深海、寒雷

Lie街

深海

 (ねぇ、海に来て)


 LINEの通知が来たのは、深夜三時過ぎ。 眠れない私はベッドの上で画面を眺めていた。


 「海か、よし」


 ベッドから体を起こし、服を着替えた。 窓の外に見える満月の光で、脳みそが少し冴えたような気がした。

 玄関を開けると外はまだ暗かった。 鳥の声もなければ、車の音もほとんどなかった。

 数メートルおきに街灯が立ち並んでいて、その内の数個は頼りなさげに明滅していた。


 私は今、彼女に会いに行こうとしている。 ふと、そんな事を考えた。

そう思えば思うほど高揚して同時に、哀しくもなった。

潮風を感じる。 堤防に近づく度にその風は強くなっている気がする。

 堤防に辿り着いた頃には目を開けるのがやっとになって、浜に踏み込むと浜の砂が巻き上げられて、もう目も開けていられなかった。


 「すい!」


 呼ぶ声とほとんど同時に風が止んだ。

ゆっくりと目を開けると、彼女が両手を後ろに組んで立っていた。

 月で照らされた水平線は、ぼんやりと地球の形をなぞっていて、波は穏やかだった。


 「来てくれたんだ」


 彼女があまりにも嬉しそうに言うので、私も思わず微笑んだ。


 「来てくれたって。 連絡して来たのはそっちじゃないか」


 彼女は褐色の肌を風にさらしながら波の音がする方へ。 水平線の伸びる方へ歩き始めた。

 冷たい砂浜の上をはだしであるいていく彼女をみていると。ここが、夏の昼間の輝く暑い砂浜のような気がした。

 それほどに彼女の後姿には勢いがあった。


 私は彼女の後姿をゆっくりと追っていった。

 白いワンピースが潮風に揺れて、細い足が見えたり隠れたり、飛んだり跳ねたりしていた。

 彼女は砂浜から何かを持ち上げた。 それは、白いキャンバスだった。


 「水、あっちに行こう」


 彼女はテトラポットを指さして、大声でそう言うとまた走り始めた。


 「おい!まてよ!」


 彼女の後姿を私も追った。 冬の海風は想像を絶するほどに冷たいのに彼女はなぜあんな姿で走り回ることができるのだろうと不思議に思った。

 

 テトラポットの上は歩き心地の良いものではなかった。 テトラポットの凹凸が日ごろの運動を怠りイラストばかりを描いている私を疲労させた。

 彼女の背中に追いつくころには、私の呼吸はすっかり上がっていた。


 「絵、描いてよ!」


 彼女は私にパレットと筆とキャンパスを手渡した。 どこに抱えていたのだろうと少し不思議に感じたが、それより彼女の要求のほうがずっと謎だった。


 「俺に?描いてほしいの?」


 「うん!」


 彼女は大きくうなずいて、口角を大袈裟にしかし極めて自然に上げて笑って見せた。


 「絵の仕事、してるんでしょ?」


 確かに、絵を仕事にしたいとは思っているが現状はそれで食っていくことは難しいと思う。

 この間も大学卒業後、就職した友人と飲みに行ったときに現実を見ろと酔った勢いで説教をくらった。


 「わかった」


 彼女は無邪気に笑うと、テトラポットの上に座りポーズを決めた。 胡坐をかいて大きくピースを前に突き出した。


 私は手袋を外すと素早く筆を動かした、いつの間にかそこにあったバケツの水を筆につけて、色をすくった。

 少し全体的に淡いタッチで描いて、幻想的に仕上げた。 最後の仕上げを済ませると私は彼女に絵を渡した。


 「久しぶりにアナログで描いたから、うまくかけなかったけど」


 彼女は私の手から絵を受け取ると、嬉しそうにまじまじと見つめていた。

こんな風に人から絵を評価してもらったのはいつぶりだろうか。 確か、高校の時に付き合っていた彼女で最後のように思う。

 立ち上がろうとしたとき、強風が私を突き飛ばした。


 「あぁ!」


 私はバランスを崩し、テトラポットから落下した。

 海の中は信じられないほどに冷たく、身に着けていた布が体にまとわりついて、重くなった。

もがくほどに呼吸は苦しく水面は遠くかすんでいく。 酸素がなくなり身動きも取れなくなったときに、ぼんやりともっと生きたかったなと今更どうにもならないことが頭をよぎった。


 


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