第30話「……あなた、だれ?」
神殿内は混乱を極めている。
何しろ、前の副神官長の邸が全焼し、エドガルドの遺体が見つかったのだから。さらに、そこから程近いブロテ侯爵の敷地内からは大量の白骨が発見された。釈明をすべきブロテ侯爵の行方は不明となっている。
時を同じくして、聖女ラウラがいなくなったと聖女宮の女官から報告があった。聖女宮を抜け出した痕跡がなかったため、カルド伯爵に事情を尋ねると、「ブロテ侯爵が神託を偽装しました」と震えながら白状したため、聖職者も神官も上へ下への大騒ぎだ。
副神官長フィデルも、渦中の一人。ただし、大半の事情は知っているため、的確に迅速に指示を出し、混乱を収めようとしている。もちろん、自分がラウラをロッソトリアに逃したことは隠したままで。
勇者エリアスは国内すべての『瘴気の澱』を祓い、「病気」で外出できなくなった娘たちの背中に浮き出た昏い痣を祓った。西へ東へ、北へ南へ。聖女不在の今、勇者は聖獣とともに国中を駆け回った。
そして夜、エリアスは神殿の副神官長室で眠る。先代聖女サリタの様子は逐一フィデルに報告されるためだ。容体に変化があればすぐにフィデルの耳に入る。医務室での寝食を却下されたエリアスは、フィデルのそばにいるしかできないのだ。
腹部の傷は深かったが出血はアンギスのおかげでだいぶ抑えられていたため、サリタの命に別状はない。容体は安定している。
だが、二日たっても目を覚まさないため、エリアスはかなり憔悴している。体力的にも、精神的にも。
だから、フィデルは鬱陶しがりながらも、エリアスに退室を求めない。ソファや仮眠室を貸すのは、彼なりの優しさだ。
「山や谷などで事故死して、正式な手順で弔われていない遺体が土中で『瘴気の澱』を発生させ、周囲の植物や土壌に影響を与えることは、以前から報告されていたようです。神官長までは報告が上がらず、副神官長止まりではありましたが」
「まぁ、意図的に止めていたんだろうね。でも、弔われなかったことだけが『瘴気の澱』を発生させる要因ではないよね」
それを、エリアスはずっと「強い怨恨」だと思っていたが、違うようだ。遺体の状況や、時間、他にも要因が絡んでいるはずなのだ。
「ブロテ侯爵のキビ畑から発見された白骨死体は、性別も年齢もバラバラですね。身元がわからないものが多いので、生前の状況がわかりづらいようです」
「あ、じゃあ、マルコスの被害者の生前の状況は?」
「『瘴気の澱』を発生させた二人と、させなかった一人の違い、ですか? 前途洋々の三人の若い娘だったことは共通していたはずですが……」
ソファで寝転んだエリアスは、目を閉じて「前途洋々かぁ」と呟く。
結局エドガルドは『瘴気の澱』を発生させなかった。遺体が残っていただけだ。サリタを恨み、憎んでいたことを、ウェールスから聞いている。サリタを刺し殺そうとまでしていた強い怨恨が、『瘴気の澱』を発生させなかった。
エリアスの予想が違っていたということだ。
「娘たちのうち、一人は自分の店を持つことを目標としていたようですし、一人は結婚を控えていたようです。残る一人は病弱な親のために働いていたようですから、彼女だけは二人と違い、前途洋々とは言い難いかもしれませんが」
「……前途洋々? 待って、『瘴気の澱』を生まなかった娘は誰!?」
「花畑ではなく森に遺棄されていたのは、親のために働いていた娘ですよ」
なるほど、とエリアスは呟く。
――もう、生きていたって、しょうがない。
エドガルドの言葉を思い出し、「可能性はあるね」とエリアスは頷く。
「どんな可能性ですか?」
「まだ教えない。聖教会の誰も知らないことなら、俺の切り札になるもんね」
「あなたのそういうところ、勇者なのかどうか疑わしく思えますよ」
「残念ながら、これでも勇者なんだよねぇ。文句があるなら、俺を選んだ聖母神に言ってくださーい」
フィデルが睨むのを気にすることなく、エリアスは毛布に潜り込む。フィデルは大きな溜め息をつく。
「ブロテ侯爵はどこへ消えたのでしょうね」
「小麦を入れる木箱に隠れて、国外に脱出した可能性が一番高いよね」
「まぁ、遺体が見つかっていない以上、そうなりますね」
エドガルドの邸で見つかった遺体は、ブロテ領地の自警団によって、エドガルドのものとして処理された。顔の判別もできない焼死体をそう判断するしかなかったと見える。あの場にはブロテ侯爵もいたが、自警団は侯爵が逃げたものと考えたのだ。
「でもなぁ、俺、エドガルド殿が絶命したかどうかを確認していないんだよなぁ」
エドガルドが喉に短剣を突き立てた直後に、エリアスはサリタを抱え上げた。エドガルドの出血を見て助からないと判断したが、彼の死をしっかりと確認したわけではないのだ。
エドガルドの邸にあった遺体が、エドガルドなのか、ブロテ侯爵なのか、エリアスには判断できない。背格好も大差ないため、どちらの可能性もあるのだ。
