たまゆらの夏霞

よる子

たまゆらの夏霞

 いい子にしていないと神さまに見捨てられるよ。今朝亡くなったばあちゃんの口癖だった。それはずいぶんと心が狭い神さまじゃないかと思うわたしの幼心は捻くれていた。柳の字が彫られた表札をぶら下げるばあちゃんの家に残された孫のわたしは、この海沿いの田舎町で生まれ育った高校二年生で、明日十七歳になる。ばあちゃんが亡くなったことでたくさんの顔も名前も知らない親戚がこの家に集まるらしい。嫌だなと思った。ここはばあちゃんとわたしと、それからダリアの家なのに。

 わたしはこの世に生まれ落ちたあの瞬間からいわゆる神さまが見えていた。神さまは認識するたびに、右の手首に深い紅色の髪結い紐を結んでいることを除いてその姿を変えた。それは端正な顔立ちの青年だったり年端もいかぬ幼い少女だったり、かと思えば初老の男性のときもあった。初めて見た姿はなんだったか、それだけはどうしても思い出せない。まあ赤ん坊の記憶なぞ皆等しく無いに等しいだろう。気が付けば両親ともにいなかったわたしはばあちゃんの住むこの古い平屋の日本家屋に同居することとなった。神さまはいつもわたしのそばにいてくれたから、わたしには友だちとかそういった親しい人間はばあちゃん以外にいなかった。

 ある初夏の夕暮れ、無垢なおてんば少女だったわたしは舌っ足らずに言った。

「神さまっていうとみんなへんなかおするから、あだなつけていい?」

 分校に通う両手で足りる程度の全校生徒、それから年老いた町民たち。みんながわたしをおかしな子を見る目で見ていることは気づいていた。わたしの突拍子もないこの申し出に、神さまは左手で顎を支えるようにしてしばらく目を閉じていた。この日の神さまは若い青年だった。夏の夕方にぴったりな浴衣姿で下駄をカラコロと鳴らしていた。

「……だめー?」

「…………よい」

 下からのぞき込むとそう言って何度も見てきたにんまりとした顔で笑った。

「どうせつけるのならば、うんと素敵な名にしておくれ」

 わたしは負けんばかりにふふんと腰に手を当てた。

「すっごいすてきなんだよ。ききたい?」

 もうわくわくが隠し切れないのはわたしで、いつだってそんな様子を見てひざまずき耳を傾けてくれるのはこの神さまだけだった。二人しかいないのにこそこそ話をするように口を耳に寄せて、囁く。

「あのね…………"ダリア"」

 はやく反応が見たくて顔を離すと、神さまはぼそっと反芻した。だりあ、ダリア。そんな神さまをよそにわたしは小さな口を必死に動かす。

「あのね、あのね、ダリアはかんじだと、わたしのなまえがはいるんだよ」

「ああ……たしか、天竺牡丹と書くのだね。ほんとうだ、おまえの牡丹が入ってる」

 牡丹は、わたしの名前だ。はしゃいで庭の一か所を指さす。八重咲きするダリアが静かに凛と咲き誇っている。

「あのおはな、ダリアだよ。すてきでしょ」

 神さまは眉を顰めて、そうだねと笑った。斯くして神さまのあだ名は"ダリア"となったのだった。

 そして今日、唐突にたった一人の保護者がこの世を去り、一人では出来ることが限られている十六歳はどうしようもなくて叔母に連絡をした。叔母はすぐに数人の親戚を引き連れてきて葬式や必要な手続きを行ってくれた。そしてわたしが一人になったことでここにはもう住まわせられないこと、だからわたしは叔母の家に引き取られることが伝えられた。叔母はたいそうわたしの心配をしてくれていたが、わたしはここから離れる気などなかった。十六年間を過ごしたこの家を突然捨てられるほどわたしは出来ていない。けれど覚悟をして飛び出したってこんな田舎者の未成年が一人で生きていけるわけがない。世の中が甘くないことくらいわかっている。でも、それでもここに縋りつこうとするのは滑稽だろうか。

 そういえば一日中ばたばたしていて今朝からずっとダリアと話していない。みんなが帰ったあとでやっと一息つけたころにわたしは思い出した。セーラー服のプリーツスカートと長い黒髪を翻して仏間を出る。縁側へ向かうと裏山で大合唱するひぐらしの悲しい鳴き声が出迎えてくれる。ダリア、と呼ぶ必要もなく、その姿はすぐに見つかった。今年も変わらず咲いている、八重咲きのダリアをしゃがみこんでじっと見つめていた。その目は少しの憂いを帯びていたと思う。

「なにしてるの」

「……牡丹、ばあさんとのお別れはできたかい」

 つっかけを履いてじゃり、と砂を踏む。ダリアはあの日と同じ若い青年の姿をしていた。浴衣に下駄で、夕涼みでも楽しんでいるかのような格好だ。海風がダリアの素直な髪をさらさらと撫でていく。わたしの髪はそんなにきれいに揺れない。やっぱりダリアって神さまなんだ。こうしてわたしは何度も再認識する。

「お別れ……はできたかわかんないけど」

「そんなもんさ」

 ダリアが縁側に腰かけるのでわたしも隣に座る。一つの影が橙色の庭に伸びる。少しの沈黙と潮風、それから小さくなったひぐらしの声がわたしたちを包んだ。

「……ダリア、わたし叔母さんの家に住むんだって」

「いいじゃない。ここで一人で暮らすなんて牡丹にはまだ無理だろうから」

「わたしこの家からはなれたくないよ。ダリアはずっといっしょだよね?」

 ひぐらしが鳴きやんだ。黙るダリアの胸倉をきつく掴んで叫ぶ。

「ダリアまでわたしを一人にするの!」

 静かにわたしを見上げるダリアの頬にぬるいしずくが伝った。親であり友人であり誰よりもわたしのことを知っているダリアに対して幾度となく感情を露わにしてきたが、涙があふれるほどに怒鳴ったのはこれが初めてだった。

