第2話 動揺

 ちゃぷんと水の跳ねる音に、レナロッテは目を覚ました。


「おはようございます」


 真上から綺麗な顔の異性に覗き込まれ、彼女はびくりと身動ぎした。反動でたらいの水が跳ね、木の床を濡らす。


「ぎゃー! 部屋を汚さないでー! 誰が掃除すると思ってんですか! ただでさえ迷惑なのに、これ以上手間かけさせないでください!」


 紫のどろどろ混じりの水溜まりに、近くにいた狐耳の子供が大騒ぎする。


 ……夢かと思ったら、夢じゃなかった。


 次に目を開けた時には、いつもの自分に戻っていて、いつもの生活が始まるのではないかといつも期待しているのに……現実は厳しい。

 レナロッテは、どす黒い紫の蛭のままだ。

 でも、フォリウムに出逢えたことは、大きな進展だ。

 室内はほの明るいが、昼か夜かも判らない。彼女には大分前から時間の感覚がない。

 それでも、フォリウムが「おはよう」と言うのだから、朝という認識でいいのだろう。


「なにか食べますか? お腹は空いていませんか?」


 フォリウムの問いに、レナロッテは目だけで辞意を伝える。この体は、不思議と腹が減らな……。


「当然ですよね」


 行儀悪くテーブルに腰かけたノノが、嫌みたらしく言う。


「ハムもチーズも卵も全部食べちゃって。お陰で今日のご飯は具なしスープだけでしたよ」


「……?」


 なんのことだろう?

 この子はなにを言っているんだ……?


「まさか、覚えてないんですか? その紫の触手をみょ~んと伸ばして、貯蔵棚をあさったことを」


 なにを……?

 息が苦しくなって、どっと汗が噴き出す。紫の液体が盥から溢れ、吐き気を催す汚臭が室内に充満する。


「ぐぇー! くさいぃ!」


 ノノが駆け回って家中のドアと窓を開けて回る。


 怖い、怖い。

 体の震えが止まらない。

 そうだ、私は……。


「……ね、ずみが」


「なんですか?」


 粘液を撒き散らしてのたうつ化け物に、フォリウムは盥の縁に手をかけ耳を寄せる。


「りょう、ようしょ……ねず……みがき、えたって。そ……れで、わた、し」


 ──療養所に出没していた鼠が急にいなくなったと掃除係が噂していた。

 多分、それはレナロッテの所為で……。


「わ……たし、こわく、てにげた。もし、しらな……うち、に、ひと……を、たべ、たら……!」


 ばしゃばしゃと水が波打ち、粘体が隆起する。

 混乱に身体の形を変え、暴れる彼女の顔に、フォリウムは手を伸ばした。


「レナロッテさん」


 頬に触れ、柔らかく名を呼ばれるだけで、気持ちが安らぐ。


「落ち着いて。ここは安全です」


「ボクはちっとも安全じゃないですけど!」


 背後で抗議する弟子を無視して、師匠はレナロッテだけを見つめる。


「貴女の身になにが起こったのか、最初から話してもらえませんか?」


「……っ」


 レナロッテは躊躇う。上手く喋れる自信がない。また混乱して暴走してしまったら……。

 泣きそうな化け物の形の曖昧な手を、魔法使いが握る。


「大丈夫ですよ。時間はたっぷりあります。少しずつでいいから、聞かせてください」


 胸がいっぱいになって、喉が詰まる。


「ボクは全然大丈夫じゃないんですけど!」


 ノノの不満はやっぱり無視して、レナロッテはゆっくりと話し始めた。

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