第6話「サリタ様は相変わらず優しいね。そういうところ、本当に好き」
「プルケル、お願い、一回降ろして! 背中に乗せて!」
聖獣プルケルは素直にサリタを丘の上に降ろす。「ありがとう、いい子ね」と嘴を撫で、サリタはプルケルの背に乗る。そして、街へと戻るように促す。先代聖女の頼みであっても、聖獣は素直に聞くようだ。ふわりと空へと舞い上がる。
聖剣を携えたエリアスは強い。しかし、屈強な自警団員マルコスも鎌らしき凶器を持っている。どちらが勝つのか、サリタにはわからない。正直、どちらでもいい。相討ちでも構わないくらいだ。
ただ、マルコスや女の子のことを伝え、自警団を呼ばなければならない。その場合、馬よりも聖獣のほうが都合がいい。
プルケルは空を蹴り、翼を羽ばたかせて街へと向かう。そして、自警団西支部の中庭へと舞い降りる。さすがは半日で国の端から端まで移動する聖獣だ。馬よりもずっと速い。
突如として現れた聖獣に、団員たちが慌てて集まってくる。サリタはプルケルに乗ったまま、団長か支部長を呼ぶように団員に伝える。
「これはこれは、どうしたことですかな? おや、あなたはパン屋の――」
「西支部の支部長ですね? 私は先代聖女サリタ。時間がありません、手短に伝えるので応援をお願いいたします!」
出てきたのは支部長だ。マルコスよりもずっと筋肉質な体をしている。サリタはプルケルから降りて、彼と握手したくてたまらない気分になる。だが、そんな暇はない。
サリタは南の花畑に『瘴気の澱』が発生したこと、マルコスの愚行、行方不明の女の子らしき遺体があったこと、マルコスと勇者エリアスが戦っていることを手短に伝える。支部長は聖獣の首についた聖教会章を確認したあと、サリタの言葉を疑うことなくすぐに部隊を編成して南の花畑へと向かわせる。
「まさかパン屋の看板娘が先代聖女様であらせられたとは……そのような報告はなかったと記憶しておりますが」
「聖教会に報告していなかったのは私の判断です。誰の責任でもありません。必要があれば、東支部へ行って増援をお願いしてきますけれど、どうなさいますか?」
「マルコスは西支部の人間です。こちらで適切に処分いたします」
「はい、お願いいたします。必要であれば、いつでも証言いたしますので」
思わず言ってしまったあとで、サリタはすぐに後悔する。証言をするとなると、何日かは街に滞在しなければならないのではないか。エリアスに見つかったら、何をされるかわからない。さっさと逃げようとしていたサリタは、自分で自分の首を絞めた格好となる。
「それにしても、なんと美しい聖獣……ヒッポグリフ、と言うのですよね?」
「ええ、勇者の聖獣です」
「聖獣は聖母神の使いゆえに聖女様と勇者様にしか心を開かないと聞いていましたが、引退した聖女様であっても乗ることができるのですね」
慌てていたため深くは考えなかったが、確かに、先代聖女であってもプルケルは背に乗せてくれた。何度か乗ったことがあるからだと思っていたが、よく考えてみると不思議なことである。
「では、私は花畑に戻ります」
「はい。お気をつけて」
名残惜しいが、支部長にばかり構ってはいられない。
少しの助走と少しの羽ばたきで、プルケルは空へと舞い上がる。プルケルの頭を撫でながら「どうして私の言うことを聞いてくれるの?」と尋ねても、聖獣は答えてはくれなかった。
空から見ると『瘴気の澱』の場所を感知しやすいのだとサリタは初めて知った。聖女宮からでは「あっちの方角に嫌な気配がする」という曖昧な情報しかわからなかったが、空から見下ろすと一目瞭然だ。世界の一部が真っ暗な絵の具で塗りつぶされているかのような違和感があるのだ。
花畑にあった『瘴気の澱』のうち、一つは消滅している。もう一つの靄の近くに、二つの人影がある。エリアスとマルコスだ。
「エリアス! やめて! やめなさい!」
「あぁ、サリタ様、お帰りなさい」
「エリアス!」
地に伏したマルコスはボロボロだ。血に濡れ、息も絶え絶え。そんなマルコスを『瘴気の澱』の近くに連れてきているエリアスの意図をサリタが瞬時に理解したのは、長年の付き合いがあるからだろう。
「ダメよ、殺さないで」
