2030

宮内露風

第1話 2030年東京

(一)

 バシャバシャ

 モップをつけたバケツが黒く濁る。

 もう換えないと駄目か…

 チャプチャプと重いバケツを抱えながら、薄暗い洗面所に向かう。

 ドアを開けようとすると

 バンッ

 中から乱暴に開いた。不意をつかれてバケツごと硬いコンクリートの床にひっくりかえった。

「◻️△○………!」

 言葉はわからないが、アジア系の若い、背の高い男が倒れたこちらに目一杯罵声を浴びせてくる。ブランドもののスーツに鼻をつくオーデコロン。銀縁メガネをキラリと光らせ、男はひとつ鼻をならすと足早に立ち去った。

 痛っ……!

 立ち上がろうとして、足首を痛めたのに気づいた。

「大丈夫かい?まったく、あの国は政府も人も乱暴で傲慢だから…。」

 後ろからよろけた身体を支えられた。礼を言いながら振り向くと、同じ清掃の仕事をしている同僚だった。この巨大ビルで清掃の仕事をしている同僚は100人を超えるので、話したことはなかったが…。

「竹田さんか…。」

 名札を見て男が言う。男は上杉と名乗った。スマートな白髪オールバック、整った鼻下にダンディにちょび髭を整え、私より少し年上に見える。

「タバコ…どうだい?」

 胸ポケットからセブンスターを取り出して言う。

「でも、これ片付けないといけませんし…。」

 それにタバコを吸うには建物を出て、ビル裏の小汚ない喫煙所に行かねばならない。それが法律で、守らねば1ヶ月分の給料くらいの罰金がとられる。

「あとでやりゃあいいさ…。こんなことで注意されるほど、みんな人の仕事に感心なんか持つちゃいないよ。」

(二)

 上杉は左手でビル風を避けながら、年代もののジッポでセブンスターに火をつけた。燃料アルコールの香りが鼻をくすぐる。彼はすーつと肺に煙を吸い込み、気持ち良さそうに鼻から吐き出すと、私にくれたタバコにも点火してくれた。タバコなんて何年ぶりだろう…。やっぱりうまいな。

「豪勢ですね…。国産なんて。」

 国産タバコの値段は年ごとに上がっていき、今や一箱の値段が私の3日分の給料と同じだ。国民の健康を守る税金政策というやつ、愛煙家には迷惑な話だ。

 上杉はタバコをくゆらせながらニッと笑った。

「闇だよ闇市…。アメ横の路地裏で買ったんだ。一応セブンスターって書いてあるが、中味はなんだかわかりゃあしない。まぁ、気分だよ気分。」

 アメ横かぁ…何年も行ってないな。最後に行ったのは、結婚していた頃だったか…。

 ぽっ…。

 上杉が二本目に火をつけた。

「竹田さん…お子さんは?」

 はは…いつものあの話題か。

「出来なかったんです。」

 上杉は心なしかほっとした様子に見えた。

「そうかい…俺んとこもかみさんと二人暮らしだよ。」

 私は煙を一気に口から吐いた。

「妻はいません…。3年前離婚しまして。」

「そうかい…気を悪くさせたなら謝るよ。」

「いえ…大丈夫です。」

 据え付けられた灰皿でタバコをぐちゃつともみ消す。

 一礼して仕事に戻ろうとしたとき、そこかしこに備え付けられている公用広報モニターが点灯した。今の政権になってから、国民への重要な報告はこのモニターを通じて流される。

「国民のみなさん…。」

 年若い歌舞伎役者のような総理大臣の上半身が写し出された。

 ちっ!

