〈 閑話 〉 クロエの情念と涼の決意 後編

 愛美まなみの顔を見て、昔のことを思い返していたクロエ。

 そんなクロエの耳に、遠くの方から他校の女生徒たちの話し声が聞こえてきた。


「ねえ、東高の連中の顔見た?」

「見たよ。自分たちが全国に行けないなんてありえない、みたいな顔してたよね」

「そうそう。あれで全国に行けると思ってたんなら、どうかしてるよね」


 ああ、ウチの学校の悪口を言ってるんだな。どうせ私たちは負けたんだ。好きなように言えばいい。クロエは投げやりな気持ちで彼女たちの言葉を聞き流した。


 しかし、次の言葉を聞いた時、クロエは冷たい氷の刃で心臓を貫かれたような気がした。


「——あの学校が上手いのは金管楽器だけなのにね」



 ……ああ、まったくその通りかも知れない。

 クロエは高校に入学してから、より一層、木管楽器フルートの練習に励んできた。

 部内で一番練習してきたという自負もあった。

 格段に演奏技術が向上したという自信もあった。

 しかし……


 天賦の才能を持つすずには届かない。

 クロエもわかっていたのだ……




「おい、それはどういうことだ」

 東高の悪口を言っていた女生徒たちに向かって言葉を放つ、ほまれの声が聞こえた。


「あっ、いえ…… その……」

「ひ、東高の人たちだって知らなかったんで……」

「失礼します!」

 女生徒たちが走り去る足音が聞こえた。



「あーあ、好き勝手なこと言ってくれちゃって」

 クロエの目の前には、苦笑いを浮かべる木管楽器ファゴット奏者、愛美の顔があった。


「……別にいいじゃない。事実なんだから」

「ちょっと、クロエ……」


鷹峯たかがみね! そこにいるのか!?」

 誉が大声で問いただした。


 クロエたちの元へ駆け寄って来た誉。その隣にはすずの姿もあった。



 端正な眉を少し下げた涼が口を開く。

「すまないクロエ…… ボクが知らないところで、君を傷つけていたようだ……」

 消え入りそうな声でつぶやいた涼。



「同情なんかしないでよ!!!」

 クロエの瞳から涙が溢れた。絶対、涼にだけは涙を見られたくなかったのに……


「自分でもわかってるわよ! 私がどれだけ努力しても、涼には絶対届かないってことぐらい!!!」

 感情を抑えきれず、大声で泣き叫んでしまったクロエ。



「待て白鷺しらさぎ清風きよかぜは同情してるんじゃないんだ! それに…… さっきの連中は私たちの演奏に偏見を持っているだけだ!!!」

 誉も感情をあらわにして叫んだ。そして——


「清風が飛び抜けて演奏が上手いことは、四国支部で吹奏楽をやってるヤツなら誰でも知っていることだ。アイツらは絶対、今日の私たちの演奏を聴いていない。私たちの合奏が、金管楽器しか優れてない訳があるものか!!!」


 そんな誉の怒りの感情にふれた涼も、声を荒げて言葉を放つ。

「どうやらボクは自分の考え方に固執していたようだ。ボクも今、とても悔しいよ。本心からそう思っている。ボクたち東高の合奏は素晴らしかった。木管楽器だけじゃなく、弦楽器も打楽器も、みんな素晴らしかったんだ。これだけは絶対に間違いなんかじゃない!」


 続けて愛美まなみも口を開く。

「そうね。私も今日の演奏は完璧だったと思ってるの。全国大会に進んだ2校にだって、絶対劣っていないと思うわ。あの子たち、誉が言うように、きっと私たちの演奏を聞いてなかったのよ」


 憤懣ふんまんやるかたない様子の涼が更に続ける。

「今、ボクの体にはとても熱い血がたぎっている。審査員がどこの誰だって関係ないさ。要は、ボクたちの合奏を聴いて素晴らしいと思わざるを得ない、そんな演奏をすればいいだけじゃないか!」


 誉も黙ってはいられないようだ。

「ああ、まったくその通りだ。それじゃあ私はもっと練習に励むことにしよう。来年は更にレベルアップした私たちの演奏を、聴衆たちに届けてやろうじゃないか!」

 そう言いながら、誉が豪快に笑った。



「まったく…… 本当、ウチの部員はアツい人たちばっかりなんだから。この先が思いやられるわね。仕方ない、私、部長を引き受けることにするわ」


「え、それはどういうことだ?」

 愛美まなみの発言を聞いたほまれが驚きの声を上げると——


「実は、先生や先輩たちからお願いされてたの。冷静にみんなをまとめることが出来る人じゃないと、来年の部長は務まらないって。これまでずっと自信がないからって断って来たんだけど…… 私の演奏技術は、悔しいけどすずやクロエには及ばないわ。なら、私は私に向いていることで、全国大会に進む道を探すことにするわ。見てなさいよ、私がみんなを引っ張って行くところを」

