13.勝ち目のない化け物
その日。
今邑環季は、いつも通り新藤蛍汰に呼び出され、彼の家で一夜をともにした。
倦怠感とともに起き上がり、寝ぼけ眼で下着を身につける。脳が覚醒するとともに、いつもどおり身体の痛む部分を確認した。今日は大きなアザなどはできていないようでホッと胸をなでおろす。春先になって暖かくなってきたので、目に見える部分に傷があると、周りに気を使わせてしまうので、それだけを心配していた。
頭から手の指先、そして足先まで、徐々に血がめぐるのが分かる。
起床時のこの、全身に熱が回る感覚が環季は好きだった。今日も生きていると感じられる。
「環季。今日はお前、出勤しろ」
先に起きていた新藤は、リビングでタバコを吸いながらそう命令した。
いつもどおり、相手の都合などお構いなしだ。それに文句を覚えることもなく、環季はのんびりとした口調で言う。
「大丈夫だけど、どうしたの? 今日は水曜だし、営業日じゃないでしょ」
「勝負をするんだよ。お前のルーレットで、負けさせるんだ」
端的な理由に、またかと環季は陰鬱な気分になる。
環季にはそれしか取り柄がないとはいえ、自分の力で他人を不幸にするのは気が引けた。けれど、新藤がやれというのならやるしか無い。
「営業日以外でやるってことは、普通のルーレット? 何人くらい来るの」
「いや。ヒットチャレンジだ。赤津組ってヤクザを潰す」
「……それ大丈夫なの? そこって確か、ケイちゃんが狙われてるとこだよね」
以前、環季が攫われそうになった時、新藤から聞かされたのがその組の名前だった。おそらく新藤を脅迫するために、環季に手を出したのだろうって説明された。
自分の身はそれほど気にしていないが、新藤が危険じゃないかと心配してしまう。
「お前が心配することじゃねぇよ。それに、上實一家ってとこが仲裁に入ってる。もしこの勝負に勝てば、俺は赤津組から狙われなくなる。だから、お前に頼んでるんだ。環季」
命令しておきながら『頼んでいる』などと言う新藤だったが、本人はその歪みに気づいていない。
それが彼にとっての当たり前であり、そして、環季もまたそれを受け入れていた。
「分かったよ」
と、環季はうなずいてから、再び自分の体の調子を確認する。
一昨日できた脇腹と右太もものアザは治りかけだが、まだ血の巡りが悪い。三日前に頭を叩かれた時に口の中を切って出来た口内炎は、ようやく痛みのピークが過ぎた。一週間前にわざと踏まれた左足の爪は、剥がれて新しいものが生えてきたばかりだ。
それらの体の不調を意識しながら、指先の感覚を再調整する。痛みの影響を加味し、最適な体の調子を模索する。
最後に赤フレームの伊達メガネをかけて、リビングを振り返った。
「じゃあ、ウィールの調整もあるから、昼から仕事場に行ってくるね」
「おう。しっかりやれよ」
「うん」
見送りすらしない彼氏に声をかけて、環季は新藤のマンションを出てカジノへと向かった。
ルーレットのウィールは精密な機器だ。
木製のウィールは、ちょっとした湿度の差でもボールの落ちる位置が偏ってしまう。最も適切な状態を作り出すために、日々のメンテナンスは欠かせない。
カジノに着いた環季は、控えとして用意されている個室のテーブルにウィールを置くと、締め切った上で加湿器をつける。水平化を確認するためにボールを起き、傾きを調整する。気圧計を見ながらボールを投げて、トラックを走るボールのスピードを計測する。
師匠である雲川流一より譲り受けたこのウィールは、環季にとって宝物だった。人からこれほど貴重なものをもらったのは初めてで、まるで自分の分身であるかのように感じていた。
現代では不正として扱われかねない骨董品だが、これがあるからこそ、環季はヒットチャレンジルーレットという神業を再現できる。
「なにも出来ない今邑だけど――ルーレットだけは、認められるから」
これこそが存在理由だからしがみつく。
ルーレットを使う環季を求めてくれるから――新藤のことも受け入れる。
今日の勝負。
誰が来ても、環季が出目を外すことはない。
それは疑いようのない確信だった。