ただ、エリアスの仮定通りだとするならば、やはり遺体はエドガルドのものに違いないと思える。その理由のせいで、エドガルドの遺体からは『瘴気の澱』が発生しなかったのだ。
「ラウラ様と聖獣は?」
「ロッソトリアで元気にしていることでしょう。ラウラ様はあちらの聖女宮の女官見習いとなっております」
事情を知ったロッソトリアの聖女チェーリアが、妹ラウラをそばに置いておきたいと願ったためだ。チェーリアはいなくなったラウラのことを長年心配していたが、ラウラ自身は姉のことを覚えていなかったので、その事実は伏せられている。いずれ、チェーリアがラウラに真実を話す日までは隠されるだろう。
チェーリアの聖獣モタビリーは、ロッソトリアに着くなり徐々に回復し始めた。モタビリーはブロテ侯爵に騙され、ラウラとともにラグナベルデに連れて来られたのだという。
聖獣は国を離れると生きていけなくなる。体調が悪くなるたび、小麦の箱の中に入れられ、ロッソトリアまで運ばれていたらしい。だが、ラウラのことがあるため、回復しても逃げることはできなかったようだ。
「ロッソトリアとラグナベルデを強く結びつけていたのが、ブロテ侯爵でした。彼が行方をくらましている以上、我が国の聖教会がラウラ様の行方をたどることは難しいでしょうね」
「……神託は?」
「新たな聖女の神託ですか? 未だ確認できません。つまり、サリタ様こそが聖女であるというのが、聖職者と神官の総意です」
「ようやく気づいたのか。遅いなぁ」
エリアスは呆れたように呟いて、目を閉じる。
フィデルが「神託のあり方を考え直さなければなりません」「サリタ様の目が覚めたら、すぐにでも国民に知らせなければ」などとぶつぶつと呟いている。その声を聞いていると、自然と瞼が重くなる。
だが、エリアスの耳に、頭の中に、もう一つの声が重なる。調子が外れ、音程も狂った、音痴な歌声が。
エリアスは無言で毛布を跳ね除け、副神官長室を飛び出した。人のいない廊下を走り、角を曲がり、階段を上り、また廊下を走る。一日働いてくたびれているはずなのに、彼女のことを想うと体が羽のように軽くなる。しんどいなどと言ってはいられない。
何度か足がもつれ転びそうになりながら、ようやくたどり着いた医務室の扉を、エリアスは勢いよく開いた。
「サリタ様!?」
一番奥の
「サリタ様、ご無事ですか! 痛みは!? 何か欲しいものはありますか!?」
染粉はすっかりと落ち、青みがかった銀色の髪は月の光を受けて美しく輝いている。サリタはぼんやりとした表情でエリアスを見つめ、不意に微笑む。
「サリタ様!」
エリアスは細く冷たいサリタの手を取り、ぎゅうと握りしめる。ボロボロと涙を零しながら。
「サリタ様、俺と結婚してください」
何百回、彼女にそう求婚したのか、エリアスも覚えていない。何百回、断られたのかも覚えていない。だが、この先何百回断られたとしても、エリアスの気持ちが変わることはない。おそらく、死ぬまで。
「サリタ様、俺と結婚して」
サリタは困惑したような表情を浮かべる。だからこそ、いつも通り、「お断りします」と答えられるものと思っていた。
返ってきた答えは、エリアスの想像していたものとは違っていたのだ。
「……あなた、だれ?」
エリアスは一瞬面食らったものの、すぐに「頭は打っていないはずだけど?」と不思議そうにサリタを見つめる。今のサリタの穏やかな表情からは、いつもの嫌悪感は感じられない。繋いだ手も、振りほどかれるような気配がない。
「なるほど、そういう設定ね」とエリアスは呟く。
「サリタ様」
「サリタ、様? それが私の名前?」
「あのね、サリタ様。そうやって逃げても無駄だよ」
「逃げる?」
小首を傾げる聖女を前に、勇者はにっこりといつもの笑顔を浮かべる。記憶を失ったふりをするサリタを見つめ、「馬鹿だなぁ」とエリアスは微笑む。
「あなたは聖女サリタ。俺の奥さんだよ」
サリタが嘘をつくのなら、とエリアスも嘘をつく。追いかけっこが終わらないことを、エリアスは既に察している。サリタの表情に焦りの色が浮かぶのを、彼女に執着しているエリアスが見逃すはずもない。
「あなたが、えっと、夫? ごめんなさい、全然覚えていないの」
「キスしたら思い出すんじゃないかな?」
「え、何を言っ、待って、頭が痛いわ」
「感動的なキスをすれば、きっと俺のことを思い出すよ。ね、サリタ様。フフフ。ほら、情熱的なキスをしよう。俺たち、夫婦なんだから」
「頭が、痛い、っ! ちょっと、誰かっ! この人、怖い!」
女官と、ようやく追いついたフィデルから「やめなさい!」と引き離され、医務室から追い出されても、エリアスは笑っていた。
「あんな嘘で俺を騙そうとするなんて、サリタ様は本当に面白いなぁ……本当に、無事で、良かった……」
勇者が安堵の涙を流していたことを、知る者はいない。堂々と医務室の前の廊下で眠り始めた勇者を、副神官長が引きずって行ったことも、誰も知らないのだった。
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