 後ろで上杉の露骨な舌打ちが聞こえた。

(三)

 小湊善二郎、3年前の2027年、彼が行き詰まった我が国の改革をうたって与党総裁選に出馬したとき、国民は諸手を上げて彼を支持した。

「私は逃げない、目の前の課題がどんなに困難であろうと!国民の皆さんと一緒にこの難局に取り組み、必ずや我が国をかってのキラキラした栄光に満ちた場所に戻してみせる。」

 少子超高齢化問題、歴代政府が棚上げ、先伸ばしにしてきた大問題に正面から向き合い解決してみせる。そのためには、政府も国民も痛みから逃れず、痛みを分かち合う覚悟が必要だ!

 かって首相を務めた彼の父親も、大胆な改革の象徴として知られ、当然、彼の語る改革に国民は期待した。

 しかし、総理となった彼が実行したのは、改革の劇薬というより毒薬に近かった。

 自活自助自律のスローガンのもとで、まず実施された

 国民年金制度の廃止、生活保護制度の廃止

 その補完策として強制的に企業定年制の撤廃。その代わり企業向けに大型減税の実施、最低賃金法の廃止、外国人労働者全面解禁。

 立て続けに繰り出される痛みを伴う大改革の結果、我が国のGDPは急上昇し、国債の評価も跳ね上がった。一方で外国人労働者は急増、犯罪発生率も跳ね上がり、国民の二極化は急拡大して貧困問題はかってないほど重大なものとなった。

 特に人口の3割を超える高齢者の貧困問題が深刻であった。定年制撤廃の法施行前に、企業は本来なら定年となる従業員を大量解雇した。左派弁護士グループが不当解雇でいくつか裁判を起こしたが、とても裁判所が処理できる解雇数ではなかった。

 定年制が無くなったので年齢による再就職のハードルは無いはずだが、高齢者を雇う企業はごく少なく、ハローワークは高齢の失業者で溢れた。増大する失業対策として小湊内閣が打ち出したのは、高齢者を準公務員として国が雇いいれ、民間企業に半ば強引に派遣するという制度だった。しかし最低賃金撤廃により、準公務員たる高齢者の受けとる給与平均月額は、手取りで10万円円程度であり、経済的に追い詰められての自己破産や自殺の割合もかってないほど高まっていった。

(四)

 モニターでは若い首相が政権の華々しい成果を語り、涙を浮かべて自殺が増えた現状を憂いていた。

「けっ、大根役者が…いったい誰のせいで俺たちが苦しんでいると思っているんだ!」

 そう、私も上杉も高齢者救済策で雇われた準公務員なのだ。派遣でビル清掃の仕事をしているが、現在65歳の私は定年近くまで商社の営業マンだった。今だって若い連中に負けない実績を上げる自信があるが、外国の優秀な人材が国内にどんどん入ってきたこともあって、もはや営業という古巣に私の居場所は無いように思えた。

 聞けば、二つ年上の上杉は定年まで経営企画の仕事で相当の実績を上げてきたらしい。

「頑張りましょう皆さん。職業に貴賤無し、与えられた仕事をありがたいと思って一生懸命生きましょう。政府は皆さんと共に歩み、いつでもバックアップします!」

 ばんっ!

 モニター画面にセブンスターの空き箱が貼り付き、ずるずると地面に落ちた。

 投げつけた上杉が細かく震えている。

「大学卒業して、そのまま親父の秘書になって、まともに働いたこともない奴が、知ったような口をききやがる!」

 私は無表情に空き箱を拾うと、灰皿の横のゴミ箱に捨てた。

「あんた…こと無かれ主義ってやつかい?」

 背中に上杉の言葉を受けながら、無言のままビルの中へと戻った。

 上杉の気持ちはわからないじゃないが……、政府を批判していったい何になると言うんだ。

 くやしくないの…。

 妻のあの言葉を思い出す。

 私はあなたの、その取り澄まして、何でもかんでも分かったような顔で受け入れてしまうところが嫌だった。出会った学生のころから、ずっとずっと嫌だった。

 別れた朝、3年前に投げつけられた言葉は、喉に刺さった魚の小骨のように今もなおチクチクと私の心の奥をつつき続けている。





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