※ ※ ※
そして、午後五時過ぎ。
カジノ『モノクローム』に役者は揃った。
中華マフィア『无影』の構成員と、そのつながりがある半グレたち。従業員に扮した彼らに囲まれて、新藤蛍汰と今邑環季は、対決相手の到着を待つ。
「お待たせしました」
やがてやってきたのは、銀縁眼鏡の背広の男と、黄色いシャツを着た大柄な男だった。
今回の仲裁役である上實一家代貸・櫻庭誠司。
そして敵対している赤津組の若頭・浅黄毅彦。
丁寧な物腰の櫻庭に対して、浅黄若頭はギロリと周囲をねめつける。視線だけで噛み切らんばかりの威嚇だった。
「てめぇが新藤ってガキだな。クソが、面倒事を起こしやがって」
新藤が付き合っていたのは赤津組の下っ端とだったため、若頭である浅黄はここで初めて新藤の姿を見たのだった。顔も知らない下っ端のガキが起こした反逆のおかげで、今日まで面倒事に巻き込まれたという怒りがストレートにぶつけられる。
それに対して、新藤は正面から敵意を向け返す。
「赤津組さんがぬるいから足元をすくわれるんじゃないっすか? クソみたいなメンツにこだわってるから、オレみたいなのに馬鹿にされるんスよ」
「……んだと、ゴラ」
カッと頭に血が上りかけた浅黄だったが、傍に控えていた无影の構成員が武器を取り出そうとしたので、すぐに冷静になって「ふん」と身を引く。
「好きに言え。今日は荒事はなしと約束したからな。この勝負で手打ちにしてやるって約束もちゃんと守る。俺はもう金輪際お前らとは関わらねぇよ。勝負は――代打ちにまかせるさ」
浅黄は店内を軽く見渡した後、興味を失ったように乱暴に鼻を鳴らした。
「それじゃあな。結果を楽しみにしてる」
「あれぇ。勝負を見ていかないんっすか」
拍子抜けしたような新藤の言葉に、浅黄は汚物でも見るように見下した視線を返した。
「賭博の現場に大物がぞろぞろと居たら、摘発してくれと言っているものだろうが。そんなことにも頭が回らないようなら、どのみち先はないな。悪いが、馬鹿と心中する気はない」
「は、逃げるんっすね」
「好きに言え」
そう言って、浅黄は最後に櫻庭へ耳打ちをして、数名の部下を連れて去っていった。
環季はてっきり、この浅黄という男が勝負すると思っていたのだが――どうやら、勝負をするのは別の人間のようだった。
まあ、誰が出てこようと変わらない。
勝負する人間はお金をかけるだけだし、全ては環季が出目を当てるだけの作業である。ゲームでも勝負でもなんでも無い。はじめから結果が決まっていることを、淡々と繰り返すだけである。
「なら誰が勝負するんだ? 一人五回で三人まで。このルールに変更はねぇぞ」
新藤の挑発に、櫻庭が冷静に答える。
「ご安心を。ルールはちゃんと守らせます。勝負の内容については、そちらの幹部である
櫻庭から出た名前に、无影の構成員たちに動揺が走る。老黎とは、无影の関東支部のトップで本名は
无影の中でも名前が知られている大物の名前が出てきて、下手を打つと危険だという意識が一瞬にして共有される。
しかし、新藤はことの重大さに気づいていないようで、「そうかい。なら良い」とあっさりと言う。隣りにいる无影の構成員が耳打ちをしようとするが、それを乱暴に払い除けてから、彼は仕切り直すように言った。
「それで、勝負をするのは誰なんだ?」
「その前に一つ確認を」
大事なことなので、と。櫻庭は言葉で確認を取ろうとする。
「賭け金に上限は設けていないという約束は、問題ありませんね?」
「あ? なんだ、そんなこと心配してたのかよ。はは、夢があっていいこった。大丈夫だ、このヒットチャレンジルーレットで、賭け金に上限はねぇよ」
「その言葉、確かに承りました」
そう言って、櫻庭は部下の一人に指示を出して外に人を呼びに行った。
やがて、入り口からひょっこりと茶髪の男性が顔を出した。
「ん? ここで良いんっすかね。ども! 今日はよろしくっす」
「……マサキさん?」
その姿を見て、思わず環季はその名を呼んでしまう。
マサキ――ホストクラブ『クルセイド』のホストで、一度来店した時に顔見知りになった仲だ。まさか、彼が今回の勝負を?