 そういうと、愛美は楽しそうに声を上げて笑った。


 愛美の発言に驚いたクロエたち。

 一瞬、沈黙が辺りを支配した。


 しかしその直後、唐突にクロエが口を開いたことで、その沈黙は破られることになった。

「やっぱりさっきのは無し」


「え、どういうことだ?」

 困惑の表情を浮かべる誉。


「どう頑張っても、涼には届かないって言ったことよ。来年のコンクールで演奏する曲は、フルートを中心にした木管楽器が活躍する曲にし下さいって、みんなからお願いされるようになってやるわ。それで私がソロを担当してやるからね!」


 涼に手を伸ばすのを諦めたくない。やっぱり負けを認めるのは嫌だ。仲間たちの熱を含んだ言葉を聞いたクロエはそう思ったのだ。


「ふふっ、いいだろう。ボクは音楽で競い合うのはあまり好きじゃないけど、クロエがそういう気持ちなら、ボクも張り合うことにしよう。一緒に高みを目指そうじゃないか。でも来年のコンクールも、絶対、トランペットが目立つ曲になるからな!」


 二人は見つめ合い、不敵に、それでいて快活に笑い合った。

 二人を見つめる愛美と誉の瞳にも、熱意の炎が灯った。



 来年の夏こそはきっと!

 ここに集う者の心に、今日感じた胸の高まりがしっかりと刻まれる。

 彼女たちの瞳がそれを証明していた。



♢♢♢♢♢♢



 彼女たちの様子を遠くから見つめる瞳が二組あった。

 そのうちの一つは東高吹奏楽部顧問の山本教諭。

 音楽科の教師である山本は、もうすぐ産休に入ることが決まっていた。


 もう一つは、外部講師として東高吹奏楽部の指導にあたってきた、元プロ奏者の弦井つるい講師。30代前半の男性で、生徒からの信頼が厚い人物である。

 弦井つるいは所属していた楽団を辞めた後、東高の理事長から声をかけられ吹奏楽部の指導を手伝っていた。



「あの子たち…… 大丈夫でしょうか」


 山本のつぶやきに、弦井つるいが応える。


「もちろん音楽が怒りの感情で支配されるのは看過できませんし、他校生徒への復讐のために演奏を行うというのであれば困りものですが……」


 弦井つるいは少し笑みを浮かべながら話を続ける。


「でも、どうやらクロエさんの怒りから吹き出した強くて若々しい感情は、ある者からは自分の心を省みる機会を引き出し、またある者には向上心を求める感情を芽生えさせ、更にある者には苦手なことに挑戦しようという勇気を湧き起こしたようですね。まあ、かく言う僕もその影響を受けた者の一人なんですが」


「では…… 後のことをお願いしてもよろしいのですか? あっ、申し訳ありません。実は私の後任として、弦井つるい先生を本校の音楽教師として採用したいと理事長が打診しているという話を聞いていましたもので……」


「ええ。実は迷っていたのですが、なんだか僕も全国大会でタクトを振ってみたくなりました」

 どうやらクロエの強い感情に触れて、弦井つるいの心も決まったようだ。



「そうですか…… 私では彼女たちに進むべき道を示すことが出来ませんでしたが、弦井つるい先生ならきっと大丈夫でしょう」

 少し寂しそうに微笑む山本。


「さて、それはどうでしょうね。あくまで主役は彼女たちですから。でも、彼女たちが進むべき道を決めたんですから、僕は全力で応援するだけですよ。ふふっ、どうやら僕にもクロエさんの強い感情に反応できる若い心が残っていたようですね。なんだかちょっと嬉しいです」

 そう言って、弦井つるいはまるでいたずらっ子のような微笑みを浮かべた。



 たった今。今日この時、この場所から新生私立東松山熟田津南高校の吹奏楽部が始動したのであった。



♢♢♢♢♢♢



 3日後、吹奏楽部員全員が集った全体会議の場において、新しい部長には愛美まなみが、副部長にはクロエが、技術面で部を引っ張る学生指揮者にはすずが、後輩をサポートする新入生指導係にはほまれがそれぞれ就任することに決まった。

 もちろん、生徒を指導するのは弦井つるいである。



 こうして、全国大会出場を目指す彼女たちの熱い1年が始まった。

 全日本吹奏楽コンクール四国支部大会まで、あと362日。

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