ボーダー

阿佐ヶ谷の女王

第1話 妄想癖

~プロローグ~


怖くて電車に乗る事が出来なくなった。いや正確には「駅に行けなくなった。」


5月、やや汗ばむ陽気になってきた日の出来ごとだった。

客先に直行する予定だったため、5センチのヒールで新宿駅の構内を歩いていた。

私鉄からJRの乗り換え。足早に歩く人達の流れのままにJR新宿駅に向かい歩く。アポの時間は10時だったため、いつもよりも遅い時間。通勤ラッシュのピークを過ぎ、足早に歩く人達も朝の混雑ほどではない。


ドンっ

と、いきなり後ろから衝撃を受けた。後ろからまともにぶつかられたため、よろけてしまい足首が


ぐにゃり


と捻じれたのを感じた。


バランスが取れず、そのまま転び足首が痛くて立ち上がる事が出来なかった。


誰かが「待てお前。怪我させたかも知れないんだぞ」と叫ぶ声が聞こえ、

猛ダッシュで逃げていく男性の後ろ姿が見えた。


当時、渋谷駅や新宿駅などで問題となっていた、「当たり屋」とか「ぶつかり男」と言うワードが頭を過ぎったが、激痛でその場から動く事が出来なかった。


かなり酷く捻じった状態で倒れ込んだため、衝撃で足首を骨折、腱も切れていた。

手術をし、足首にはポルトが入り、リハビリが必要となる程の重症だった。

目撃者の話では、凄い勢いでの体当たりで、間違いなく悪意があったように見えたとの事。太った大柄な男性で、華奢な女性なので吹き飛ぶように倒れ込んだとの事だった。

現場検証に立ち会って頂いたそうで、有り難かった。

防犯カメラにも写っているが、再犯した時に現行犯で捕まえなくては、逮捕は難しいだろうとの事であった。新聞記事にもなったため、犯人が警戒して新宿駅には近付かない可能性もあるとの事。通勤途上だったので労災認定されたが、リハビリ後も足首に違和感は取れず、またこの時のトラウマから駅に近付く事が出来なくなった。

駅に向かおうとすると足が震え、涙が止まらなくなる。


通勤中の事故でもあり休職しているが、通勤出来ないだけではなく、移動手段としても駅に行けない事は本当に困ってしまうため、精神科への通院を考えているとお料理教室のお友達のグループメッセージに書き込みをした事が始まりだった。新聞記事にもなり、しばらく料理教室にも通えないため「表」のメッセージグループに通勤中に怪我をした事を伝えた。入院後は自宅で療養していたが、足の傷が癒えても心の傷が癒えず、料理教室の復帰も難しく、心配してくれたお友達への近況の報告でもあった。


すでに通うクリニックは決まっていた。家からも近く、気分転換に散歩しながら通える距離であった。その先生は阪神大震災、東日本大震災後のPTSDに悩まされる人達の診察を行ったり、メンタルヘルスの著作もある先生で、予約が中々取れない事で有名だったが、近所の人がたまたまこの先生と知り合いで、私の通勤の事故を知り、「一度診察して貰うと、心が軽くなるかも知れない」と紹介してくれて予約する事が出来た。それでも予約日は一カ月ほど先であったが、これでも早い方なのだと言われた。


そんな話をグループメッセージに書いたところ、朱里(あかり)から返信が来た。

「ねえねえ それなら精神科医紹介してあげるよー」

「めっちゃいい先生。それも産業医でもあるの。それで独身なの。あっ 彼女居るけどね」

思わず苦笑。いやいや私は診察して貰いに行くのであり、婚活しに行くわけではない。


「ありがとう。大丈夫。近所に名医と呼ばれる先生が居るのよ。で、知り合いが紹介してくれて予約も入っているから大丈夫。」

「えー いいから任せて。私からまず連絡するね。」


どこで開業しているのか知らないが、私は電車に乗れない。タクシーで通うのは休職中の身としては避けたい。

「本当に大丈夫だから」



~出会い~


朱里との出会いはお料理教室で同じグループとなった事が始まりだった。レッスン後に四名で料理した物を食事し、会話が弾み、グループメッセージを作った。と言っても、会話が弾んだのは同年代の子達。料理のレッスンは花嫁修業の一環と三名は二十代だったが、朱里一人四十代だった。