「お、環季ちゃんじゃん。今日はよろしくっす。なんかよくわからないっすけど、大きな勝負なんスよね。そんなところにお邪魔しちゃって悪いっすね」
「どうして、マサキさんが……」
「ん? ああ、それはっすね。櫻庭さんと、あと先輩に頼まれたからで――」
先輩、という言葉とともに、マサキの後から入ってきたもうひとりが目に入る。
スラリとした出で立ちがきれいな女性だった。
線は細く、しかし身体に芯が入っているように体幹のしっかりとした歩みで、彼女はカジノホールに入場してくる。長いブロンドの髪はウィッグだろうか。赤いジャケットにジーンズという派手なファッションも、堂々とした出で立ちのおかげで思わず見惚れてしまいそうなくらい似合っていた。
小さな顔の中におさまったパッチリとした目が、まっすぐに環季を見つめてくる。
その視線に気後れしながら、環季は震える声で彼女の名を呼んだ。
「みやび……ちゃん」
「久しぶり。環季ちゃん」
環季の推しのアイドル、一ノ瀬みやびは、環季が憧れた姿のままで、目の前に立ちふさがった。
「あなたのルーレット、倒しに来たよ」
※ ※ ※
鯨波雫が遅れて闇カジノ『モノクローム』に足を踏み入れたときには、もう勝負が始まりそうになっていた。
「さーて、じゃ、最初はオレがやるんすよね。先輩、お金頂戴っす!」
「はい。じゃ、最初は一千万ね」
そんなことを言いながら、一色雅は持参したボストンバックから、無造作に一千万の束を手渡した。それを受け取りながら、ホスト風の男は緊張した風もなく「どこに賭けよっかなー」とレイアウトを見ている。初手から一千万がかかっているというのに、この緊張感のなさは心臓が太いのかはたまた馬鹿なだけか。どちらにせよ、人選としては的確だと鯨波は思った。
「よう、櫻庭さん。この勝負、アンタの仕切りなんだってな」
「……どうしてあなたがここに?」
鯨波の姿を見て、櫻庭は怪訝な顔をする。
その反応がおかしくて、鯨波はケラケラと笑う。
「一色ちゃんに勝負の話を聞かされてよ。面白そうだから見学に来たってわけだ」
「なるほど。では、あなたも一口乗るつもりということですか」
「んにゃ。確かに一色ちゃんには、あたしも資金繰りの相談を受けたけどよ。断ったよ」
あっさり言って、鯨波はルーレット台で向かい合う一色雅と今邑環季を見る。
一色雅から話を振られたのは、五日前のことだった。
カフェ『アンバー』でいつもどおり昼食をとっている所に、一色雅はルーレット勝負の話を振ってきた。
そのうえで、賭けに一口乗らないかと提案してきた。
「鯨波さんなら、このくらいの金額は準備できますよね? どうです。こういうの、鯨波さんは好きですよね」
「――確かに、可能性があるとしたらそれしかないっつーのは認めるよ。ギャンブルとして、賭けるに値するっつーのも否定しない」
一色雅の作戦を、鯨波は否定しなかった。
だがその上で、彼女はその誘いを突っぱねた。
「悪いが、あたしはその勝負には乗らねぇよ。少なくとも、現時点ではな」
「……理由をお聞きしてもいいですか?」
「理由も何も、勝ち目のねぇ勝負はしないってだけだ」
鯨波の言葉に、雅は意外そうに目を丸くした。
どうやら勘違いされていたらしい。鯨波は鼻を鳴らしながら自分の考えを述べる。
「勘違いしてるみたいだからいま一度言うけどよ。あたしは勝つのが好きなんだ。そりゃあギャンブルだから常勝とは行かねぇさ。けど、負けっつーのは勝つために積み重ねるもんであって、『勝てるかも』なんて希望にすがるためのもんじゃねぇんだよ」
ギャンブルに絶対はない。
勝てると確信したものがたやすく崩れることもあるし、逆に負けが濃厚な状況で逆転勝ちすることもある。そういう人の手が届かない理不尽さを受け入れて、その上で勝ち筋を探るのがギャンブルというものだ。
