③
「先生っ!」
見覚えのある寝ぐせ頭を見つけると、私は人の波をかき分けながら、先生に向かって突き進んでいく。
葵様から聞いた通り、先生は日本橋通りにいた。
私に気が付くと、先生はぎこちない動きで、こちらに振り向く。
「あ、あれ? 亀さん。今朝はこっちまで足を伸ばすとは、言っていなかったような気がしたんですが」
「ええ、先生が出歩いてるなんて聞く前は、私もこっちまで来るつもりはありませんでしたよっ!」
先生の目の前まで来ると、私は自分の嫌な予感が当たったことを悟った。
先生の両手には、たった今買ったであろう本が抱えられている。
出不精で本馬鹿が外出する理由は、たった一つ。本のためだ。
「……またこんなに買ってっ!」
「いやぁ、『地本問屋』巡りをしていると、いつの間にか、手が勝手に」
射るような私の視線から、先生は顔を逸らした。
『地本』とは江戸で作られた『娯楽本』の事をいい、その『地本』を作って売った問屋のことを『地本問屋』という。
『貸本屋』が貸すための本を買う。その行為事態は問題ない。しかし、事前に決めていた約束が破られたことに、私は我慢がならなかった。
「……先生。貸すための本を買うなとは言いませんが、本を購入する際、一言私にお伝えいただくように何度も何度も何度も何度もお願いしてありましたよねっ!」
「す、すみません。ちょっとだけ、見るだけのつもりだったんですが……」
「何度も何度も何度も何度も聞きましたよ、その言い訳も! 本当に何回言わせればわかってくださるんですか? 先生。想定外の出費が増えると、うちの家計が大変な目にあうんですよ! わかってるんですかっ!」
「まぁまぁ、亀さん。落ち着いてくだされ」
突如先生の隣に立つ人物からかけられた言葉に、私は一瞬虚をつかれた。怒りで視野が狭まっており、私は先生の隣にいた人影に気が付かなかったのだ。
先生の隣に立つ御老人に、私は慌てて頭を下げる。
「宗漢先生! すみません、ご挨拶もせずに……」
「いえいえ、おかまいなく」
そう言って朗らかに、前田 宗漢(まえだ そうかん)は笑った。好々爺然としたその表情は見る者を安心させ、患者に対しても好印象を抱かせるに違いない。
そう、宗漢先生は医者なのだ。
ただし宗漢先生は人が良すぎるというのもあり、その職業からは想像が付かないほど、着ている服は貧乏そうに見える。何でも治療費を大根で建て替える、なんてこともしばしばあるらしい。それが原因で、ひと目で彼を医者だと見抜くのは難しいほど、宗漢先生はつぎはぎだらけのみすぼらしい格好をしていた。
だが宗漢先生の腕は確かで、私も過去にお世話になったことがある。
「宗漢先生も、本をお探しに?」
「ええ、新しい医書がないか、久しぶりに江戸まで出てきたんですよ。今日から明日までの泊まりがけでね」
そう言って笑う宗漢先生を横目に、あからさまに安堵の表情を浮かべたうちの先生を、私は再度睨みつけた。宗漢先生がいるので、この場ではうちの先生を叱責することが出来ないのだ。
宗漢先生は先にも彼が話した通り、医書、『物之本』をよくお読みになる。そしてうちの先生もどういうわけか『娯楽本』だけではなく『物之本』も収集、熟読しており、普段借り手が付かない『物之本』を宗漢先生がうちから借りてくれることもあるのだ。
そういう意味で赤字にしかならない『物之本』を借りてくださる宗漢先生は、うちにとって負債を消してくれる上得意。その宗漢先生と交流が深いうちの先生を、彼の目の前であまり叱るのは、経営戦略上あまりいい選択肢ではないのだ。
歯噛みする私を尻目に、宗漢先生は懐かしそうに言葉を紡いでいく。
「いやぁそれにしても、今は便利になったもんですなぁ。昔は今みたいに江戸の版元が多くありませんでしたから、上方の出店が本店の本を売るのを買うしかなかったんですよ。その本を『下り本』なんて呼んだりして、今ではそれを含めて江戸で売られている『娯楽本』は、『地本』と呼んでいますけどねぇ」
「それ、相当昔の話しじゃないんですか? 宗漢さん。とはいえ、宗漢さんお目当ての『物之本』を扱う『書物問屋』は、まだまだ江戸には少ないですけどね」
「そうなんですよぉ、それが問題でして」
「ええ、っと、それでは、宗漢先生。お困りの際は、是非うちの『物之本』をご利用ください!」
しみじみと頷き合う先生たちの会話にねじ込むようにして、私は口を開いた。長話になりそうな予感がしたので、この場を離れる事にしたのだ。
私は先生を叱るのは店に帰ってからにすることに決め、宗漢先生に別れの挨拶を告げると、この場を離れ、またお得意様回りに戻っていった。
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