初恋

水沢おうせい

満員電車

〈一〉

「ちょっと、押さないでよ」

「押してねえよ。こっちだって狭いんだから我慢してくれ」

「もー。ちょっとこのオヤジどこに手挟んでんのよ」

「大したことじゃないだろ」

「こういうのは気分の問題なの。ちょっとそっち行ってよ二センチくらい」

「無理だって。諦めろ」

 朝の満員電車での会話である。俺が大学に通うために毎朝乗っているこの電車、都内の電車を見渡せば相対的にまだましな方ではあるのだが、やはりぎゅうぎゅう詰めであるということは変わらない。

「第一そんなに嫌なら毎朝毎朝来なくたっていいだろう」

「そりゃそうかもだけど、別にあたしだって来たくて来てるわけじゃないんだからさ」

「……まあ、そうか」

 朝の通勤通学電車がこの世から無くなることを願ってはいるが、しかし今日もまたこの空間に身を投じなければならない。一時間と少し程度なのだがこれが毎日となると、やはりしんどいものがある。

「ほんと、こんなことよくやってるわね蓮は。私ならこんなの絶対耐えられない」

 横田蓮よこたれん、それが俺の名前だ。

「そうだよ。だからせめて黙ってそこに居てくれ。変に気を使うと体力を使う」

「話してるだけじゃん」

「気疲れって知ってる?」

 そして今ああでもないこうでもないと喋っているのは竹本優佳子たけもとゆかこ、俺の幼馴染である。ドアに背中をぴったりと押し付ける優佳子を囲うように、俺はドアと手すりに手を置いている。

 俺のジトッとした目つきを受けて、優佳子は肩をすくめてみせた。

「まあ私はアレだからさ。蓮は毎日大変ね」

「わかってくれて何よりだ」

 こうして身体がくっつかんばかりの状況だと、身長差が歴然としていることを感じる。小さい頃はほとんど変わらない、なんなら少し優佳子の方が大きかったくらいなのに、気付けばこうして見下ろすような差になってしまった。

 それが、なんとも寂しい。

「どうかしたの」

 そんな俺の表情の変化に気づいたのか、上目遣いの優佳子が聞いてくる。今更言っても栓ないことだ。わざわざ困らせたいとも思わないので、俺は首を振った。

「なんでもねえよ」

「そう?」

 などとしているうちに電車が俺の降りる駅に滑り込み、やがて完全に停車した。かなり狭いホームにおり人なみに揺られながら階段を目指す。

「もうあんま時間ないんだから、早く行きなよ」

「大丈夫だよ。あの先生どうせ少し遅れてくるし」

「それは遅刻していい理由にはならない」

「ほっとけ」

 改札を出るとすぐにバス通りが走っている。道に出た瞬間にどっと吹きつけた冷たい風に思わず首をすくめてしまう。何でもない顔をしている優佳子がこういう時は羨ましい。

 学校やら病院やら会社やら、色々なビルがひしめき合うこの辺りはいつも人がいっぱいである。いつもなら道の途中のコンビニでコーヒーを買いに寄るのだが、先を行く優佳子が「早くしろ」というように睨んでいるので仕方なくまっすぐ大学に向かう。コーヒーは大学の自販機で買うことにするとしよう。

 女子高生のひらひら揺れるスカートをぼさっと見ながら五分ほど歩いているうちに大学のビルに着いた。ドアを潜り抜け、エレベーターが来るのを待っている間に近くの自販機で缶コーヒーを買った。

「それよく買ってるけど美味しいの」

「まあ、缶コーヒーなら一番良いかな」

「ふーん」

 優佳子はコーヒーを飲んだことがない。昔「飲むか?」と聞いて差し出したら、匂いを嗅いでから「止めとく」と言っていたことを思い出した。もし今聞いたらどう返すのだろう。

 やがて来たエレベーターに乗り込み、授業の部屋に辿り着くと同時に始業のチャイムがなった。

「急がないから」

「いやセーフだろ」

「まだ教室入ってないからアウトです」

「そこなん」

 やたら重たいドアに手をかけて、ちょっとだけ振り向いた。

「じゃあ、またな」

「ん。授業頑張ってね」

 ひらひらと手を振る優佳子に軽く頷いてみせて教室に入った。まばらにある空席から丁度教室の真ん中の方の席を選んで座る。

 別に付いて来てもいいと思うのだが、何か思うところがあるらしく、彼女が一緒に来たことはない。隣の席に座ったカップルがぼそぼそと喋っているのを横目に、俺は小さくため息をつく。

 こんなことに意味はない。知っているけれども、俺はこの関係の断ち方を知らない。

 一気に流し込んだコーヒーは少し苦かった。

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