逃亡

あべせい

逃亡


「これ、あなたのじゃないですか?」

「エッ!?」

 コンビニの店内で、カップ麺を選んでいると、若い女性が声をかけてきた。

 彼女は、右手の指先で5百円硬貨を摘み、おれに差し出すように腕を伸ばしている。

「いまコピー機を使って、釣り銭受けを見ると、わたしが出した分より、余分にあったンです」

 おれは確かに、この店にあるコピー機を使った。免許証のコピーが必要だったからだ。しかし、7、8分前だ。おれの後に、だれか使っているかも知れない……。

 それより、おれはいくら使った? 2枚しくじったため、コピー3枚分、30円の支払いに、コイン投入口に最初いくら入れていた?……

「それ、何かの間違いです」いや、「すいません。取り忘れて……」と言うべきか。

 おれは、微笑んでいる彼女をジッと見つめた。数十秒か数分だったか、わからないが。

 すると、

「ごめんなさい。試したりして……」

 と言って、彼女はコインを手の中に隠しておれから離れた。情けない話だが、それは、「すいません。取り忘れて……」と言おうとした寸前だった。

 おれは、すぐに彼女の背中に向かって、

「待ってください」

 あることがひらめいたのだ。

 おれは彼女を追って店を出た。

 店の前に駐めてあった車に乗ろうとする彼女に、しつこく後ろから声を掛ける。

 おれは、大学を卒業したが、いろいろなことが重なり、遠回りしたあげく、就職浪人9年目で、最近ようやく、希望する会社から内定をもらうことが出来た。先月のことだ。

 彼女は濃紺のスーツを着た美女。見た感じでは、おれより、3つ4つ年上だ。

「どうかしたの?」

 彼女は車のドアに手を掛けたまま振り返り、いきなりタメ口をきいてきた。

「おれ、いえ、ぼくは、コピー機は使っていません。返事が遅くなったのは……」

「遅くなったのは?」

 青空を受けてか、彼女の瞳がキラキラと輝いている。

「……、あなたに一目惚れしたから、です……」

「お上手ね。まァ、いいか。あなた、合格よ。乗りなさい」

 彼女はそう言って運転席に乗ると、助手席のドアを中から開けてくれた。

 時刻は午後4時を過ぎている。おれは、こんどは迷わず、彼女の指示に従った。

 車は、都心に向かう幹線道路を走る。

「夫田雄太(ふだゆうた)クン」

「は、ハイ」

 いきなり、名前を告げられ、おれはビクッとした。車は大衆車だが、掃除が行き届いている。

「わたしがあなたのあとを尾けていたのに、いままで気がつかなかったの?」

 そんなことに気がつくわけがないだろう。

 きょうはバイトが休みだから、昼近くまで寝ていて、近くのパン屋でパンを買うため、一度アパートを出たのが、1時20分頃。その後、自室に戻り、ネットで株の値動きを注視しながら、少し売買した。

 そうだ。あのとき、女性の声で、妙な電話が一本かかってきた。

「突然ですが、リフォームのお勧めです」

 投資の勧誘やアンケート調査と称する電話は、ままある。しかし、おれの固定電話にかかってくる個人的な電話は、以前のバイト先の仲間くらい。山形の実家を継いでいる長兄からだって、あの事件以来、おれも連絡をしない代わり、兄からも連絡は一切ない。当然だが。

 去年、必要もない固定電話を引いたのは、一にも二にも、就職に必要だと思ったためだ。だから、固定電話は来月にも取り外そうと考えている。いま内定している会社に勤めだしたら、間違いなくスマホ一本にする。

「リフォームですか。関心がないから、けっこうです」

 ふだんなら、「けっこうです」とだけ言って、すぐに受話器を戻す。それをしなかったのは、電話の声が、余りにも魅力的だったから。声に、一目惚れじゃない、「一耳惚れ」とでも言えばいいのか。しばらく、話をしていたい気持ちになったからだ。

