第二章 宗漢、下男になる

 月明かりすらない夜だった。闇はこちらを飲み込むようにどこまでも広がり、矢のように降ってくる雨で、体は震え、視界も霞む。

「―――!」

 自分の名を、誰かが呼んだ。そんな人は、一人しかいない。自分と一緒に旅に出た、その片割れだ。

「おっかさんっ!」

 泥濘む道を、一生懸命自分の手を引いてくれる母に、幼い自分がそう叫ぶ。

 両目から涙が溢れ、頬を雨粒以外の熱い雫が伝い落ちた。その熱も、この大雨の中では瞬く間に冷水へと変えられてしまう。

 自分たちは今、追われていた。

 誰に?

 わからない。

 けれども江戸に向かう途中、物取りに襲われている、何か恐ろしい物に追われているということだけは、幼い自分も理解出来ていた。

 物取りは、重罪だ。この時代、十両盗めば死罪になる。しかしそれは、捕まえられた場合。目撃者がいる場合に限られる。

 この雨の中では自分たちを襲う気配の数すら知れず、ましてや今自分たちが陥っている所を、神仏以外の誰かが見ているなんて考えられなかった。

 だか自分は、必死に祈った。

 神様仏様、どうか自分たちをお助けください!

 しかし、その願いは聞き届けられることはない。

 自分の歩幅に合わせなければ、母だけは逃げることが出来る。

 幼い自分はそう考えて、母だけでも逃げるようにと、そう言った。

「おっかあ! おっかさんだけでも、さきににげてっ!」

「馬鹿な事を言うのはおよしっ!」

 自分の願いは、母にすら聞き届けられることはなかった。

 そして、やがてあの時が訪れる。

 雷が落ち、自分へと迫り来る兇刃が煌めく。自分は、死を覚悟した。

 その瞬間。

 何かに、抱きしめられた。

 温かい。この上なく、温かかった。自分は今、母に抱きしめられている。

 この世に、これ以上の温かさなど存在しないのではないか? と、幼い自分はそう感じていた。

 母の愛情に抱かれて。

 愛情の味は血の味なんだと、自分は初めて知った。

 自分を身を挺して庇った母の体は、兇刃に切り裂かれていた。傷口から情け容赦無く、無残に暴かれた紅色の愛情が溢れ出し、自分を冷たい雨から温かさで守ってくれている。

 致命傷を負っても、母は自分の体を離そうとはしなかった。自分も離れようとは思わなかった。むしろ縋り付いた。

 自分も、母のもとにすぐに向かう。

 だが、その想いも叶うことはなかった。

「おい、生きているか! 生きているなら、返事をしろっ!」

 その声に応じるように、自分は目を覚ました。

 今日も、一日が始まる。

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