最初は旦那様のためにレシピを増やそうとしている人なのかと思った。まさか朱里を外してその場でグループを作る事も出来ず、朱里もメッセージに参加となった。


しかし

「私、独身なの。婚活してるから、今度合コン誘って頂戴♡」

これには仰け反った。私達二十代が出来る人なんていない。

その時、理恵が口を開いた。

「いやいやいやいや 無理無理無理無理。私達の同世代では朱里さんの良さが分かりませんよー。まだ若造なんで。」


「あー 大丈夫ー。私、年下全然平気だから」

大人し目な美香子は目を白黒させている。

ギャグだよね?


「そんな事言ってー、実は朱里さん 彼氏持ちなんじゃありません? だってモテるでしょー」と理恵が話を切り返した。そこから朱里のモテ自慢が始まった・・・


実はこの日、理恵が私と美香子の三人で裏グループを作った。

理恵は面白がっていた。

「あのおばさん凄いよねー。二十代男子に選ばれると思っているのかなー。」

「呼べないよね。と言うか、実は私、二年付き合っている彼氏が居て、合コンする事ないかなー」

「だよねー。紗希もかー。私もそろそろ付き合い長いしって思っての料理教室」

「私は実は結婚してるの。」と美香子。「レッスン中は指輪とネイル禁止だから、指輪外しているので・・・」


「わー 美香子ちゃん 結婚してるのね。お式の事や新居の事、参考にさせて欲しい」

「そっかー 美香子ちゃん ネイルしてないよね。」

「私、元々医療系の仕事なのでネイル禁止なんです」

「なるほどー。みんな 表と裏のメッセージ間違えないようにね」と裏を作った理恵から指示が出された。確かにこの存在がばれたら、面倒臭そう。




~違和感~


その後、何度もレッスンが一緒になる事に。

私達のお気に入りの先生のレッスンで仕事終わりに行けるとなると枠が限られている。私達の名前を見付けては、参加ボタンを押しているようで、すっかりお友達にされているようだった。


毎回毎回合コンと言われるので、理恵が若干キレ気味に

「最近の二十代って、色んな職種の人と出会いたいから、今は合コンじゃなくて街コンが主流なんです。朱里さん 街コンに参加してみたらいいんじゃないですか?」

「えー 街コン? それに行く時誘ってー♡」

「私達、実はそろそろお付き合いが長い彼氏がいるんで・・・」

「じゃあじゃあ その友達でも良いから紹介してくれない?」

「あー みんな彼女持ちですよー。適齢期なんで、無理です。」


この日のレッスン後の食事は砂を噛むようだった。

でも、朱里だけは平気な顔して、

「でも別れちゃう人だっているでしょー」と言いながら、食事していた。


裏グループでは、

「街コン行く気かなー」

「えー 年齢制限あったよねー」

「確か女性は40くらいが最高齢な気が」

「えっ 無理じゃん。街コンにも断られるのに、どうして合コンに参加出来ると思ってるのかなー」

「もう食べてる気しなかったよー」

「私、怖くて結婚してるって言えなかったわ」

「あー 旦那様の友達紹介してって言われそう」

「って言うか、あの人って人の話聞いてないよね?」

「うん聞いてないと思う」

「私、最初お会いした時からちょっと怖いなって思っていて」

「えっ? 美香子ちゃん どんなところが?」

「人の話を全く聞いていなくて、何て言うか自己中がちょっと度が過ぎている感じがして」

「確かに話を全部持って行こうとするし、あと話題が常に恋愛絡みと言うか」

「15歳年上って言う自覚がなくて、同じ年くらいに思っているところが怖い」

と、話題が展開していた。


表グループ

「ねえねえ みんなで相談して同じ枠のレッスン受けない?」と朱里から書き込みがあった。恐れていた事だった。たまに予定が入ってしまっているのか、私達三人で予約しても朱里が参加ポチしない事があった。そんな時は大人しい美香子も会話が弾み、私達は挙式の準備期間の事や新居の話などに花を咲かせていた。

