする私に対して、櫻庭さんは最後にこう言った。


「よく考えるべきです。五千万までなら、私は一色勘九朗の顔を立てて過剰な追い込みはしません。ですが、億という金額は、カジノを潰せると同時に、人一人をたやすく破滅させられる金額です。どうかそのことを、お忘れないように」


 それはおそらく、櫻庭さんが唯一見せた優しさなのだろう。

 私は五千万の融資をお願いした。



 ※ ※ ※



 マサキが賭けた一千万が溶ける。


 環季ちゃんは一投目をあっさりと投げ、見事に黒の6番にボールを落としてみせた。過剰な装飾も派手なパフォーマンスもない。ただ堅実な結果として、出目を当ててみせた。


「……どうしてですか、みやびちゃん」


 環季ちゃんはウィールの回転を止めながら、絞り出すように言う。


「なんで今邑の前に、みやびちゃんがいるんですか」


 つらそうに言う彼女に、私は答えない。

 代わりに、ボストンバッグから再び一千万の札束を取り出して言った。


「マサキくん。次の賭け金ね」

「うわ、マジでまた一千万なんっすね。先輩、動揺もせずにポンと出せるのすごいっすね」


 そう言いながらも、マサキの方も緊張した様子もなく受け取るんだからすごい。この脳天気な所を見ていると、彼に頼んでよかったと思う。


 次にマサキが賭けたのは、赤の30番。理由は特に無い。


 環季ちゃんは無視されて傷ついたような表情をしたが、すぐに目を閉じて息を整えた。続けて、左手でウィールを回し、右手に持ったボールをスピンする。


 トラックを十周ほど走ったボールは、そのままストンとポケットに落ちた。


 赤の30番。

 またしても、環季ちゃんは出目を当てた。


「無駄ですよ。今邑は絶対に出目を外さない。何度も言ったことです。こんなの、お金を無駄にするだけで――」

「はい、マサキくん。三戦目、一千万」

「…………」


 さすがの環季ちゃんも、びっくりしたように固まる。


 三回連続で一千万の賭け。それも、勝ち負けの結果を気にせずに、無造作に一千万を取り出すというのが、もう三回も続いているのだ。


 そこでようやく、環季ちゃんは私達の資金がどれだけあるのかを考え始めたようだった。カジノホールに集まった赤津組の組員が持っているアタッシュケースに目が行く。ケース一個で一億は入るけれど、それが十個近くあるのに、やっと気づいたようだった。


「……みやびちゃん。一体いくら用意したの?」

「勝負しているのはマサキくんだよ。環季ちゃん」


 必要最低限のことだけを言って、私は出目を選んでいるマサキを促す。

 マサキは次に、同じ赤の30番を選んだ。


「さすがに同じで目を二度続けては難しいっすよね、環季ちゃん」


 ヒットチャレンジルーレットが初めてのマサキは、そんなズレたことを堂々という。それに対して、環季ちゃんはクスリと笑った。


「ごめんなさい、マサキさん。そういうの、慣れてるんです」


 左手でルーレットを回す。右手でボールを弾く。

 ルーティンとして完成された仕草は、数十秒後に確定された未来を提示する。


 赤30。

 二度続けて、同じで目を当てた。


「ほら、無駄なんですよ。だから、もうこんな無駄なことは――」

「マサキくん。次も一千万ね」

「はいっす」


 欠片も動揺しない私達の態度に、むしろ環季ちゃんのほうが動揺を見せ始めた。


「な、もうみやびちゃんたち、三千万も負けているんですよ。もしこれで勝ったとしても、三倍配当でもプラマイゼロなんですよ。ほんとに勝つ気があるんですか?」

「へぇ。環季ちゃん、私達が勝つこと考えてくれるんだ」


 私が皮肉げに言うと、環季ちゃんは「うっ」と図星をつかれたように言いよどんだ。


 それに薄く笑い返しながら、私はなんともない風を装って言う。


「大丈夫だよ。ちゃんと勝つ気はある。だって――環季ちゃんは十五回勝たなきゃいけないけど、私達は一回勝てば十分なんだから」

「一回勝てば、って、どういう――」

「だって、

「…………ッ!」


 私の言葉に、環季ちゃんは憤ったように目を見開く。

 マサキが賭ける場所を選んだのを見ると、すぐに彼女はウィールに手を伸ばした。


「舐めないでください。そんなことで、今邑のルーレットは止められないんですから」


 スピンアウト。

 ボールはトラックを走り、十数秒後、あっさりとマサキが賭けた出目に入った。その結果を勝ち誇るように、環季ちゃんは笑ってみせた。


「ほら、止められないんですよ。だからこんなのは全部無駄――」

「うん、そうだね。じゃ、マサキくん。最後の一千万」

「はいっす」


 変わらない私達の態度に、環季ちゃんは正気を疑うような目を向けてくる。


 すでに負け金は四千万になっているので、ここで仮に一千万賭けて勝っても、三千万にしかならないから一千万のマイナスが出てしまう。もし勝つつもりがあるのなら、ここは賭け金を上げるしか無いのに、何を考えているのか――とでも思っているのだろう。


