第5話「帰れなくなるぞ、サリタ」
翌朝、マルコスはいつもの自警団の服ではなく、軽装で現れた。厚い胸板がよくわかる服だ。サリタは思わずつばを飲み込む。筋肉質な体は、割とサリタの好みなのだ。
藤色のワンピースを着たサリタを見て、マルコスは照れたような笑みを浮かべる。悪くはない印象のようだ。
「すごく、似合ってる」
「マルコスさんも、いつもと違う雰囲気ですね」
そんなふうに褒め合って、ぎこちなくデートが始まった。
街の中心部へ向かい、噴水を見ながら、屋台で買った菓子を頬張る。葉っぱが落ちた通りの喫茶店で香茶を飲み終わると、「馬には乗れる?」とマルコスから尋ねられてサリタは咄嗟に「乗ったことないです」と嘘をついた。
「そういえば、自警団の東支部から預かっていた馬を返さなければならなかったんだ。街なかを突っ切るわけにはいかないから、少し遠回りになるけれど、乗馬を楽しんでいかないか?」
サリタには断る理由がないため、「ぜひ」と微笑んだ。
喫茶店から少し北に行ったところに、自警団西支部の厩舎がある。マルコスは美しい栗毛の馬を連れてきて、サリタをその背に乗せた。サリタの後ろにマルコスが乗り、ゆっくり、街の外れへと向かう。大きく迂回して、東支部へ向かうのだ。
「大丈夫?」
太い腕の檻に捕らわれているみたいだ、とドキドキしながらサリタは思う。マルコスの手首に浮かぶ血管がたまらなく色っぽい。耳元で囁かれる低音も、時折体温を感じる背も、完璧だ。年甲斐もなくときめいてしまう。
「自警団はお忙しいのですか? 他の支部から馬を借りていただなんて」
「ああ……人を探すために、西の森へ行ったりしていたからな」
「黒髪の女の子、ですか」
「そう。まぁ、それでも見つからなかったんだけれど」
街の外れの街道に出て、人通りも少なくなったため、マルコスは徐々に速度を上げる。
「心配ですね」
「そうだな。サリタも綺麗な黒髪だから」
染めているんです、と言おうとしてやめる。先代聖女だと名乗るにはまだ早いような気がする。そこまで親しくはない。
サリタはあまり街の外へ行ったことがない。街全体の地図が頭の中に入っているわけでもないため、今、馬がどこへ向かっているのかがわからない。西から東へ向かっているはずだが、なぜか太陽が正面に見える。
「……マルコス、さん?」
「少し、寄り道をしてもいいか? こっちに綺麗な花畑があるんだ」
花畑はデートの定番だろう。サリタが断る理由はない。本格的な冬が始まる前に、花畑を見ておくのも悪くないと思ったのだ。
二人を乗せた馬は、南の街道をひた走る。美しいと言う花畑に向かって。
「わぁ……!」
確かに、そこには美しい花畑があった。ピンク色や白色で一面が埋まっている。風がそよぐたび、花がザワザワと揺れる。柵があり、立ち入りを禁ずる看板が立っているため、周りには誰もいない。
「俺の祖父の土地なんだ。何ていう花だったか忘れたけど、綺麗だろ」
「ええ、本当に綺麗ですねぇ、マルコスさん!」
「……ああ」
小高い丘を、サリタは登っていく。丘の向こう側にも花畑はあるのだろうか。綺麗な花が丘を埋め尽くしている光景を想像して、サリタはわくわくした。それはなんて素晴らしい景色なのだろう。
「サリタ、あまり遠くへ行くなよ」
「はーい!」
丘の頂上に立ち、サリタは目を見張った。ピンク色や白色の花畑の奥に、黒く濁った淀みが二つもあるのだ。昏い靄のようなそれを、この嫌な気配を、サリタはよく知っている。
「帰れなくなるぞ、サリタ」
背後で、マルコスの声がした。そのあまりの冷たさに、サリタは振り向くことができない。サラリ、とマルコスの指が髪を梳く感触だけが伝わってくる。
「なぁ、美しいだろう。お前も美しいなぁ」
花畑の花が、あちこち折れている。土が見えている場所も、いくつかある。誰かが踏みしだいた跡のようにも見える。
「本当に、お前の髪は、美しい」
逃げろ、と本能が告げている。エリアスには感じたことのない、心の底からの嫌悪感と危機感だ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。マルコスは危険だ。