「うーん 仕事忙しいんで、そこまで合わせるのは無理かなー」と理恵。

「私も仕事で残業が入る事があるので、合わせて貰って自分がキャンセルすると申し訳ないので」と美香子。

「私も納期の直前はバタバタで、修正なんて入った時には身動き出来なくなるし、社会人なんでゆるーく予約しません?」と私。

「朱里さんもお友達誘ってお料理教室行けばいいんじゃないですか?」と理恵。

「うーん 私の周りの人って、食べるのは好きでも作るのはって言う人が多いのよねー。食べ歩きするお友達は居るんだけど。そうだ、今度週末にお食事会しない?」


でーたー。実は三人で何度もランチした事はあったのだが、当然にして朱里の事は誘っていない。実は理恵がいよいよ本腰入れてとあのブライダル雑誌を購入し、これについての話を美香子から聞く会を開いていたのだ。最初のレッスンからそろそろ半年が経とうとしていた。


「紗希ちゃん この前の週末に表参道のカフェに行ってたじゃない? あれ、三人で行ったんじゃないの?」と朱里。

(しまった。インスタに上げちゃった。)

お料理教室で作った料理写真やたまに外食した時の食事の写真をインスタに上げていた。顔写真は載せないからと油断していた。

「その日、理恵ちゃんもそこのお店にチェックインしていたのよねー」と朱里。

もう探偵なの? 別のSNSにアップした理恵の投稿もチェックしていた。


「今度のお料理教室でお食事会の相談しましょうねー」と取りつく島がない。


裏メッセージで「なんとか断ろう」と話しがまとまった。


~殺伐~


週に一回のお料理教室。仕事帰りで面倒くさくなる時もあったけど、参加すると楽しくて、作れるレシピが増えて行って楽しかった。

今回は見事に朱里と被ってしまった。ただ、ここのレッスンは最大6名まで参加可能なため今日はあと二人、いつもとは違うメンバーが参加していた。社会人に成り立てのような若い女の子が二人。友達同士での参加だった。


いつもとは違うメンバーが混じっていたので、レッスン事態は楽しく終了した。

いよいよ試食の時間だ。

朱里の独壇場が始まった。

「ねえねえ二人はお友達なの? お仕事はなに?」と個人情報を無視してずけずけと聞いてくる。二人は大学時代の友人で会社名は濁し、金融とITと答えた。社会人一年目だそうで、今日は見学を兼ねての参加との事だった。


「私は法律事務所に勤務してるの。パラリーガルって言うやつ。大学が法学部だったから。男性のパラリーガルは司法試験落ちちゃった人とかが多いけど、女性の採用は弁護士の先生のお嫁さん候補として採用されるの。私もそのはずだったんだけど、うちの事務所、入ってみたらおじいちゃん先生ばっかりで。だから先生方に『責任取って独身の先生紹介して下さいね』って言ってるのぉー」


初参加の二人がぎょっとしている。そりゃあそうだ。どっから見ても四十代のおばさんなのだから。美魔女ならチャンスはあるかも知れないが、顔は男性の大食いタレントにそっくり。馬面のおばさんが勘違い発言をしているのだから、そりゃあ去年まではきゃぴきゃぴの女子大生だった二人には、異様な光景としか映らないだろう。

「ねー 先輩に頼んで合コン開催してくれないかしら? 金融なんでしょ? 可愛い後輩がお願いすれば開催してくれるんじゃないかしら?」


二人は「申し訳ないのですが、今日初めてお会いした人を紹介とか出来ないです」と言い、早々に帰って行った。


「なにあれ。ケチじゃない? 合コン開催くらいしてくれたらいいのに。自分達だって楽しめるでしょうにー」

「それよりさー お食事会しましょうよー。私だけ仲間外れみたいでちょっと嫌な感じ。表参道で食事したんでしょ?」

美香子も一緒だとはばれてないようなので、たまたま買い物していてばったり理恵に会ったのだと話す。だが納得しない。

今回は初お目見えの二人が居るから、うまくのらりくらりと試食して帰れると思っていたのだが、その二人が半分くらい食事を残して帰ってしまい、私達三人は朱里の前に取り残されてしまっていた。