 まあ、それに関して言わせてもらえば、何も考えていないとしか答えられない。

 だってこの五回は、最初から捨てているのだから。


(とはいえ――本当にぶれないな、環季ちゃん。さっきの四投目は、感情的になってくれたから、さすがに少しはブレるんじゃないかと期待したんだけど)


 私の挑発に、環季ちゃんは多少なりとも苛立ちを見せてきた。その影響が少しでもディーリングに現れてくれるんじゃないかと期待したけれど、それは無駄だったらしい。


 正確無比な環季ちゃんのルーレットに置いて、攻めるべきは人間的な部分。


 喜怒哀楽。感情の起伏によるパフォーマンス能力のブレは、必ずミスに繋がるものだけど、環季ちゃんは怒りを覚えてもなお、同一の結果を叩き出した。


 鯨波や黒井先生が言う通り、正に化け物というほかないだろう。

 そんな化け物と戦うのだから――こちらも、正攻法では駄目だ。


「赤の21。五戦目も、今邑の勝ちです」


 こうして、マサキをプレイヤーに仕立て上げた最初の五回はあっさりと敗北で終わった。


 現在の負けは五千万円。

 櫻庭さんに借りた五千万は、あっさりと溶けてしまった。


「さ、次は誰が勝負するんですか? 挑戦回数はあと十回ですよ。その間にいくら負けるか見ものです。さあ、何回一千万を賭けてきても、今邑は絶対に外しませんからね」

「安心してよ、環季ちゃん。残り十回もいらない」


 マサキくんと交代して、私が前に立つ。


 そして――テーブルに札束を二つ置いた。


 二千万。

 今までは前哨戦。ここからが――本番だ。


「この五回で、あなたを倒してみせる」



※ ※ ※



 みやびの宣言に、環季は息を呑んで見つめ返した。


 この人は正気だろうか?

 意図が読めず、ただ倍額に増やされただけの賭け金を見つめる。


 確かに、ここでみやびが勝てば、二千万は三倍の六千万になって帰ってくるので、今までの負けを全て帳消しにできる。しかし――それはあくまで机上の空論だ。


 環季は自分のルーレットが外れないことを知っている。

 それに、六千万程度勝ったからと言って、何だというのだ。


「無駄ですよ、そんなの」


 左手でウィールを押し、回転を加える。

 きっかり三秒。

 環季は右手に握ったボールをトラック上で弾く。秒速五メートルより若干速度を落として、ボールはルーレットの上で回転する。


 やがて――ボールは緑0番に落ちる。


「どうです? みやびちゃんがいくら頑張ろうと、無駄なんですよ。それとも、今邑が手心でも加えると思いました? でも残念、今邑は仕事でやってるんです。そんなことでわざと出目を外したりなんて――」

「環季ちゃん、今日は随分口数が多いね」


 説得をしようとしていた環季に対して、みやびは小馬鹿にしたように言う。


「ああ、いや。いつも口上だけは多いんだっけ。だったら、プライベートな口数が多いねって言い直すべきだね。ごめん。でも――環季ちゃんも今言ったとおり、これは仕事なんだよね? だったら、ちゃんとやらないと駄目だよ。お客さんを気持ちよく賭けさせるのが、ディーラーのお仕事でしょ?」

「……ッ、もしかして、馬鹿にしてます?」

「まさか。環季ちゃんのことはリスペクトしているよ。だから――」


 そう言いながら、みやびは後ろに控えさせているヤクザを呼ぶ。

 アタッシュケースを受け取ると、その中を開いて、札束をテーブルに載せた。


「賭け金で、手は抜かないって決めてきたんだから」


 四千万。

 先程の倍額をベットしながら、正面から見つめてきた。


 さすがにここまで来ると、環季の中にも怯えに似た感情が沸き起こってくる。


(すでに七千万も負けてるのに、なんで四千万なんて大金がポンと出てくるの? まさか、あの後ろにあるアタッシュケース、全部に現金が入ってるなんてこと無いよね?)


