4.必ず出目を当てるディーラー


 六千二百万円。

 鯨波がこの勝負にかけたチップは、百二十四枚だった。


 勝負が始まる前にはっきりと確定させられたその金額は、一回の勝負に使う額としては桁違いだ。海外のVIP御用達なカジノならまだしも、日本のアングラな闇カジノでここまでの火遊びはそうそうお目にかかれない。


 超高レートで大金を賭けるギャンブラーのことをハイローラーと呼ぶが、鯨波はまさしくそれだった。ここまでの大金になると金銭感覚が狂ってくるが、鯨波は不敵にニヤつきながら椅子に座ってテーブル越しのディーラーを見返している。

 対するディーラーは、動揺した様子もなくにこやかに営業スマイルを浮かべている。


 互いに笑っているにも関わらず、バチバチと火花が散っているようにも見える。一触即発。ひりついた鉄火場の空気が、観戦しているこちらまで焦がしそうなほどに熱を帯びていた。


 しかし――ギャンブルとは往々にして、あっけなく決着がつくものだ。


 ディーラーが右手の指でボールをつまむ。

 左手では、ウィールを一度止めて位置を調整し、ゆっくりと回転をさせる。


 ウィールが一周するのを目で追って、ディーラーは言った。


「では――スピニングアップ」


 弾くように投げ入れられたボールが、ウィールの縁を疾走する。

 その様子を、鯨波は感情の消えた目でただ見つめる。等速に回るウィールと、逆周りに走るボール。38分の1の抽選結果が出るまでの数十秒間、まるでルーレット以外の時間が止まったかのように、ディーラーと鯨波は静かに結果を見守る。


 大金が賭かった勝負。

 しかし、そこに意味を見出すのは、賭け事に興じる当事者のみだ。


 ボールはただの物理的な事象として、無慈悲に結果を表示する。


 ――ボールが落ちたのは、00。


 鯨波が賭けた出目を、ディーラーは見事当ててみせた。


「…………」


 その結果を、鯨波は食い入るように見つめ続けている。一瞬にして六千万もの大金が溶けたのだから、呆然とするのも無理はない。その沈黙を、ギャラリーはギャンブルに負けたゆえのショックであると疑わなかった。


 しかし――数秒後、鯨波はカラッとした声を上げた。


「なるほど、こりゃあ勝てないわ」


 強がりと言うには、あまりにも普通の態度だ。賭けを始める前の好戦的な雰囲気こそなくなったものの、消沈している感じではない。

 あっけらかんとした様子で、彼女はディーラーに向けて一つ問いを投げかける。


「なあディーラーちゃん。一つ質問いいかい?」

「何でしょうか?」

「仮に、今この場でコインを百回投げて、百回とも表が出るとするだろ。じゃあ、百一回目に表が出る確率ってどれくらいだと思う?」

「簡単な独立事象の問題ですね。そんなの、二分の一以外に答えはないのでは?」


 鯨波は自信を持って断言する。


「百回続けて同じ結果を出すのは、偶然じゃなくて必然的な技術だ。違うかい?」

「それは――褒め言葉と受け取ってもいいでしょうか?」

「当たり前だろ」


 鯨波はあっさりと席を立つと、後ろに居た私の方を振り返る。

 彼女は私を見ると、興味深そうに目を細める。その目は、何かを試すような色を帯びていた。


「それで、どうする? 一色ちゃん」

「どうする、といいますと?」

「勝てないギャンブルに挑戦する気はあるかって聞いてんのさ」

「そんなの――」


 私はルーレット台を見やる。


 つい今しがた、六千万もの大金が消え去ったテーブル。そしておそらくは、その結果を意図的に導き出した化け物のようなディーラー。運否天賦で片付けられないその異常な空間を前にして、私は静かに息を吐いた。


「やってみないと、わかりませんよ」


 だって、勝ち目がない勝負に勝ってこそ面白いのだ。

 ああ、本当に。

 私は根っから、ギャンブルが好きだ。



 ※ ※ ※



 ミニマムベット五十万円。

 それが、このヒットチャレンジルーレットの最低掛け金だ。


 今日、私が持参した軍資金は、勝ち分を含めても百万くらいだ。これでは、ミニマムベット二回分でしか無い。ギャンブルにおいて軍資金は力そのものだ。それが不足している時点で、私は勝負の舞台に上がることすら出来ない。