「リフォームと言いましても、建築の話ではございません」

「エッ?」

「人格のリフォームです。人間改造です」

 おれは、その瞬間、こいつ何をほざいているンだと思った。

「だれが、ぼくを改造してくださるンですか?」

 おもしろいから、とことんつきあってやるか。そう思い始めたとき、

「勿論、わ、た、し……どう、会ってみる?」

 ハスキーなその声に、おれは痺れた。

「会います。どこに行けば、いいンですか?」

「バァカ、冗談に決まっているでしょ」

 電話は、いきなり切れた。

 おれは腹が立つと同時に、同じ声を聞いたら、ただおかないゾッと誓った。

 そのときの電話の声が、いま車のハンドルを握っている女性の声に、似ている、いやそっくりだという気がしてきた。おれが在宅しているか、確かめるための電話だったのではないのか。おれは、この8年、まともに女性とつきあったことがない。

「失礼ですが……」

「なに?」

 おれの問い掛けに、彼女はニッとした笑顔を振り向ける。

「お名前を教えてください」

「いいわよ。わたしは、伊賀冬味(いがふゆみ)。エキストラの社員よ」

「エキストラ、って?」

「調査会社。探偵社と似たようなことをやっていて、頼まれた調査はなんでも引き受ける。例えば、就職が内定した人物の素行調査なンか……」

「伊賀さんは、ぼくを調査されていたンですか。ぼくが内定をもらったIT企業から依頼されて……」

 冬味は、無言で頷いた。おれは緊張したが、彼女は車に乗る際に言った。「合格よ」と。

「それで、ぼくは合格したンですね。さきほど、そう、おっしゃいましたよね」

 彼女は、答えずに、真っ直ぐ前を見て運転している。おれの胸では、安心と不安が交互にこみ上げてくる。

「でも、調査結果をどうしてぼくに教えてくださるンですか?」

「考えなさい」

 わからない。おれは、懸命に頭を働かせた。推理は苦手ではないが、わからない。

「わたしが、いまの会社を、近く退社するとしたら?……」

「やめるから、最後にぼくにだけ教えてあげよう……ということでしょうか?」

「あなた、わたしが『合格よ』と言ったとき、どう思った? ホッとした?」

 そりゃ、そうだ。しかし、彼女はニヤニヤ笑っている。おれは返事を拒んだ。

「そうよ。あなたの推測通り、それも調査項目の1つ」

 おれの不安が的中してしまった。

「合格は、ウソですか」

「どうかしら? どう思う?」

「それも、調査項目の1つですか?」

「段々わかってきたみたいね……」

 おれは、バカにされている。相手は年上の美女だが、立場の弱いおれを愚弄している。おれはドアの内張りにくっ付けている左手で、拳を作った。いざとなったら、一発食らわせてやる。おれの拳は凶器にもなる。この女はそのことを知っているのか。

 と、

「ウソよ。あなた、って単純ね。ホント……」

「伊賀さん、ぼくは大学で心理学を専攻していました。あなたのおっしゃっていることはすべて想定済みです」

 冬味は初めて、ギョッとした表情になった。

「心理学……そォ、難しい話ね。でも、いいわ。もう、すぐにわかるから」

「これから、どこに行かれるのですか?」

 おれは、正体の知れない彼女に、どうしてなのか、信頼を寄せる気持ちに傾いていた。単に、美人だからなのか。8年間、魅力的な女性に接して来なかったつけが、いま回ってきたのか。

「決まっているでしょ」

「エッ?」

「あなたの想定内よ」

 おれは、大学で心理学科に属していたが、ロクに講義は受けていなかった。卒論のゼミにだって、ただの1度も出席していない。

「わたしって、意地悪ね。みんなからそう思われているのも当たり前。いま気がついたわ」

「意地が悪いのですか。あなたは……」

 おれが内定をもらった会社は、コンピュータソフトのメーカーだ。ただし、おれはプログラマーじゃない。企業へコンピュータソフトを販売する営業だ。伸び盛りの会社だから、給料は相場の2倍近い。