「わたし……ばあちゃんもダリアもいなくなったら……どうしたら、いいの……」

 わたしの頭がダリアの浴衣に沈むとともに吐く言葉も尻すぼみに消えていく。しゃくり上げると体温のない手がわたしの頭を撫でた。髪結い紐の金具が冷たい金属音を立てる。わたしはひたすらダリアの浴衣にしがみついていた。いなくならないで、わたしを置いていかないで。

「……牡丹、私といっしょにくるかい」

 それは、今の私にはとてもとてもあまく優しい響きとなって両耳を劈いた。どうしてダリアが泣き出しそうな顔をするのかわからない。ただわたしにはもう退路がないことしか、わからなかった。うん、わたしは鼻をすすって頷いた。陽は沈んで、小さな三日月が顔を出していた。



 真っ白な視界で目が覚めた。薬品の匂いがする。どうやら横になっていたらしく上半身を起こすと華奢な花瓶を手にする叔母の後ろ姿が見えた。ここはどうやら病院らしい。わたしはわけがわからなくて、動きに合わせて軋むベッド音にすら驚いた。その音に反応したのはわたしだけではなく、同時に叔母も肩を跳ねさせた。

「牡丹ちゃん……!」

 ふと叔母の手から解放された花瓶は水が入っていなかった。叔母がわたしの体をさする。

「牡丹ちゃん、痛いところはない?大丈夫?なにがあったの?」

 矢継ぎ早に問いかけられて困惑が隠せない。なにがあった?わたしは、なんで病院に?

「おばさ……叔母さん、わたしどうしてこんなところに」

「一週間前にあの家の庭で倒れてるのを私が見つけたの……そのまま目が覚めなくて」

 わたしはばあちゃんの遺体を仏間に寝かせて、そのまま一人縁側で寝てしまったのだ。そのまま一週間、こんこんと眠りこけていたのか。疲れていたのかもしれない。

「お医者さんを呼んでくるわ。牡丹ちゃんはここで待っていてね」

「あ……」

 叔母は足早に病室を飛び出して行ってしまった。ベッドの周辺を見渡すとわたしが寝ていたらしい枕元に紅色の紐を見つけた。見覚えがある気がして手に取ってみるとそれは髪を結う紐らしかった。叔母さんはショートカットだ。これはだれのものだろう?金具が光る。気づけばわたしの目からぼろぼろと大きな水滴が零れ落ちていた。

「あれ……」

 拭っても拭ってもとまらないそれは髪結い紐の色をさらに濃く染め上げた。深い深い紅色は夏の夕暮れを思わせた。わたしはその髪結い紐を使って肩を過ぎた髪を耳の後ろで一つに結んだ。

 若い医者を連れて戻ってきた叔母によるとばあちゃんの葬儀や火葬は終わってしまったらしい。一週間も経っているのだから当たり前だ。あの家は売りに出されるとのことだった。海沿いの田舎町に佇む古い日本家屋なんてわたし以外に誰が好んで住むのだろうと思ったが、都会の人の間では田舎への移住が流行らしい。おまけにそういう風情ある物件が人気なのだという。ふーんと小さく言って、ばあちゃんのことを思い出していた。いい子にしていないと神さまに見捨てられるよ、神さまはいつも私たちを見て下ってるからね。優しい声音でそうわたしに言い聞かせるばあちゃんのそばに、だれかいた気がする。だれだったかな。思い出せないけれど、今となってはあの家での出来事はすべてが夢のようだった。

 わたしは新しい地で、新しい制服に身を包んで、新しい生活をスタートさせた。

 苗字が柳から苗木に変わった真夏の日、わたしは十七歳の女子高生だった。



 唯一の保護者と言える人間を失ったその子は、十六歳の少女だった。彼女は私の姿が見えるらしかった。愛らしい幼気な笑顔で私の名を呼ぶ。代々柳家の女性を見てきた私に片仮名の名をつけたのは彼女が初めてだった。柳家の女性を見守り始めてどれほどが経つのか、彼女の母親は若くして逝ってしまい残された幼い彼女は祖母と二人で慎ましやかに暮らしていた。私は見守り続けた。いつしか背丈も髪も伸びた彼女が一人きりにならないように。

 しがない神のそんな祈りも虚しく、彼女は齢十六歳にして祖母にまで旅立たれてしまった。一人にしないでと嘆くその姿はずいぶんと幼かった。彼女はこの家に執着していたのだ。祖母と私と過ごしたこの家に。その祖母が他界したことで彼女をここに縛り付けるものは、私だけになった。決心などいらぬ、私は柳家の女性を見守りその将来を安泰へ導くことが仕事だ。恥ずかしながら神と言えど万能ではない私にできることは、彼女をここから解放すること。そのためならばなんだって成そう。

 幼さ残す彼女は甘い囁きに頷いて見せた。これがさよならの合図とも知らずに。

 私の存在も、記憶も、なにもかもを彼女から消し去った。彼女を縛るものはもうなにもない。

 柳家の血を引くきみだ、またきっとどこかで会えるさ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

たまゆらの夏霞 よる子 @maya_0902_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説