その上で、鯨波ははっきりと言う。
「勝ち筋の見えねぇ勝負なんて、するだけ無駄だ。一色ちゃん。悪いことは言わねぇ。今邑環季と勝負するのは止めた方が良い」
鯨波が今邑環季と直接話したのは、一ヶ月半前に顔合わせをしたあの時が最初で最後だが、そこで話をする中で、鯨波は彼女の本質を嫌というほど見抜いていた。
ルーレット技術に関する考察はほぼ当たっていた。今邑環季は、刻一刻と移り変わる物理現象をすべて感じ取り、明確な確信の上でボールを投げていた。
「ああいう化け物は、仮にどんな妨害をした所で望んだ結果を叩き出すだろう。ボールを投げる直前に建物でも揺らすくらいしか、狙いを外す方法なんてないだろうよ。最も、その規模となると地震くらいしかねぇだろうけどな」
おそらく今邑環季なら、工事の振動や事故による揺れ程度ならたやすく対応するだろう。
仮にボールを投げた後にそれがあったとしても、その時は不慮の事故として仕切り直しを主張されるだけだ。ヒットチャレンジルーレットを初めてやった時、ルールが書かれた掲示板にその一文があったのを鯨波はしっかりと見ている。ボールを投げる瞬間ならともかく、投げた後の妨害はすべて封じられていた。
鯨波の言葉に、雅は食い下がるように言う。
「天変地異以外でも環季ちゃんを止める方法はあります。彼女のルーレットがどれだけ正確なものでも、それは人間がやることです。実際、あのゲームは十五回までという制限が設けられている。おそらくそれが環季ちゃんの限界なんです。だから、あの子の集中力を削いで疲労を積み重ねれば必ず――」
「ああ。その理屈自体は否定しねぇよ。攻めるなら人間的な部分だ。だが――その上で言う。まだ足りねぇよ」
今邑環季は、一見するとどこにでもいるような普通の女だ。
終始おどおどしている姿は、むしろ精神的に脆いとすら見える。
けれど――
「はっきり言うぞ。あいつは、日常的に暴力を受けることに慣れてる女だ。それは肉体的なものだけじゃねぇ。精神が削られることに慣れている。いや――精神が削れても、いつもどおりでいることに慣れている女だ」
服の間から見えるかすかな生傷、人の反応を伺う怯えた瞳。プライベートでそういう仕草を見せながら、仕事では堂々と客の前に立って客の相手をしている。彼女は精神的に追い詰められたとしても、役割を果たすことが出来るだろう。
精神的に脆いどころか、彼女は精神的にタフすぎる。
仮にどんなに壊れても、環季は同じパフォーマンスを繰り出すだろう。まるで機械のように、壊れても物理的に破綻するまで動き続ける――
「今邑環季を本当に止めたいんなら、それこそ腕でも足でも折っちまうしかない。精神の方向で攻めるにゃ、材料不足だって言わざるを得ないな。まあ、ワンチャンスあるとしたら、今邑ちゃんがアンタに情を感じている可能性に賭けるっつー一点だろうが」
おそらくそれが雅の賭けなのだろう。
しかし、鯨波はそこに賭けるほどの価値を見いだせない。
鯨波の考えを聞いて、一色雅は静かに目を伏せた。
「つまり――鯨波さんは、材料が揃って勝ち筋が見えたら勝負に乗ってくれるんですか」
「まあ、そうだな。負けたって良いって思えるくらいの勝ち筋があるんなら、外馬くらいには乗ってもいい。だが、確約はしねぇよ」
半ば突き放すような答えだったが、雅にとってはそれで十分だったらしい。
当日、勝負の見学に来てくれと言って、彼女は帰っていった。
――そんな五日前の出来事を思い返しながら、鯨波はクスリと笑った。
「さて、お手並み拝見だぜ、一色ちゃん」
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