「あと数分で着くから、いいでしょ」

 3分後、車は、とある廃屋らしき工場が建つ、だだ広っい敷地内に入って行った。

 工場は3棟あり、いずれも高さが20数メートル、幅30メートル、奥行きは5、60メートルはありそうだ。

 敷地内には、雑草が生い茂り、車が走るタイヤの跡だけ、踏み固められ、草は生えていない。ということは、ときどき、何者かが車を乗り入れているのだ。

 冬味は、3棟ある工場の左の工場にハンドルを切った。その工場には、大型バスが優に出入り出来る大きな出入り口があり、扉は壊れたのか、すでになくなっている。

 車は、その出入り口をくぐるようにしてなかに入ると、すぐに停止した。

「さァ、降りて。あなたに会わせたいひとが来るから……」

 冬味はそう言うと、エンジンを切って運転席から降りた。おれは、冬味のいう人物が現れるまで待つつもりで助手席でジッとしていた。

 すると、

「あなた、わたしに恥をかかせるの!」

 冬味がいきなり、助手席のドアを開けて、どなった。魅力的に見えていた顔が、般若の形相になっている。

「は、はい、いまッ」

 おれはすぐに車から降りた。

 まもなく、工場全体が見渡せる、奥にある2階の窓から、中年の男性が顔を覗かせた。

 彼は、

「いま行きます。そのまま、そこで待っていてください」

 と、言った。

 それまで気がつかなかったが、その2階から降りる錆びついた階段の下に、3脚の椅子とテーブル一卓が設置されている。

 男性は大柄で、かなりの体重なのだろうが、男性が一段降りるたびに階段が大きく揺れ、いまにも全体が崩れそうになる。しかし、男性は慣れているのか、足取りはゆっくりしている。

 おれも8年前は、彼と同じくらいの身長で80キロ以上の体重があったが、いまは60数キロ。20キロも減った。おかげで、顔と姿形が変わっている。当時の写真を見ても、いまのおれと結びつける者は恐らくいない。これには、自信がある。しかし……。

 男性が腰掛けた椅子の右側に冬味が座り、おれは、男性と向き合う形で腰を降ろした。

 冬味がいつどこから取り出したのか、コンビニのレジ袋をテーブルに乗せ、中から缶コーヒーを3本、テーブルに並べた。

「どうぞ」

 おれは、飲む気がしない。いったい、これは何だ。そうだ。指紋だ。そうに違いない。おれのアパートには、指紋が付いていない。その都度、ハンカチで拭って消しているからだ。

「夫田さん、ここはどこだか、ご存知ですか?」

 男性はそう言った後、

「失礼。私はこういう者です」

 1枚の名刺をテーブルに置く。おれは手にとって、それを見た。「リサーチ専門 ㈱エキストラ 調査第1課課長 草山二士」とある。

「草山さん……」

 全く心当たりがない。

「ここは、半年後に更地になり、マンションが建設される予定です。わたしたちは、ここの管理を任され、その間、自由に使っていいと言われています」

 それがどうした。そんな話はどうでもいい。おれをここに連れ込んだ目的だ。

「私たちは、この3ヵ月、あなたを徹底的に調べました。その結果……」

 おれは、その瞬間、周囲を見渡す。逃げ場はありそうだ。体はふだんから鍛えてある。草山は大柄で柔道でもやっていそうだが、段位を持っている合気道で、なんとか倒せるだろう。

 おれは、固唾を飲んで次の言葉を待った。3ヵ月前は、内定をもらった時期と重なる……。

「結果は、クロでした」

 やはり。しかし、あれは、事故だ。夏希は、誤って転落したのだ。

 だから、すぐに救急車を呼ンだ。

 夏希は病院に搬送された。おれはすぐに後から行くと救急隊員に告げてから、旅館に戻り、荷物をまとめた。宿にはその日も宿泊する予定だった。宿の女将は急なキャンセルに迷惑そうだったが、キャンセル料を支払い、搬送先の病院に急いだ。夏希は集中治療室で治療を受けていた。生きる望みは薄かった。

 おれは考えた。

 その日の前夜、おれは旅館で彼女に別れ話を持ち出し、二人は喧嘩になった。翌日のその日、名所である灯台に彼女を誘い、もう1度話し合った。しかし、おれには、夏希とやり直す気持ちなど、これっぽっちもなかった。半年間の同棲で、この女とはやっていけないと結論を出していた。

