アンズの決意 前編

※本話はアンズ視点で、アンズの心の動きを中心に物語が進みます。


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 梅雨のじめじめとした空気が、すぐそこまで迫ってきた6月のなかば。

 私たち吹奏楽部員は全員、音楽室に集められていた。



 私の名前はアンズ。吹奏楽部に所属する高校1年生。ホルンという楽器を担当している。


 私は今、音楽室の所定の位置に着席している。ついさっき、この音楽室で、今年の夏に行われる全日本吹奏楽コンクールA部門に出場するメンバー55人の名前が、顧問の先生から読み上げられたばかりだ。


 私は…… 名前を呼ばれなかった。Aメンバーに入れなかったのだ。


 メンバー発表の直後、音楽室は私がこれまで経験したことがないような、なんだか異様な雰囲気に包まれた。


 泣いている人。

 泣いている人を慰めている人。


 茫然ぼうぜんとしている人。

 茫然としている人にどう声をかけようか悩んでいる人。



 今日の吹奏楽部の予定はAメンバーの発表だけ。それはそうだろう。この雰囲気の中、練習なんてできるわけないと思う。



 Aメンバー発表からしばらくの時が経ち——


 フルートパートの人達はひとかたまりになり、一足早く音楽室から退出して行った。たぶん、これからパートメンバー全員でどこかに出かけるのだろう。


 音楽室の隅の方にかたまって、小声で話し合っているのはサックスパートのようだ。こちらもこの後の予定を相談しているみたい。


「アンズちゃん」

 私に声をかけてきたのは、ホルンパートの3年生。パートリーダーを務める先輩だ。


「アンズちゃん、お疲れ様。ホルンパートはこの後、各自フリーってことにするね」

「わかりました」

 私は手短に答える。

 先輩の言葉を聞いた私は、足早に音楽室を後にした。



 私は頭の中を整理しながら、校門へと続く中庭を足早に歩く。


 フルートパートやサックスパートは、だいたい予想通りのメンバーが選出された。

 しかし、私が所属するホルンパートでは波乱が起きたのだ。


 ホルンパートからAメンバーに入ったのは5人。

 3年生2人、2年生1人、1年生2人。


 Aメンバーに入れなかったのは3人。

 2年生2人と1年生の私……


 この後、各自フリーにすると言ったパートリーダーの判断は懸命だと思う。

 今すぐホルンパート全員で話をするのは難しいだろうから……



 帰り道。私は少し遠回りして、川沿いの小道をひとりで歩いていた。すると——


「おーい! アンズ待ってよ!」

 大きな声が聴こえてきた。

 私を追いかけて来る人がいる。

 どうやらオーボエ担当の同級生、ナツのようだ。


 ナツと私は同じ中学の吹奏楽部で3年間一緒に過ごしてきた仲だ。


「どうしたの、ナツ?」


 どうやらナツはここまで走って来たようだ。ハアハアと息を切らしながらナツが口を開く。

「なんかさ、サチさんが言うんだよ。『アンズがすっごい顔して帰ったから、お前、今すぐアンズを追いかけろ』って。それより…… アンズってば、歩くスピード早すぎるよ……」


 サチさんとは、私の1学年上の先輩で、中学の吹奏楽部時代からお世話になっている人だ。ウチの高校の吹奏楽部の中で、同じ中学から来た先輩はサチさん1人だけだ。


「もう。そんな『すっごい顔』なんてしてないよ……」

 ひょっとして、私の苛立いらだちみたいな感情が顔に出てたのかな?

 それにしてもサチ先輩、私のこと、ちゃんと見てくれてたんだ…… なんだかちょっと、嬉しいな。



「ナツのところのパートは、この後みんなでどこかに行ったりしないの?」

 私は少し心配になり、ナツに尋ねてみた。


 確かナツが所属する、ファゴットとオーボエで構成される『ダブルリードパート』は、順当に上級生がAメンバーに選ばれていたと思う。先輩達を放っておいて、私のところになんて来てもいいのかな?


