28 幸福の器
楽しいことや、喜ばしいことがあると、人は胸が満たされ幸福な感覚に恵まれる。とのことらしい。
らしいというのは、私が未だ、そのような境遇に恵まれたことがないからだ。
上手くいったり、褒められたり、思わぬ幸運が舞い降りる。それが楽しかったり、喜んだりする感覚をもたらすとのことだが、私の胸がそれで満たされたことはない。
だからといって、人の不幸は蜜の味とする生き物でもないようだ。一番甘いだろう、対抗心を抱いている者を屈辱の底に落としても、特に感慨は浮かばなかった。
これは、と思うことは過去にいくつかあったが、どれも胸を軽く引っ掻くだけ。むしろ期待を煽るだけ煽った小さな引っ掻き傷が、余計な消化不良をもたらした。
誰もが羨むような成功を収めようとも、それは私を幸せに導くものではない。
一方で、怒りや哀しみの感情は一人前に覚えるのだ。
ちょっとしたことで嬉しそうにしたり、楽しそうにしている人間が妬ましい。手に入らない幸福の宝石を見せびらかされているかのようで、憎しみすら覚えるほどだ。
私は社会に生きる人間として、欠陥を抱えているのかもしれない。
一生そのような世界で生きるのは苦痛でしかないのだけれど、幸福に満たされる未来への希望と期待と一時的な快楽だけが、僅かなところでこの生命を世界に繋ぎ止めている。
美味しいものを食べたり、疲れた身体を湯船に沈めたり、睡魔の中ベッドに身を委ねたりなど、日常の中で一時的な快楽を得てはいるが、それが皆の言う宝石のような幸福と同じかと問われれば、首を傾げるしかあるまい。
単にそれくらいでしか、私は生の充実感を感じることができないのだ。
目的達成こそが、わかりやすい嬉しさや喜びを得る手段だとしても、それで幸福を得られたことはない。
もしかすると私の幸福の器には、その底に穴が空いているのかもしれない。
いっそ命を燃やすほどの極限状態に身を投じれば、生きる嬉しさと喜びが得られるのだろうかと思ったが……残念ながら、そこまでの状況はお目にかかったことはない。
ああ、だから、
「世界を終わらせることに興味はないか?」
あの日、カノンに与えられた目的は、人生で一番胸が高鳴った。幸せを垣間見えた気すらしたのだ。
日常で幸福を得られないのなら、非日常の中でこそ得られるのではないか。掲げる目的の大きさが、嬉しさと喜びの大きさに比例するのなら、これ以上大きな目的はこの世界にあるのだろうか。
その先にあるのは刹那的な幸福かもしれない。
その先にあるのはただの期待外れかもしれない。
どちらにせよ、それならそれで、世界は終わるべきにたる、そして命を燃やすに十分たる理由だったのだ。
この先でもっと面白そうなことがあれば、乗り換えることは辞さないが、当面の目的ができたことに久しく、あるいは初めての充足感に私は満たされていた。
なのに、私をその気にさえお預けをしている男が、あまりにもくだらぬ日常を繰り広げている。
煌宮蒼一、サクラ・ローゼンハイム、そしてあのクリスティアーネ・リリエンタール。彼らと共に、まるで旧知の仲のように日常を騒がせ、尊い日々のように謳歌しているのだ。
最初は蒼き叡智を手にした煌宮蒼一に、探りを入れるためのものだと思った。だが違う。私はカノン・リーゼンフェルトという、人間の本質を知っている。知っている上で断言する。あれはバカみたいにはしゃいで楽しんでいるだけだ、と。
それを知ったとき、私は憎しみを通り越して殺意すら抱いた。
もう、我慢はできなかった。
「カノン」
だから私は屋上へと彼を連れ出すと、真っ先にネクタイを掴んで引き寄せた。それこそもう少し引き寄せれば、唇が重なりそうなほどの距離まで。
「随分と楽しそうな計画を練っていたようね」
私はカノンを真っ向から睨みつけた。
殺意を乗せるほどの剣幕だ。カノンにもこの怒りは十分に伝わっているだろう。
なのに唇を重ね合わせんとするのに相応しい、ロマンチックな微笑が浮かんだ。
「計画というほどではない。ただの思いつきだ。前から一度やってみたくてな。最初は上手くはいかないとは思うが、なに、ベテランもついている。胸を借りてやるつもりだ」
「ちなみに、なにをやるつもりなのかしら?」