 ならば、どうするか。


「さあ、本日三人目の挑戦者! これまたきれいなお姉さんです。やー、眼福ですね、皆さん。今日は綺麗どころが多いですよ。ささ、お姉さん。まずはチップをどれくらい交換します?」

「その前に聞きたいんですけど」

「はい! 何でしょう?」

「貸付はしてます?」


 手っ取り早く軍資金を手にするには、借金しかあるまい。


 多くのカジノと同じく、やはりここでも種銭が尽きた客に貸付をする仕組みが整っていた。アンダーグラウンドな金融業者を通し、手続きとともに目の前に積まれたチップは六枚。金額にして、三百万円。


 更に、私が今持っている百万円をチップに換金した。

 五十万チップが合計八枚。


 それが、この勝負をする上で最低限必要な額だと考えた。


「ではお客様。賭ける数字を決めて下さい」


 ディーラーの言葉を聞きながら、私は少しだけ考えるための時間をとる。


 まず、このゲームにおいて、ディーラーは出目を自在に出せると仮定するべきだろう。常識的に考えればありえない話だけれど、このルールの性質上、ディーラーが出目を狙って出せなければ成立しないゲームであることは、疑いようのない事実だ。


 どうやっているかわからないが、彼女はルーレットの持ついくつもの障害を突破して、ボールを好きなポケットに落とすことができるらしい。

 ならばこのゲームは、厳密にはギャンブルなどではなく、ディーラーの正確さを試す実験という性質を帯びている。


 鯨波はそれに対して、大金を積むという方法でディーラーの動揺を誘った。結果的に失敗に終わったわけだけれど、作戦の方向性としては間違いではない。


 問題は、私にはそこまでの資金がないことだ。ポーカーのようなブラフを積むような資金を持っていない以上、他の戦術を取るしか無い。


 私はチップを三枚手に取る。

 そして、三つの数字にチップを一枚ずつ置いた。


 ――『1』『00』『27』


「……へぇ」


 私が置いたチップを見ながら、ディーラーは小さく声を漏らした。

 聞こえるかどうかというかすかな吐息はすぐにかき消え、同時に彼女は笑顔の仮面をかぶり直す。


「なんと、連続した数字を賭けられました。これは今邑への挑戦でしょうか? これで外したら、今邑、ちょっと恥ずかしいですよ」


 茶化すように言いながら、ディーラーはウィールへと左手を伸ばす。回転していたウィールを一度止め、位置を調整しながら勢いをつけて回す。


「では一回目。スピニングアップ!」


 回転するウィールと逆方向に、縁に向けてボールを弾くように投げ入れる。ボールが縁を走る音を聞きながら、私は片時も目を離さずにルーレット台を見る。


 私が賭けた三つの数字、『1』『00』『27』は、ディーラーも言ったとおり、アメリカンルーレットにおいて隣り合った区分に位置する数字だ。この『狙った出目を当てる』というゲームに置いて、狙いの出目を連続させるのは、狙う側が有利となるだけで何のメリットも無いように見えるだろう。