 大学を卒業する年の正月から同居を始めたが、彼女の身勝手さについていけないと思ったからだ。

 灯台で、夏希は、転落防止のための高さ1メートル弱のコンクリート塀を乗り越えた。そして、振り返ると、

「あなた、わたしと別れられると思っているの。そんなことをしたら、ここから飛び降りて、死んでやるから……」

 夏希は、これまでで最も醜い顔をして、そう言った。同棲すれば、結婚しないといけないのか。それは理不尽だ。おれは同棲を始める前、夏希に言った。

「おれたちがうまくやっていけるか、そのテスト期間だから。もし、お互い、相手の欠点に我慢ができないと思ったら、同棲は解消する。こどもは絶対につくらない。いいね」

 夏希は明るい顔で承知した。おれは、そう思っていた。納得したのだ、と。しかし、夏希の心は、深く傷ついていた。

 女性の体は、1度受けいれた男性を嫌うことはないのか。おれには、いまもわからない。

 結局、おれは、夏希の死を知った瞬間、救急病院から逃げた。夏希が転落した現場は、都心から100キロあまり離れた、海に面した崖だ。

 おれが夏希と同棲していたことは、近所の人たちも知っている。宿帳には正直に住所と氏名を記していた。このため、おれは、別れ話がこじれ、同棲中の彼女を崖から突き落とした凶悪犯として、指名手配された。

 8年間の逃亡生活だった。

「クロ? クロって、何のことですか?」

「キミは8年前、夏希という女性と同居していた。その女性が崖から転落し、搬送された病院で死亡した。そのとき、一緒だったのが、キミだ」

「だれかと間違っておられませんか。ぼくの名前は、夫田雄太といいます」

「女性と同居していた男性の名前は、天田雄大(あまだゆうだい)。この名前が決定的だった。警察の手配写真に記された名前が私の頭の隅に残っていたンだろう。調査依頼を受けた対象人物の名前が『夫田雄太』と聞いたとき、手配されている『天田雄大』を思い出した。キミが就職する会社は、内定通知すると同時に、住民票の写しを提出するように要求する。だから、キミはアパートでも使っている『夫田雄太』の住民票を手に入れるため、自分の本当の名前に、手を加えた。『天』を『夫』に、『大』を『太』に。キミは、自分の名前が加工しやすいと気が付いたとき、就職しようと決心したのだろう」

「住民票は役所が発行する正式書類です。コピーは不可能です」

「しかし、キミはさまざまな鉛筆を巧みに用いて、表記された漢字に手を加えた。私も試しにやってみたが、何度も練習するうちに、本物に見えるようになったよ。それに受け取った会社の人事課は、住民票が偽物だとは思わないから、チラッと見るだけだ」

 おれは、言い返せなくなった。その通りなのだから。小学生のとき、同級生に『夫田』という生徒が実際にいて、おれは自分の名前の天田が簡単に夫田になることに気がついていた。

「その『天田雄大』の顔写真なら、交番に張り出されているので見たことがありますが、ぼくとはまるで違っています。彼はもっともっと太っています」

「キミは逃亡の間、苦労したろう。人間の顔は変わる。私はよく、人間の顔は風船に描かれたヘノヘノモヘジだと言っているンだが、風船がいっぱいに膨らませたときと、空気を抜いてしぼませたときでは、風船に描かれた顔は劇的に変わる。全く別人といってもいいほど、変化するものだ。ここにいる伊賀冬味クンだって、いまは美人に見えるが、10キロ近くやせていたときは、ぼくの目には醜かった」

「まァ、部長はこれまでそんなことをお考えだったのですか。わたしは、結婚太りです。この先、まだまだ太るンです。夫に不満があって、食欲が止まらないから」

 そんな話はどうでもいい。おれは無実を証明しなければならない。

「あとは指紋を照合するだけだ。キミのアパートから、指紋は出なかった」

「ぼくの部屋に無断で入ったのですか。それは犯罪でしょう!」

「仕方ない。これも仕事のうちだ。私の会社には、元錠前師だった男がいて、彼が苦もなく開けたよ」

 おれは、最終手段に出る覚悟を決め、ポケットにいつも忍ばせている、先端に分銅を付けたワイヤをポケットの中で掴んだ。

「しかし、誤解してもらっては困る。我々の仕事は、キミの現在の能力を調査することだ。依頼主が求める人物であるのかどうか。キミの過去は、はっきりいってどうでもいい。調べたのは、興味が湧いたからだ」