取り敢えず、向う一カ月は予定が入っていると答え、グループメッセージで日程決めましょう、と言って解散となった。



~作戦~

「どうする?」

「もうしょうがないし、一回行けば納得するんじゃない?」

「で、嫌な雰囲気にすれば諦めるんじゃないかなー」

「でも料理教室の試食でも、空気ブチ壊してるのが分からない人だよ?」

「もういっその事、通う教室変える? 他にも系列の教室あるし」

「まさか22歳の子たちに合コンねだるとは思わなかったよね」

「いやあもうあれ恐怖でしかないと思う。それも初対面。頭おかしいよね」

「そもそもが最初に会った時も、私達は同じ年代だから話が合ったけど、全然会話が噛みあって無かったよね。それでも仲間外れみたいで嫌だから、グループメッセージに入れたんだけど」

「と言うか、お嫁さん候補にはびっくりした」

「私もー。ちょっと何言ってるの?って思っちゃった」


もうメッセージが止まらない。

「合コンとか言ってないで、結婚相談所に登録すればいいのに」

「そうだよね。あとはお見合いとかさー。もう結婚が目的な訳でしょ?

私達だってもう結婚を考え始めているのに、もう朱里さんはちょっとお付き合いしてみてって年ではない訳だよね?」


そんな時に理恵が書き込みした

「私もそろそろお料理教室辞めようかなって思ってたんだ」

「えっ? 辞めちゃうの?」

「うん チケットが無くなりそうで、追加で購入するか考えていたんだけど、本格的に結婚準備に入ろうかと思って」

「そっかー 忙しくなるもんね」

「そうそう 仕事しながらの準備だし、結婚するってこんなにやる事あるんだーって感じ。美香子に聞いといて良かったよー。マジ大変」

「私はまだチケット残ってるけど、美香子はどう?」

「私もまだ残ってる。」

「じゃあそれを消化してから考えようか」

「そうだね、みんなあと何回分?」

理恵「私はあと三回」

美香子「私はあと十回」

紗希「「私があと七回」

「あと三回は三人で参加しよう。そして残りのチケットの消化だけど、なるべく沢山

の予約が入っている枠を申し込めば、新しい人と一緒になって、朱里さんもそちらに興味が行くと思う」

「その作戦で行こう」


そんな矢先に怪我をした。



~豹変~

入院中は当然の事ながらお料理教室には行けなかった。

また傷害事件として事情聴取を受けたり、マスコミが来たりと大変だったため、お見舞いはお断りしていた。

退院して気分転換にレッスンに通いたかったが、電車に乗れないのではどうしようもない。会社に近い銀座の教室に通っていたからだ。

裏グループにだけ連絡を入れようかと思ったが、美香子一人でレッスンに参加した時にあれこれと聞かれるのも可哀想だし、怪我とPTSDの話には食いついて来ないと思った。


朱里からメッセージが来た

「精神科医の先生に連絡取れたよー。クリニックに電話するかホームページから予約して下さいだって」

「ごめんなさい。私もうすでに別の先生の予約取ってるから」

「でも一カ月も先なんでしょ? それに早めに診断書が欲しいんじゃないの?

通勤出来るってなったら出社しなきゃいけないから、精神科の診断書が必要なんじゃないの?」

確かに歩行に関しては、杖を使いながら少しずつ歩く事は可能になっていたが、かなり酷い状態だったため、外科からも「通勤はまだ無理」と言われている。が、いつかは出社しなくてはならない。私が診察を受けたいのは、もう少し前向きな考えからなのだが。


「取り敢えず行ってみなさいよ。品川のクリニックだから。私の顔潰さないでよね。わざわざ連絡取って上げたんだから。うちの法律事務所が顧問になっている企業の産業医だから、知り合いなの。メッセージのやりとりしてるんだー」


その日から毎日毎日一日中メッセージが届いた。もううんざりでノイローゼになりそうだった。内容は

「まだ予約してないみたいだけど」

「せっかく紹介したのに」

「人の親切を踏みにじる」

「先延ばしにしないで受診したら?」

「先生も忙しいのに、私が紗希ちゃんの事を相談したら、親身になってくれているのに」


私は何も頼んでいない。

でも限界だった。受診すれば納得するのか?顔を立てればいいのか?この一日中届くメッセージに辟易としていた。そしてこの人は仕事をしているのだろうか?