「仕方ないよ。この男、何人殺したの? その上、サリタ様まで手にかけようとしたでしょ? 生かしておいても意味ないよ」
「意味はある。罪を償わせなきゃ」
「サリタ様は相変わらず優しいね。そういうところ、本当に好き」
エリアスは微笑み、マルコスを『瘴気の澱』のほうへと引きずっていく。美しい白銀色の勇者の聖服が、血に濡れてどす黒く汚れるのも気にせずに。
「エリアス、やめて! 『瘴気の澱』を祓って!」
「嫌だよ。俺はそんなに優しくないよ。サリタ様が祓えばいいじゃん」
「だから、私にはそんな力……」
「いつもみたいに、祈りながら歌ってみればいいじゃん」
「どうして、それを」
祈りながら歌う――聖女を引退してから、毎日ではなくとも祈ってきた。歌ってきた。聖なる力はなくとも、それが長年に渡る習慣だったからだ。しかし、今それは新たな聖女の役目だ。サリタがやるべきことではない。
本当に引退した聖女でも祓うことができるのか、半信半疑で、サリタは目を閉じる。そうして、聖女だったときと同じように、『瘴気の澱』を消したいと強く願い、必死で勉強した賛美歌を頭の中で思い浮かべて口ずさむ。
「……え」
ふわりと、風が吹いた。目の前にあったはずの昏い靄が、いつの間にか薄くなっている。再度祈りを捧げると、靄は綺麗に晴れていく。
「えっ、嘘」
「相変わらず、サリタ様は音痴だよねぇ」
「え、どうして? どうして祓えるの?」
「それでも祓えるんだもんなぁ、すごいよなぁ」
エリアスはマルコスから手を離し、ゆっくりとサリタに近づく。サリタは動揺したまま、エリアスを見上げる。
「どういう、こと? 私、聖女の力を失ったはずじゃあ」
「あぁ、あの日、何もなかったんだよ」
「……え?」
あの日、あの夜のことだ。結婚式の、初夜のこと。何もなかったとはどういう意味なのか、サリタにはわからない。
「そ。サリタ様の純潔は保たれているんだよ。ベルトランは男色家だから、結婚後もサリタ様に一切手を出してこなかったでしょ?」
「待っ、待って」
「でも、不思議だよね。サリタ様は清らかなはずなのに、今の聖女様に神託が降りるなんて。聖教会の教えではありえないことだよね」
あの結婚式の夜、サリタはエリアスに純潔を奪われたものだと思っていた。夫ベルトラン以外の男に初めてを奪われたことを恥じ、夫への罪悪感を募らせ、心底エリアスを恨んだ。
ベルトランが夫婦の寝室を分けたのは、不能だと言っていたからだ。サリタは同室で眠りたかったのだが、夫は許してくれなかった。男色家だったことは、今初めて知った。気づいていなかった。
「え、まさか、そんな」
「ねぇ、サリタ様」
目の前に憎むべきエリアスがいる。サリタの足はすくんで動かない。
「ベルトランの喪は明けたよね? じゃあ、触れてもいいよね? 俺、そろそろ限界なんだ。サリタ様のことが好きすぎて、どうにかなっちゃいそう」
「エ、エリ」
「ほんと、どうにか……あー、目が霞む……俺、刺されたんだった……」
力なく笑い、エリアスがその場に崩れ落ちる。それを慌てて抱き止め――るようなサリタではない。べちゃりと地に倒れ伏したエリアスを見下ろし、これ幸いと「それじゃ、さよなら」とだけ言い置いて、さっさとその場を立ち去る。プルケルは主人を心配して、エリアスの近くに座っている。先代聖女よりも優しい獣だ。
次々にやって来た自警団員たちに現状を報告したあと、サリタはマルコスと一緒に乗ってきた馬に跨った。もちろん、エリアスのほうなど一瞥すらしなかった。
「……あー、もう、ほんと、好き」
エリアスの、狂気とも言える愛を、サリタが受け入れることはない。ただただ、困惑している。あの夜、貞操を奪われたものと勘違いしていたのだ。
だからと言って、夫への罪悪感や、エリアスへの恨みが消えるわけでもない。代替わりした今となっては、聖女として聖教会に戻れるわけでもない。
「少しは、誰かの役に立てるのかしら」
街に馬を走らせながら、サリタはそんなふうに考える。まだ残っている聖女の力で『瘴気の澱』を祓うことができるのなら、きっと誰かを救うことができるはずだ。
サリタは根っからの「聖女」なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます