第8話「では、私の愛人になりますか」

 馬車から降ろされ、深夜の神殿を歩く。ひんやりとした空気の、静かな廊下にサリタの足音だけが響く。モータからは何も聞こえない。そういう存在なのだ。


「……助けてあげてほしいんだ。皆、そう願ってる」

「え?」


 モータが足を止め、寂しげにそう呟いた。誰を助けるのか、皆とは誰のことなのか、そういう説明が一切ないため、サリタは眉間に皺を寄せるしかない。


「あなた、本当に説明が下手なのね」

「言ったでしょ。じゃ、ここに入って。僕よりは説明が上手な人がいるから」

「副神官長……室?」

「そ。副神官長殿がお待ちだよ」


 モータにとんと背中を押されると、扉も開けていないのにサリタは副神官長室の中にいた。戸惑うサリタの前に、見知った顔がある。少し驚いた様子だが、カンテラに照らされている美しくも憎らしい顔は、簡単には忘れられないものだ。


「……おや、思いの外早かったですね、サリタ様」

「フィ、デル? 副、神官長?」

「ええ。あなたは神官の人事に興味がなかったようなのでご存知なかったのでしょうが、あれから出世しましてね。今では副神官長を任ぜられております」


 サリタが聖女だった頃、フィデルは神官だった。サリタは引退し、フィデルは出世した。若いが有能な男だった。他を蹴落とすくらいのことをすれば、早く出世もできるだろう。

 フィデルは一瞬だけ隣の仮眠室のほうに視線をやったあと、応接用のソファを勧めるが、サリタは立ったまま彼を見つめる。彼の真意が読めない。ずっと前から、彼の真意など読めたことはない。


「まさか、まだあなたが聖なる力を有していたとは」


 サリタは昔からフィデルが苦手だった。高圧的な物言いに、冷たい視線。今でもそれらは苦手だ。エリアスとは違う居心地の悪さを彼からは感じている。


「あぁ、ご安心ください。あなたの力のことを知っているのはごくわずかな人間だけです」

「エリアスも知っているのよね?」


 フィデルはサリタの質問には答えない。昔からそうだ。サリタからの情報は受け取るものの、絶対に自分の手の内は見せない。そういう男だ。だからこそ、若くしてその地位まで出世したのだろう。


「あなたが『瘴気の澱』を祓う力を有していると、聖教会としては大変困るのですよ。わかりますね?」

「ええ。聖女と勇者は各国一人ずつ、が原則だもの。でも、フィデル副神官長、私はこの力を公にするつもりはないし、長く有するつもりもないわ」

「もちろん、あなたにそれくらいの分別はあるとは思っていますよ、先代聖女殿」


 フィデルの考えがわからない。サリタは彼の漆黒の瞳を見据えたまま、腹の探り合いを続けるべきか、素直に尋ねるべきかを考える。モータは「説明が上手」だと言っていたが、あれは誤りだ。神官一の捻くれ者を相手にするのは、大変疲れるのだ。


「私にどうしろと? 早く再婚しろと? 聖女の力をなくしてしまえと? 結婚相手を斡旋してくれるのなら、すぐにでも嫁に行くけれど」

「なるほど。勇者殿と再婚する気はない、のですね。あれほど熱烈な求婚を受けておきながら、結婚する気はないと」

「以前からそう言っているわ」

「では、私の愛人になりますか」


 フィデルからの思わぬ申し出に、サリタは目を丸くする。フィデルは目を細め、サリタを見つめている。その底知れぬ視線に、ゾッとする。出てきた返答は、エリアスに対するものと同じだ。