「夏希の死は事故だったンです。彼女が灯台を囲むコンクリート塀を乗り越え、ぼくに『死んでやるから』と言ってぼくを脅かした時、彼女は本当にふらついてしまった。ぼくは手を伸ばして助けようとしましたが、間に合わなかった……」

 本当なのだ。夏希は冗談のつもりだった。しかし、場所が悪かった。おれはやれることはすべてやった。しかし、結果は、どうしようもない。最先端の治療でも、彼女を救うことは出来なかったのだから。

「それを判断するのは我々の仕事ではない。裁判所だ。我々はキミの素行を調査していて、8年前、キミが起こした事件を知っただけだよ」

 男性は淡々と話す。

「伊賀クン、どうしたものか。キミなら、どうする?」

「わたし、ですか? わたしは勿論……」

 冬味はそう言って、おれの顔を見た。

「内定調査は合格です。しかし……」

 しかし、って、それ以上、何があるンだ。

「天田雄大さん、あなた、わたしの顔に見覚えがないの?」

 美しく円弧を描いて切りそろえられた眉、大きな瞳、鮮やかなオレンジ色のルージュ。美形だが。記憶にない。

「わたし、伊賀冬味。伊賀は結婚して姓が変わったの。結婚する前の姓は、津島……」

 おれはハッとした。

「夏希の妹。5才下の妹がいると聞いて、1度だけ会ったことがある」

「あなた、姉と同棲しているときも、『おれの名前は、加工すれば別人になれる』とよく言っていたそうね。だから、わたし、いつの日かあなたが、例え逃亡中でも就職するために役所に住民票を取りに来るだろうと考えた。5年前、あなたの住民票があるS区役所の45才の男と結婚して、住民票の監視を頼んだわ。その成果がようやく現れた、ってこと。あなたは住民票を移すために役所に行ったのだろうけれど、それが大失敗。8年の我慢が泡となって消えた」

 この冬味という女性は、姉の敵討ちのために、モテない40男と結婚までして、おれを捜し出したのか。しかし、あれは事故だ。事故であることに変わりない。

「伊賀さん、ぼくはあなたのお姉さんを崖から突き落としたのではない。あれは、事故です。正直に言いますが、あのとき、彼女がふらついて後ろに倒れそうになったので、ぼくは慌てて彼女の手を掴んだ。しかし、2人の間には、高さ1メートル、厚みが10数センチのコンクリートの壁があった。その壁越しに手を掴んでいたものだから、ぼくは次第に支えきれなくなって……」

「姉の手を放したというわけね。そんな言い訳が裁判で通用すると思っているの。死人に口なし、ってわけにはいかないわ」

「伊賀クンは、キミを捜して罰を加えるために、3ヵ月前、我が社に入社したンだ。彼女はキミが採用の内定通知をもらったことを知って、我が社に応募してきた。それでキミの素行を調べ、キミが姉殺しの犯人である確信を抱いた。もう、キミに逃げ場はないよ」

 草山は、冷静に言った。しかし、おれは無実だ。警察に捕まるわけにはいかない。

 おれは目の前のテーブルの下に、そっと両手を入れた。ちゃぶ台返しだ。


 3年の月日が流れた。おれは、いま、冬味と同居している。3年前、ちゃぶ台返しは、草山がそれを予想していたため、見事に失敗し、おれは指名手配犯として逮捕され、裁判を受けた。しかし、国選の弁護士に助けられ、無罪を勝ち取った。裁判員裁判で、平均年齢33才の裁判員たちは、おれの立場を理解してくれた。

 一方、冬味は、おれの無罪判決直後に40男と離婚した。好きでもない男を誘惑して結婚した無理がたたり、我慢が限界に達していたのだ。そして、冬味はおれに接近してきた。

 おれは冬味に、亡くなった姉の夏希を見た。冬味と同棲して半年になる。

 しかし、そろそろ、女に飽きる頃だ。

                     (了)

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逃亡 あべせい @abesei

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