空いているのか、直ぐに予約が取れた。平日のみの診療のため、母に付き添いを頼んだ。怪我をした後、初めて電車に乗る事となった。足が震える。動機が止まらない。涙が出て来て、あの日の事を思い出す。

電車に乗ってしまうと治まるのだが、電車に乗る前と降りた後、ホームを歩いている時やコンコースを歩いていると眩暈がする。歩き易いようにとスニーカーで来た。しっかりと足の裏を地面に付けているつもりなのに、足首をぐにゃりと捻るんじゃないかと、頭の中で思ってしまう。近所をリハビリがてら散歩している時はそんな事なのいに。

必死の思いでクリニックに辿りついた。


「朱里さんからの紹介ですね」と担当医に言われる。

アラフォーの医師だった。一から事件の話をしなくてはならなかった。

新聞記事にもなったのと、朱里が話してくれてはいたが、実際の状況を全て話した。思い出し震えがきた。その後アンケート形式の質問状に記入をさせられた。このスコアによって、今の状態がどれほど重いかを判断するらしい。


結果は「鬱」状態に値する高いスコアだった。自分でもそんな状態なのかと驚き、医師に診断書をお願いしたが、そこに書かれていたのは「適応障害のため要観察」であった。そこには通勤については何も書かれていなかった。

後で別の友人に聞いた話によると、産業医と言うのは企業側の人間である、と言う事だった。この医師も労働者ではなく、企業側に付き、なるべく働かせようと言う考えであるとの事。この医師に「通勤出来ないのですが、この診断書では会社に行けって事ですよね?」と尋ねると、「少しずつ慣らしながら通勤してみては」と言われ、鬱でもなく、自宅療養でもなく、会社に行けと言う診断だった。


会計を済ませ、クリニックを出るとトイレで吐いた。私の状況を見て、母がおろおろしている。「紗希ちゃん お薬はどうする? 安定剤と睡眠薬の処方箋が出ているけど」と言われたが、あの医師の処方した薬を飲む気にもならず、帰りの電車には乗れず、タクシーで帰宅した。


朱里からのメッセージの通知はオフにし、無視し続けた。

私にとって駅に行くと言う事が本当につらい事なのを再認識した。三日間寝込んだ。

やっと近所の精神科のクリニックの予約日となった。


朱里が紹介した医師の診察は30分にも満たなかったが、このおじいちゃん先生は一時間じっくりと話を聞いてくれた。事故の話も「ご近所さんや新聞で知ってるよ。今どうしてるかを話してね。無理に思い出す事はないよ」と言われた。私は前回の別の医師のクリニックに行った時の話を堰を切ったように話し始めていた。

おじいちゃん先生は「うんうん」と聞きながら、「もうそんな無理はしちゃいけないよ。きっといつかは治るけど、この治るのに掛かる時間が人それぞれなんだよ。直ぐに治っちゃう人も居れば、ずーっと忘れずに頭の中に残っちゃう人も居る。思い出して眠れない時もある。そういう時のために気持ちが落ち着く薬と眠れる薬を用意しようね。辛い事はしなくていい。心は見えないから治りも分からなくて当たり前。骨折みたいに骨がくっついたから、はい治ったじゃないからね」


診断書も書いてくれた。「PTSDから鬱を併発しており自宅療養。」

その後、この診断書から職場が配慮してくれ、三カ月後に自宅でのテレワークで職場復帰を果たす事が出来た。仕事をしていないと言う焦りから解放され、日増しに精神状態も安定していった。


おじいちゃん先生に診断書を貰い、今度は怒りが込み上げて来た。

品川のクリニックは全くの無駄足だった。それどころか、精神的ダメージを受け、本当にその前後は辛い日々だった。診察日が近くなるにつれ、恐怖で眠れなくなり、何度も予約をキャンセルしようとした。当日辛かったのは言うまでもない。そして帰宅後は寝込んでしまったが眠りは浅く、悪夢と怪我の当日の事を思い出すと言う事を繰り返した。