「庭でキャンプ。略して庭キャンだ」
「あら、とても楽しそうね。私も混ぜてもらいたいわ」
「是非参加してくれ。皆で美味いものを喰らい酒を呷るのは楽しいぞ。きっと君も――」
これ以上の戯言が聞こえることはなかった。胸の底から湧き上がる憎しみが、この身体を突き動かしたからだ。
無意識に、私の右手はこの男の頬を打つ。初めからそういう楽器であるかのように、面白みのない乾いた音が綺麗に鳴った。
打たれるがままに振られた首は、メガネを宙へと投げ出す。からん、と落下していく光景を、カノンはただ眺めていた。
カノン・リーゼンフェルトが女を惹きつけているのは、なにも家柄や才能、その容貌だけではない。女へ向けるその優しやさ甘さこそが、皆が王子様のような少年だと持て囃すのだ。
ただし、それは幼き頃から演じてきた理想のカノン像の一面だ。
家族が、親戚が、教師が、級友が、あげたらきりがないほどに取り巻く人間関係。押し付けられた理想のカノン像を、一つ一つ上手く取り入れ纏めた物が、皆が知るカノン・リーゼンフェルトだ。
私はカノンから教えられた。黒の器として完成するずっと前から、黒の賢者の声を聞き続けてきた。幼き頃から心の面を、彼は育て上げられたのだ。
俺は選ばれたんだと、カノンは語っていた。
リーゼンフェルトの名すら下に見る、選ばれた者という自負と優越感と特権意識が、カノンには根付いていたのだ。
だから、そんな特別の塊だと思っている男が、本当のカノンを知る女に平手を貰っておいて、我慢できるわけがない。
なのに、
「一つ、謝っておくことがある」
憤りを堪える気配もなくカノンは淡い微笑を浮かべるだけだ。
落ちたメガネに手を向けると、風が起こった。吹き上がったメガネは放物線を描きながら、カノンの手に落ちてくる。
「世界を終わらすのは中止だ。俺には成し遂げなければならない野望が出来た」
「成し遂げなければならない、野望?」
「オタクを導く世界の神となり、そして声優と結婚するんだ」
「……はぁ?」
カノンという男から出るとは思えない単語が出てきて、私はただ唖然とした。なにを言っているのかが、心に落ちてこないのだ。
まず、オタクとセイユウ、という意味が理解できない。結婚してみせる、だけがどうにか解読できたくらいだ。
「世界を終わらすとか、そんなくだらないことをしている暇はなくなった」
「……ふざけないで」
「ふざけていない。至極真面目な話だ」
「ふざけてるわよ。人をその気にさせるだけさせておいて、そんなくだらないことをしている暇はなくなった、ですって……? バカにするのも大概にして!」
今度は反対の頬を、私は力の限り叩いた。
カノンほどの男だ。その気になれば簡単に避けられたであろうに、黙ってそれを受け入れた。衝撃による慣性に従うまま首を振った。
後に思えば、最初からもう一度平手を受け入れるつもりだったのだろう。なにせカノンは、そのときメガネをかけていなかったのだ。
そのときの私は気づかなかった。嬉しさや喜びで満たされたことのない胸は、憎しみと憤りに満たされていたのだ。
「……人生は、つまらないか、ユーリア?」
二度も女に平手を貰っておいて、カノンはなおも微笑みを崩さない。
「ええ、つまらないわ」
「当然だ。なにせ、君自身がつまらない人間だからな」
メガネを掛け直し口を開くその様は、世界の真理を説くかのようだった。
胸の底から、再び手を出さずにはいられないほどの怒りが込み上がる。
「だってそうだろ、君は他人どころか、自分ひとり喜ばせてやれないんだ。幸福を得る幸運を待っているだけでは、いつまで経ってもつまらないままだぞ」
説教臭いカノンについ顔をしかめた。
人生をつまらなそうにしている私を見込んで、カノンが誘いをかけたのはわかっている。だが、それ以上に私のなにを知っているのか。よりにもよって、幸福、なんて言い回しをするなんて。
「そんなに世界がつまらないなら、俺が身を費やす世界でも教えてやろうか?」
「貴方の世界……?」
「アニメやマンガ、ゲームに情熱を捧げる世界だ」
得意げに、カノンはメガネの山を指で上げた。
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