 さすがにハッタリだろうと思っていたのだが、ことここに至ると、相手の資金の底が見えなさすぎて怖くなってくる。


 動揺を隠すことができなくなってきた環季に、後ろから発破がかけられる。


「おいこら、環季! 金額にビビってんじゃねぇ。いくらあろうと、要はお前が外さなきゃ良いだけの話だろうが。怖気づいてんじゃねぇぞボケ!」

「う、うん。そうだね」


 言われるまでもなく――金額の多寡は関係ないんだ。


 前に鯨波が六千万を賭けてきた時も、環季は動揺することなくきっかり出目を当ててみせた。賭けられた金額が大金だろうが少額だろうが、やることは変わらない。


 そう自分を落ち着けた所で、みやびが冷ややかな目を向けてくる。


「ひどい人だね。環季ちゃんが頑張ってるのに、暴言しか言わない。釣り合ってないよ、あいつと環季ちゃん」

「……そんなの、他人に言われることじゃないです」

「他人に言われないと気づけないことだってあるよ」

「そういうの、余計なお世話って言うんですよ!」


 感情的になってきているのを自覚する。


 けれど、それがパフォーマンスに影響しないようにするすべを環季は身につけていた。意識と指先を切り離す。決まった一定の動作をすれば、感情と関係なく身体は動く。


 ルーレットに目を落とす。肌で感じる空気の流れ、気圧の重み、それらを意識するとともに、ウィールを回す。ウィールの回転とボールの回転、その先にある未来を予測し、慣れた動作でトラックにボールを弾いた。


 みやびが賭けた出目は、またしても緑の0番だ。もはや出目を変えることに意味はないと分かっているのだろう。その考えに間違いはない。けれど――それが分かっていたからと言って、結果が変わるわけでもない。


 ボールは緑の0番に落ちる。


 その当然の結果を見て、環季は小さく息をつく。

 まるでその呼吸の合間をつくようにして、みやびはアタッシュケースから札束を叩きつけた。


「ベット。緑の0番に八千万」

「―――ッ」


 回収された四千万の後から、すぐにテーブルを埋めるように札束が置かれた、八個の札束。それはまるで壁のように並べられた。


 馬鹿じゃないの――と言おうとして、そこでようやく、環季は気づいた。


「まさか……をやろうとしているの?」


 環季のつぶやきに、みやびが目を細めて笑ってみせた。その様子から環季は自分の考えが正解だとわかり、なおさら馬鹿じゃないのかと心中で吐き捨てる。


 マーチンゲール法。

 それはギャンブルにおける賭け方の一種だ。


 内容はいたってシンプル。ギャンブルをして負けたら、次は賭け金を倍額にして、勝つまで続けるというだけの戦法だ。


 この賭け方の良い所は、どんなに負けても、一度でも勝てば負け金を取り戻せるという点だ。特に勝率が二分の一の勝負で配当が二倍の場合、高い確率で収支をプラスに出来る。


 ただし、メリットがあれば当然ながらデメリットが有る。

 仮に不運が続いて負け続けた場合――賭け金は次第に膨れ上がり、天文学的数字になるという点だ。


 例えば、賭け金一円から初めて、負けるたびに倍額を賭けていくとする。二回目で二円、三回目で四円、四回目で八円――自分で計算してもらえば分かるが、十回目には五百十二円、二十回目にはなんと五万円を超えることになる。


 今のは一円で始めたのでこれくらいで済んでいるが、これを千円から始めるとすると、単純に千倍となる。現実味のある戦法でないことは分かるだろう。しかも、それで一度勝ったとしても、負けを取り戻せるだけで勝てるのは最初に賭けた金額だけなのだから、割りに合わない。


 もちろん、二十回連続で負け続けるなんてことは本来起きないのだが――このヒットチャレンジルーレットに置いては、それが起こり得るのだから、なおさら無謀だ。


「割りに合わない。無謀だ。って、そう思ってるでしょ。環季ちゃん」


 まるで環季の心を見透かしたように、みやびは言う。


「確かに、マーチンゲール法は勝ったとしても最初のベット分しか勝てないから、準備しなきゃいけない金額に対して、儲けが割に合わないのは確かだよ。でもね――こと、ヒットチャレンジルーレットに関しては、この辺から一度でも勝てば致命傷になるんだ」