朱里からのメッセージが大量に溜まっていた。

「先生どうだった?」

「私の事なんか言ってた?」

「先生、絶対『朱里さんは優しくて心が綺麗な人』って思ってるよね♡」

「通うとなると先生に会えるよね? いいなー」

「私も付き添いで一緒に行こうかな?」

「で、診断はどうだった?」

「返事ないんだけど」

「人にお世話になっておいて、それはないんじゃない?」

「一言御礼ぐらい言ったら?」


途中から読むのを止めた。

怒りを押し留めながら、近所のクリニックで診断書を出して貰った事と、そこに通う事を送信した。


速攻で返事が来た。

「えっ? 品川の先生のとこじゃないの?」

私は行くまでどれだけ大変だったかと言う事と、診断書の内容、心の傷も癒えていないのに通勤を促された事を説明した。


「えー 取り敢えず二か所通ったら? それにその診断書も何かに使えるかも知れないじゃん」


馬鹿なんだろうか? もうすでにおじいちゃん先生の診断書を提出済み。診断内容が軽い方の診断書を一体何に使うのだろう。更には電車に乗れない私にどうやって通えと言うのだ。どうして二か所も通わなくてはならないのだろう。


「タクシーで通えばいいじゃん」


ブチ切れた。


「もういい加減にして。私の事を心配しているんじゃないじゃない。どうしてそんなにそこのクリニックに通わせたいの? 私は私に合うクリニックが見つかったし、そもそもがずっと断っているのにしつこくしつこく予約取れとか、なんなの?」


私の剣幕に驚いたのか、

「まあ合うクリニックがあったのは良かったよね」と意気消沈していたが、もう読む気もしなかった。



~衝撃~

裏メッセージグループで経緯を報告した。

取り敢えず気持ちも安定しそうで、おじいちゃん先生の診察を受けてからは睡眠薬のおかげもあり、ぐっすり眠れている。


理恵から衝撃の事実を聞かされた。

「紗希の入院中、私と美香子と朱里さんでレッスンが一緒になった事があったのよ」

私の怪我で予定が狂い、理恵から「チケットをさっさと消化したい」と言われていた。

「その時にすっぱりと『結婚するのでお料理教室止めます』って伝えたの。

そうしたら、『結婚式呼んで。ご祝儀弾むから』って。もう魂胆見え見えでしょ。私の披露宴に男漁りに来るんだよね。もう気持ち悪くて。『お呼びするほど親しくないから』って言ったのにしつこくて。『どこでやるの?』だの、『相手はどこに勤めているの?』だの、『どこの大学だ?』だの、もうムカついてムカついて、露骨に嫌な顔しているのに、ずーっと喋ってるの。」

「うわあ そういう攻撃に出たか」

「私、返事してないんだよ、嫌な顔して。ただ、もう通わない宣言したの。なのにずーっと喋ってるの。もう美香子と『やっぱりちょっとイカレてるよ」って話してたの。」


「でね、私も残りのチケットは払い戻ししようかなと思って」と美香子。

「美香子が払い戻しするなら私も払い戻ししようかな。いつ電車に乗れるようになるか分からないし」

「実はね、朱里さんに私が薬剤師だって言う事がバレちゃったの。」と美香子。

そう美香子は薬剤師なのだが、それを言うと朱里が目を輝かすので医療事務だと言っていたのだ。

「レッスンの時に先生が生理痛のお薬が効かないって話になって、鎮痛成分の違うものを試すのも・・・って話をしちゃったのよ。そうしたらいきなり法律持ち出して来て、『資格もないのに薬の説明しちゃ駄目』とか言うから、私も頭に来て『私、薬剤師です』って言っちゃったの。そしたら・・・」

「えっ 美香子もロックオンされたの?」

「そうなの、理恵ちゃん同様に『薬剤師の男性紹介して』だの、『大学の同級生紹介して。MRでも良いから』とか言われて。MRでもって何なんだろうね?」


もうここまで行くとホラーだ。頭がおかしい。嫁ぎ遅れて焦っているのだろうか。

そんなに自分が魅力的だと思っているのだろうか。


「その日はいきなり『私の元彼は医者だったの』って始まって。何でも持病の通院で会社の近くの総合病院に行ったら、外来の診察に元彼が居たらしいのだけど、おかしくない? 帝王大学病院の医師でたまたま総合病院の外来のコマ持っていて、そこに来てたって言うんだけど、そんな先生が外来の個室に居ないでふらふら病院内歩いてないよね?