「絶対、嫌」

「そう仰ると思っておりました。私も神官として清らかでなければなりませんし、あなたのことも好みではありませんので、ご心配なく。ただの戯れです」

「……それで、どうすればいいの、私は」


 溜め息混じりに、サリタは再度問う。フィデルと会話をしていると、どんどん疲れが蓄積していく。さっさと本題に入ってしまったほうが楽だと気づく。


「そうですね……あなたに職を与えましょう。住む場所も賃金も与えます。働くのは、絶対に、勇者殿から見つからない場所です」

「……え。何、それ。詳しく!」


 途端に、サリタの目が輝く。勇者から見つからない――それは非常に魅力的な案件だ。

 サリタが急に前のめりになったので、フィデルが「そこまで勇者殿を嫌っているのですか」と苦笑するほどだ。


「もちろん、条件があります」

「何でもいいわ、頑張る、頑張って働くから!」


 サリタは忘れてしまっている。目の前にいるのは、神官一の捻くれ者であって、職業を斡旋してくれる業者ではないのだ。笑顔の裏には必ず何かを含めている男なのだ。


「聖女の力を有していることは他言無用。しかし、その場所で聖女の力を存分に発揮してもらいたいのです」

「……聖女宮ね?」

「察しが早くて助かりますね。表には出ておりませんが、今の聖女様は病弱で『瘴気の澱』を祓う力が強くありません。あなたには、先代聖女として彼女を支援してもらいたいのです」


 道理で、エリアスが小さな『瘴気の澱』を祓いに来ていたのだ。引退した先代聖女でも祓えるものが、今の聖女では祓うことができないのだろう。

 聖女のときも結婚してからも、毎日のようにサリタのもとに通っていたエリアスが、最近は数ヶ月に一度しか現れていない。サリタを見つけられなかったのではなく、それだけ勇者としての仕事が忙しかったのだろう。


「……少し、手を抜いてもいい? エリアスが暇にならない程度に」

「まぁ、そのくらいならいいでしょう。あなたは本当に勇者殿のことが嫌いなのですね」


 嫌い、とサリタは呟く。好きか嫌いかという段階の問題ではない。


「大っ嫌いよ」


 とうとう、フィデルは吹き出して笑い出す。彼にとっては楽しい話題なのだろう。何しろ、フィデルとエリアスの仲はかなり悪いのだから。

 だからこそ、サリタはフィデルの話に乗ったのだ。彼がエリアスに自分の居場所を教えることなど絶対にないと考えて。


「相変わらず面白い人ですねぇ、あなたは」

「こちらからも、一つ、お願いがあるのだけど」

「何でしょう?」


 聖女宮は周りから隔離された場所だ。聖女の体調が安定するまで、そばで力を行使するのはやぶさかではない。だが、隔離された場所で結婚相手を探すのは難しい。出会いがないのだ。


「……私の、再婚相手を探しておいてほしいの」


 フィデルは一瞬目を丸くしたあと、「いいでしょう」と笑った。彼の笑顔ほど信じられないものはない。しかし、サリタには他にすがるものがないのだ。


「エリアスとあなた以外だったら誰でも構わないわ。結婚相手よ、愛人はダメ」

「ええ」

「あ、そういえば、エドガルド副神官長は? 神官長になられたの? どうしてあんな辺境の村にいらっしゃったのかしら? あ、聖職者になられて地方を巡回なさっていたとか?」

「いえ、どちらでもありません。なぜですか?」

「割と……好みだったからよ」


 サリタの言葉に、フィデルは面食らったような表情になる。ようやく理解したらしく、フィデルは「そういうことですか」と苦笑する。


「少しは聖教会の人事に興味を持っていただきたいものですね。エドガルド殿は引退なさいました。残念ながら、あなたが一番聞きたくない理由で」

「なんてこと! 結婚したのね……! 酷い。昔、私と結婚してもいいって言ってくれたのに!」

「昔って……まさか十年、十五年も前のことではありませんよね?」


 サリタはフィデルの問いには答えない。エドガルドの結婚、という言葉に頭を抱えながら、相手の条件を挙げていく。


「相手は再婚者がいいわ。奥様と死別なさった方でも、離縁なさった方でも構わない。引退した独身の聖騎士がいたら最高。とにかく、白髪が似合うおじさまがいいの。お願い」

「おじ……まぁ、善処はしますが、まさかあなたが年上好きだったとは知りませんでした。道理で、年下の勇者殿の求婚に応じないのですね」

「……他言無用よ、それは」


 副神官長のフィデルなら条件に合致しそうな「おじさま」を探し出してくれるだろう。聖教会内で、顔だけは広そうなのだから。サリタは期待する。


「では、明日からよろしくお願いします。今夜は女官の仮眠室をお使いください。場所は、わかりますね?」

「ええ」

「……良い夢を」


 サリタは副神官長室を出る。モータの姿はもうない。溜め息をついたあと、サリタは頭の中に残っている地図を頼りに、女官の仮眠室へと向かう。

 勇者から絶対に見つからない、再婚相手が見つかるかもしれない、という安心感で、いい夢が見られそうな気がしている。サリタは上機嫌だった。



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