サリタは震える脚を叩いて、転がるように駆け出した。
「サリタ」
その声には抑揚がない。まるでサリタが逃げることを予測していたかのように冷静だ。
「どこへ行くんだ、サリタ」
花畑の奥には小さな森が広がっている。昏い靄に触れないように、あの森を抜けて、街へ戻ることができれば――。
「きゃあ!」
何かに躓き、サリタは花畑の中に倒れ込む。慌てて起き上がろうとして、サリタはそれを見てしまった。人の、脚を。
「ひ……」
変色した脚が転がっている。肉付きや細さで、それが女の子のものだとわかる。サリタよりも若い子のものだ。脚の先を、胴体のほうを確認することは、できなかった。
「マルコスさん、人が! 人が、死んでいます!」
「ああ。抵抗されたからね」
抑揚のない声に、サリタはゾッとする。逆光を背負うマルコスの手に握られているものが、鎌のように見える。
抵抗されたから、女の子を殺した。
マルコスの言葉から考えると、そういうことなのだろう。
「髪は汚れていないか? 洗うのは面倒なんだ。このまま、綺麗に飾っておきたいんだよ」
聞こえてくる声に、現実味が感じられない。サリタは立ち上がって、駆け出す。黒髪の女の子ばかり狙う殺人鬼から、逃れるために。
「サリタ、そっちに行ってはダメだ」
追ってくる人間に「来ないで」と叫ぶのは無駄なことだとサリタは十分に理解している。誰もいない場所で助けを呼ぶことの無意味さも理解している。
けれど、それでも、叫びたくて仕方がない。
「助けて……!」
きっと、女の子たちもそうだったのだろう。怖くても何度も立ち上がって、声が枯れるまで叫んで、きっと命乞いをしたに違いない。きっと、生きたかったに違いない。
「サリタ、おいで。その綺麗な髪を、俺に」
マルコスの手がサリタの揺れる黒髪に伸びる。しかし、サリタの体が空に浮くほうが先だった。
「え」
「サリ――」
馬に乗っているときよりもずっと高く、ずっと速く、ぐんぐんサリタの体が浮かんでいく。風が冷たい。マルコスの姿が一気に小さくなる。
サリタの体を掴んでいるものは、獣の脚か爪のようだ。優しく掴んでくれているため、サリタもそれに恐怖は感じない。マルコスのほうがずっと恐ろしい。
「なぁんで、あんなしょうもない男に引っかかるかなぁ」
「えっ、エリアス!? ヒッポ……あ、プルケルなの!?」
「黒髪も可愛いね。似合ってる。俺は銀髪のほうが好きだけど」
上半身が鷲で下腹部が馬の聖獣ヒッポグリフ・プルケルの背から、ひょこと見知った顔が現れる。サリタが最も会いたくない男だ。
「どうして、俺の名前を呼ばないかなぁ」
「あ、あなたにだけは、絶対に助けを求めたくないもの」
「意地っ張りだなぁ、サリタ様は。まぁそこも可愛いよね」
降りて来い、と怒鳴っているマルコスを見下ろして、エリアスは「ちっちゃい『瘴気の澱』が二つかぁ」と冷静に分析する。エリアスがあの昏い靄を祓いに来たのだとサリタはすぐに悟る。
「あれくらいの大きさの『瘴気の澱』、サリタ様なら簡単に祓えるでしょ」
「む、無理よ。私、もう聖女じゃないんだもの」
「まぁ、おかしな男に追われている状態じゃ祈るのは無理かぁ。無理だよねぇ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
ハハハ、とエリアスは笑い、プルケルが急降下する。サリタはとうとう悲鳴を上げた。プルケルの背に乗ったことはあるが、掴まれたまま滑空したことはないのだ。
「じゃ、勇者の仕事をしてくるね。サリタ様は安全な場所で待ってて。プルケル、頼んだよ」
聖獣の背からひょいと降りて、勇者エリアスは花畑の中でマルコスと対峙した。
「俺のサリタ様に手を出すな!」
サリタの頭が痛くなるような、場違いな宣言をしながら。
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