 実際、この一回目はあっさりと賭けた出目にボールを落とされた。


 落ちたポケットは『00』


 しっかりと真ん中に落としてくる辺り、ディーラーの気位のようなものを感じる。信じられないが、やはりこのディーラーは本当に出目を操作できるらしい。


「一回目、お店の勝ちです! ちゃんと当たって良かったぁ。これで外れたら、今邑ったら大恥も良いところでしたよね!」

「…………」


 賭けた三枚のチップの内、『00』の一枚だけ没収され、あとの二枚は手元に帰ってくる。

 収支はマイナス五十万円。

 この一投で五十万円もの大金が消えたと考えるとゾッとしないが、百五十万円賭けて五十万のマイナスで済んでいると考えれば安いものだ。


 手元に残ったチップは七枚。


 さて――ギャンブルにおいて、負けた金額を数えるのは愚の骨頂だが、さりとて『勝つ』ことを考えるならば、負け分を上回る利益を出さなければならない。

 そのための戦術として、私は次に、六枚のチップを手にとった。


「ベットします」


 今度は三つの出目に、二枚ずつのチップを置いた。


 ――『13』『00』『10』


 これでもしディーラーが出目を外せば、掛け金三百万の1.5倍で四百五十万。百五十万の勝ちになる。

 加えてこの賭けた数字の配置は、一つ飛ばしの並びになっている。先程の連続した並びに比べれば、狙いにくい配置になっているはずだった。


 どうだ、と。私はディーラーを見やる。


 対するディーラーは、笑顔を崩さずにニコニコとしている。一回目と違い、何の反応も見せないか――いや、これはむしろ、反応を見せないようにしていると見るべきか。


「なるほどなるほど。今回のお客様は、面白い賭け方をしますね。これはやっぱり、今邑のミスを狙っているのでしょうか。ああ怖い! でも――」


 茶化した態度はそのままに、しかし、彼女は一瞬だけ挑戦的な視線を私に向けた。


「――残念。今邑は外しませんよ」


 ボールが投入される。

 数十秒後、ボールはあっさりと『00』に入った。寸分の狂いなし。まるで磁力に吸い寄せられるように落ちたボールは、同時に私のチップを二枚奪っていった。


「ね、言ったでしょ」


 勝ち誇ったようなディーラーの表情に、私は苦笑いで返す。


 さて、そろそろ後がなくなってきた。

 私の手元に残ったチップは五枚。現在の負けは百五十万。もし取り返したかったら、少なくとも二枚賭けの二倍配当以上が必要になる。


 残り挑戦回数は三回。一度で動揺を誘うのは金額的に不可能だ。ならば、ギリギリまであがくことを考えるべきだ。

 私は四枚のチップを手に取り、次の数字に賭ける。


 ――『9』『0』『14』


 先程まで賭けていた数字の、対面に位置する三つの数字。


 9と14には一枚ずつ、0には2枚のチップを置いた。


 狙うべきエリアを大きく変え、さらにはチップの枚数も変える。ディーラーとしては、二枚置いた『0』のポケットを狙いたいはずだ。しかし、一つ飛ばしで置かれた出目が、その狙いを狂わせる。どんなにコントロールに自信がある人でも、常に同じ条件でやれるわけではない以上、小さな差異がミスを生む。


 さあ、これでも当てることが出来る?

 挑むように見つめる私に、ディーラーは余裕を持った笑みで答えてみせた。


「――出目『0』。お店の勝ちです」


 ボールを投入して、数十秒。

 それが疑いようもない確定事項であるように、ディーラーは軽やかに結果を告げた。


「…………」


 ああ、まいった。

 


 私は残った四枚のチップを手元で弄ぶ。その一枚一枚が五十万円の価値を持っているが、その重みは完全に消え失せた。

 借金をしたことも忘れて、私は目の前の結果に感服していた。こうなってしまえば、このチップはただの投げ銭だ。目の前のディーラーの技術を褒め称えるものであって、間違っても対等な勝負が出来るチップではない。


 それを理解しながら、私は四枚全てを、悪あがき気味に『2』の出目に賭けた。


「――まだ四回目の勝負ですが、オールインで構いませんか?」

「大丈夫です。だって、五回目にもつれ込んでも、逆転は出来ませんから」


 仮に五回目まで続けるつもりで張っても、チップが二枚以下だと元金以上には勝てない。今ここで、三枚ならば一点賭けの三倍配当で逆転が望めるので、オールインをするならこのタイミングしか無いのだ。


 でも、分かっている。この勝負は負ける。


 最後の抵抗で、直前の数字の間に賭けたけれども、この程度で揺らぐのならこのゲームは成立しない。私の負けは動かない。ならばせめて、確信を得るためにこのチップを使おう。


 私の様子をちらりと見たディーラーは、ボールを手に取ると最後のパフォーマンスをする。


「みなさん、この美しい挑戦者の勇姿を最後までご覧ください! では、スピニングアップ!」


 ボールが投げられる。

 その一挙手一投足を、私は目に焼き付ける。


 習慣は第二の天性なりと言う言葉があるが、それが指すことは、自然と行えるまでに身についた技術は天賦の才と等しいという話だ。スポーツなどにおけるルーティンの重要性は今更語るまでもないだろう。どんなに実力があってもそれを十全に発揮できなければ意味がなく、何事も突き詰めていけばフィジカル以上にメンタルコントロールが重要となってくる。

 どんな場面でも同じ結果を出すために、決まった動作を行う儀式。

 この今邑というディーラーは、観客を煽りながら、的確に必要なルーティンをこなしていた。


 そして何より――彼女の動作は常に一定だった。


 それは明確な結果として目の前に現れる。

 ボールが落ちたのは『2』のポケット。


 こうして、私のチップは全てなくなった。


「――――」


 不思議と、敗北感はない。


 胸のうちにあふれるのは、感嘆の念だった。海外のオフィシャルなカジノならともかく、カジノ後進国である日本のアングラカジノに、これほどのディーラーがいようとは。


 出目を当てたディーラーに対して盛大な拍手が送られる。


 私も自然と手を叩いていた。ここまで圧倒的なスキルを見せつけられたら、対抗心なんて抱きようがない。攻略の糸口すらつかめない実力差なのだから、悔しがる資格すら私にはないのだ。


 ディーラーの女の子は、ニコリと笑って恭しく頭を下げた。


「また挑戦してくださいね。不定期ですが、今邑はいつでも挑戦者をお待ちしています」

「はは。勝てると思ったら勝負します」


 どうやれば勝てるかなんて、今は皆目見当がつかないけれど。


 とはいえ、この『今邑』と言う名のディーラーのことは、しばらく忘れられそうになかった。


 ヒットチャレンジルーレットは、一日に三人の挑戦者までという決まりらしく、今邑さんはそのあとバックヤードへと引っ込んでいった。私は勝負の熱が残っているのを感じながら、解散していくギャラリーを見送っていた。


「よ、ナイスチャレンジ。一色ちゃん」


 ほうけている私に、鯨波が声をかけてきた。


「落ち込んじゃ――居ないようだな。どっちかといやあ、満足そうなくらいだ。結構結構。それで、なにかつかめたかい?」

「……そういう鯨波さんこそ、一回の勝負で大負けした割に、満足そうですよね。何か攻略法でも見つけたんじゃないですか」

「――は。ま、その話は、次の機会にでもしようや。ここじゃひと目も多いしな」


 鯨波は耳元に口を近づけて、ささやくように言いたいことを告げると、私の返答を待たずに身を翻した。去り際はあっさりとしたもので、彼女はそのままカジノを出ていった。


 後に残された私は、椅子に座ったまま小さく息を吐いた。


「――――ふぅ」


 ギャンブルで負けた後の、ポッカリと穴が空いたような感覚。

 私はこの物寂しい空虚さが存外嫌いではない。


 もちろんそれは、この負けが私にとって取り返しのつく範囲のものだからであって、身の丈以上のギャンブルに負けた場合は、この空虚さはやがて絶望と後悔に染まる。だから、ギャンブルの負けが全て心地よいだなんて無責任なことは言わない。


 ギャンブルの本質は合意の略奪であり、そこに伴うのは敵意と憎悪だ。金銭という身銭を賭けている以上、それを良いものであるとは言うまい。


 けれど――それと同時に私は、自分の許容範囲内で行うギャンブルは、マインドスポーツであると思っている。


 戦略を持ってゲームに挑戦し、相手を超えるために知略を尽くす。お金を賭けるのは副次的なものであり、勝負をすることを本質にする限り、それは競技と何ら変わりがないはずだ。


 それ故に、空虚さの中にやりきった満足感がひとかけら存在する。


「はぁ、帰るか」


 色々と自分の中で気持ちの整理をつけつつ、私は爽やかな気持ちで椅子から立ち上がった。

 それと同時に、浮かれポンチなテンションの高い声が近づいてきた。


「先輩~~~~! 見てくださいよこのチップ! さっき、バカラでドローに賭けたら大勝ちしたんス! 八倍、八倍ですってよ先輩! うはは、一気に四十万も稼いじゃいましたよ。ん、あれ、あれれ? 先輩はどうしたんスか。なんだか有り金スッた挙げ句に、借金までしたような呆然とした顔して。テンション低いっすよ、ウェーイ!」

「…………………」


 自分の許容範囲内で行うギャンブルはマインドスポーツであり、それに負けたからと言って破滅するほどの損失を生んでいないのならば問題はなく、純粋に勝負の過程にこそ意味がある。――なんて戯言を口にしたところで、傍目から見れば借金をこさえて四百万スッた敗北者であることは事実であって、つまりは負けたギャンブラーにとって、ギャンブルに勝って浮かれているような奴は例外なく全員敵である。


 そんなわけで、二次会は奢らせた。

 最初にマサキにあげたチップ代は、飲み代に消えたのであった。


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