『別れ方が良くなかったから、見付かったからヤバイってドキドキした』って。妄想としか思えない。」


「でね、個別に『薬剤師紹介して』ってメッセージがきたの・・・」

「えっ? 美香子だけにメッセージ送ったの?」

「そうグループメッセージじゃなくて、私個人に」

「もうしつこ過ぎて無理」

「私も同級生とかみんな二十代で、十五歳も年上の女性に紹介するような人居ない」

「でも自分は二十代男性にもつり合うって思っちゃってるもんね。」


理恵が

「確証はないけど、精神科の先生を狙っていて、接点作るために紗希の事を紹介したんじゃないかなー。紗希が通い始めれば、あれこれと連絡取れると思ったんじゃない? 私達にも大量のメッセージが来るくらいだから、その先生にも大量のメッセージ送りつけていたんだと思う。もうそうだとしたら、怪我をした人を利用するなんて許される事じゃないんだけど。」

「私もそんな気がしてたの。二か所通えとかおかしいよね。それも電車に乗って大変な思いをしているのに。」


話は尽きなかったが、逆切れした私に対して、また朱里からメッセージが来るとは思ってもいなかった。


~本性~

表のグループに私と美香子のお料理教室の残りチケットの払い戻しを書いた。

こうやって書けば、さすがに朱里も気付くだろうと思ったからだ。

朱里の既読はついたが返信はなく、もう私達の事は利用出来ないと悟ったのだと思った。


私達三人は職種も違い、お互いの話が新鮮でどんどんと仲良くなって行った。社会人になってからは仕事関係以外では中々繋がりが出来ない中、三者三様性格も違うのに、仲良し度が増して行った。そしていよいよ理恵の挙式が近付いた。

すでに美香子は結婚していたが、理恵から「呼ばれていないのに呼ぶのってありかな?」と打診を受け、美香子は快く「ぜひ招待して」と答えていた。

もちろん私も招待を受けた。当日は週末と言う事もあり、彼氏が車で送り迎えしてくれる事となっていた。

これで電車に乗れない問題もクリアで、参列出来る。


自分の事のように挙式を楽しみにしていたら、いきなり朱里からメッセージが届いた。

「ねえ、理恵ちゃんの結婚式に招待受けてるよね? 私と変わってくれない?

私が変わりに参列するから。」

はあ? なに言ってるの?この人。

「代理出席って言う事で。美香子ちゃんも呼ばれているんでしょ? なら私も会場で顔見知り居るし。紗希ちゃんは具合が悪いとか、電車乗れないって理由で欠席して、席が空くのは不味いから私が参加するって事で」


もうこの人には何を言っても無駄だ。どれだけ失礼で、どれだけ勘違いした事を言っているのかが分からないのだから。

こんな人でも傷付けまいと言葉を選んでいた自分があまりにもお人好し過ぎて、眩暈がしてくる。


返信はせずにブロックした。

そしてこのメッセージをスクショし、裏グループに貼り付けた。

理恵と美香子もブロックし、これで恐らく終わりだと思う。


終わりだと信じたい。


〜エピローグ〜

理恵のウェディングドレス姿に感動し、自然と涙が溢れた。

隣で美香子も涙ぐんでいる。

私と彼も婚約し、次は私の番。

もちろん理恵と美香子には参加して貰う。

こんなに仲良くなれ、お互いをお祝い出来て幸せ、と思っていたら、披露宴会場の扉が勢いよく開き、そこには一時のキャバ嬢か?と思わせるような、ド派手なドレスに頭を盛った、朱里が立っていた。




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