「うーん…… ホントは行く予定だったんだけどね。なんか、カンナがさあ…… あっ、カンナってわかる? ファゴット担当の1年生ね」


 吹奏楽部は人数が多いので、同じ学年でもパートが違うと話したことがない子もいるのだ。


「うん、わかるよ。確かナツと同じクラスの子だったよね」


「そうそう。そのカンナがさあ、『今日は先輩達だけで行って下さい』って言ってさ」


「え? そんなこと言って、カンナちゃん大丈夫なの?」


「えっと、そうじゃないんだよ。あー、もう、アタシってばバカだから、順序立てて話すの苦手なんだよね」


 ナツは自分がバカであることに誇りを持っている、ちょっと変わった女の子なのだ。

 でも私は、本人が言うほど、ナツはバカじゃないと思っている。

 しかし、それを言うとなぜかナツは不機嫌になるのだ。

 ナツをよく知らない子は、きっとナツの扱いに苦労するんだろうな。


 私はナツに向かって発言の続きを促す。

「私が早とちりしたみたい、ゴメンね。それで、カンナちゃんはその後なんて言ったの?」


「えっとね。3人いるファゴット奏者の中で、Aメンバーに選ばれたのは3年と2年の先輩2人だけだったんだ。で、選ばれなかった1年生のカンナは、『私が一緒だと、先輩達心から喜べないでしょ? だから今日は2人で祝勝会を開いて下さい』って言ったんだよ」


「そうなんだ…… でも、それだと先輩達に、なんだか反抗的だと思われたりしないのかな?」


「ふっふっふ。そこがカンナのすごいトコなんだよね。カンナってば続けてこう言ったの。『でも、日を改めて、今度は私の残念会も開いて下さいね』って」


 すごい…… カンナちゃんって、すごく気配りが出来る子なんだ。


「本当、すごいね、カンナちゃんって」

「うん! カンナは先輩達2人をホントに尊敬してるんだよ!」


 なんだかナツらしい発言だな。ナツは友達が褒められると、とても喜ぶのだ。


 ナツが所属している『ダブルリードパート』は、ファゴット3人とオーボエ1人、計4人だけのこじんまりとした仲のいいパートとして部内でも評判だ。


 オーボエ担当は1人だけ。そう、ナツはこう見えて、我が校吹奏楽部唯一のオーボエ奏者なのだ。部員みんなの期待を一身に背負い、今度のコンクールでもAメンバーとして演奏することになっている。

 でも、本人はあんまりプレッシャーを感じていないようだけど。



 少しの沈黙の後、今度はナツの方から私に言葉を向けてきたんだけど……


「あのさあ…… なんていうかさあ…… アンズってば、ホルン上手いのに、その…… なんていうか…… あー、もう! アタシ、バカだ! なんていうか、こういう時、どう言ったらいいかわかんないっていうか……」


「もう、ナツったら『なんていうか』しか言ってないよ? それから、今はナツがバカかどうかはあんまり関係ないと思うよ? こういう時は、誰だって、なんて言っていいかわからないんだから」


「え、そうなの? でも、なんていうか…… あっ、しまった。また言っちゃった」


「ふふ。ナツは自分がAメンバーに選ばれて、私が選ばれなかったから気を遣ってくれてるんだよね? ありがとう、ナツ」


「そんな…… ウチの部にはオーボエ奏者がアタシしかいないから、アタシが選ばれただけだよ。あー、でも中には、『Aメンバー確定でうらやましい』なんて言う子もいたんだけどね。でもアタシはそのたびに心の中で叫んでたんだよ。『そんなに羨ましいんなら代わってあげるよ』って」


「……それ、心の中だけじゃなくて、普通に声に出して言ってたよ?」

「あれ? そうだっけ?」


「私、ナツが『代わってあげるよ』って言ってるとこ、3回ぐらい見たような気がするよ?」

「あれ? アタシってば、心の声が口に出ちゃってるのかな?」


「ふふ、なんだかナツらしいね」

 本当は『代わってあげる』なんて言うと嫌味に聞こえそうだけど、きっとナツは本気で言ってたんだと思う。


 実際、ナツはチューバという楽器を担当したかったのだ。でも、ウチの部にはオーボエ奏者がいなかった。そのため小学生の頃オーボエを練習していた経歴を持つナツが、先輩達に頼み込まれてオーボエ担当になったという経緯がある。


 その後、ナツのオーボエの演奏を聴いたみんなは、心から驚いていた。

 実は、ナツってオーボエの演奏がすごく上手かったのだ。

 中学の頃はずっとチューバを吹いていたから、私もナツがこんなに上手くオーボエを吹くなんて、ちっとも知らなかった。

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