 だって、一点賭けの配当は三倍だから、と。

 みやびは微笑んで見せる。


 すでにみやびたちは一億一千万を負けている。その上で、更に八千万を上乗せしてきたのだから、正気ではない。けれど――確かにみやびの言う通り、ここで彼女たちが勝ったら、話は大きく変わってくる。


 八千万の三倍で二億四千万。

 賭け金を除けば、一億六千万の支払い。


 負け金を取り返すどころか、カジノに五千万の支払いをさせることが出来るのだ。それは、無視できない大きな金額だ。


「…………ッ」


 環季は自分の手が汗をかいていることに気づいた。

 動揺している――その事実に直面して、環季は大きく息を吸った。


 周囲の音が雑音となって溶けていく。後ろから新藤が喚いているのが聞こえるが、それを意識の中に入れないようにシャットダウンする。


(ごめんね、ケイちゃん。でも、今は邪魔)


 様々な雑念が渦巻くが、それらを全部切り離す。そうして、自分の肉体の状態を正確に把握する。

 ヒットチャレンジルーレットもすでに八回目。

 すでに七回を繰り返し、身体は疲労を覚え始めている。環季のルーレット技術は完璧なものだが、それ故にかなり集中力を必要とする。連続十五回は、環季にとって限界の回数なのだ。


 その上で、考える。


 みやびがマーチンゲール法を始めたのは、六回目からだ。仮にそれを十回目まで続けるとして、十回目に必要な金額は三億二千万。もし十五回目までマーチンゲールを続けるとしたら、賭け金として必要な金額は百億を超える。


 無理だ。

 さすがに、そんな金額を用意はできないはずだ。


 マーチンゲール法は必ずどこかで破綻する。なんだったら、今この瞬間に破綻してもおかしくないくらいだ。この八千万という金額がみやびにとって限界な可能性は高い。


 環季は目の前の相手に視線を向ける。


 みやびは不敵な表情でテーブルに肘をついてこちらを見返してきている。その表情に怯えや動揺は見えない。その堂々とした姿は、ステージ上に立って踊る時の一ノ瀬みやびそのもので、思わず感嘆の息を漏らしそうになる。


 いつもだったら、一ノ瀬みやびのかっこよさに悩殺されるところだ。

 けれど今は、その不敵な振る舞いが、恐怖となって襲ってくる。


(――落ち着け、私)


 自分自身にそう言い聞かせる。


 金額の多寡は関係ない。やるべきことは一緒。

 仮に億を超える勝負になったからといって、負けなければ関係がないのだ。そう、私は外さない。私は外さない。私は外さない――


「今邑は、外さない――」


 そう言って、環季はボールを手に取る。

 その時だった。


「ねえ、環季ちゃん。なんで私が、こんな大金を賭けられるか、不思議じゃない?」


 まるでリズムを崩すように、みやびが口を挟んできた。


「……妨害のつもりですか、みやびちゃん。だとしたら無駄ですよ。まだ投げてないので、ただ仕切り直すだけですから」

「そんな姑息なことはしないよ。ああ、姑息っていうのは誤用じゃなくて、本当に、その場しのぎなんてするつもりはないって意味ね。ただ――今賭けているこのお金については、知っておいてもらったほうが良いかなって、思ってね」


 言いながら、みやびは並べられた札束のうち、一つをとんとんと指で叩いた。


 確かに、みやびがなんでこんな大金を扱えているのかは疑問だった。もちろん、これはヤクザとの代理勝負である以上、そのほとんどはヤクザのお金だろうけれども、それを自由に扱えていることには疑問が残る。


 環季が話を聞く姿勢になったのを見て、みやびはニヤリと笑った。


「今回の勝負、赤津組さんから出してもらったお金もあるけど、私も勝負に乗るために、方々からお金を集めたんだ。自分自身のポケットマネーもあるし、人に頭を下げて貸してもらったお金もある。その中で――一千万だけ、もらったお金があるんだよ」


 それがこれ、と。

 みやびは嫌にもったいぶりながら言う。


 その様子に、環季は焦れてつい、自分から聞いてしまう。


「だから、それが一体どう――」

「この一千万を出した人の名前は、今邑いまむら数敏かずとし


 どうしたって言うんですか、という質問は、その名前を聞いた瞬間、霧散した。


 環季の言葉にかぶせるようにして答えを言ったみやびは、酷薄なまでにあくどい表情をしながら、明確にその意味を口にした。


。環季ちゃん」


 今邑環季の中で、何かにピシリと、ヒビが入った。


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