スプーンは、こうにぎるの。

山岡流手

スプーンは、こうにぎるの。

 彼女の一日は、父のアラームから始まる。

 なかなか起きない父が三十分かけて徐々に目覚めていく為の命綱であるのだが、いち早く早く飛び起きるのは決まっていつも真冬だった。


「おとうさん、おきてー!」

「……まだ、もう一回スヌーズが鳴るまで起きないよ」


 真冬は何度も父を揺すっては起こしに掛かる。しかし、父はまるで起きる様子がない。仕方がないので、そのまま今度は隣で寝ているはずの弟へとターゲットを変更する。


「きょういち! おきてー!」


 ……しかし、反応がない。


 ──あれ? きょういち、いないの?


「恭一はお婆さんと病院に泊まってるのよ」

「え? ……びょういん?」


 そう言われ、真冬は思い出す。そういえば、ここ数日恭一は入院するのよと彼ばかり玩具やお菓子に絵本を買って貰っていたのだった。

 ズルい! と心の何処かでは思っていたが、それを言うと怒られたので、もう言わないようにしている。


「ばあさんも?」


 父は仕事を休むことが出来ず、また母は三人目を妊娠中、それも臨月となっており、変わりに祖母が恭一に付き添う形で入院することになっていたのだ。


「そうだよ」


 いつの間にか起きていた父が答えてくれる。普段であれば確実に二度寝をしているが、今日は少し違うようだ。

 子供の初めての入院ということで、父も何処か落ち着きがないのかもしれない。


「パンでも食べる?」

「うんー!」


 テレビを見ながら牛乳を飲む。そして、父や母が用意してくれる朝食を食べる。これが彼女の毎朝の流れであった。


「パンいらないー」


 トースターで焼いているうちに、真冬の気持ちは変わってしまう。

 彼女はバナナを食べている父にパンを返した。バナナを見ているうちに、今度はそっちを食べたくなったのだ。


「駄目。パンを食べて」

「いやー! バナナたべたい!」


 駄々を捏ねる娘に父は額を押さえるが、次第に折れてバナナをもう一本取り出した。家を出る時間が迫ってくると甘くなる父を真冬は知っている。


「きょういちもバナナ……」


 ──きょういち、いないの。


「……たべる?」


 つい癖で呼んでしまう。

 普段であれば、まだ何を言っているかわからない弟が自分の後ろを同じように付いてきているのだが、今日は後ろに誰もいない。


「恭一は入院してるから。婆さんが一緒にいてくれてるよ。わかる?」

「わかる」


 父はバナナを手渡すとすぐに慌ただしく準備を始めてしまい、変わりにいつの間にか母が近くに来て教えてくれた。


「行ってきまーす」

「行ってらっしゃい」

「いってらっしゃーい!」


 やがて、父は飛び出すように玄関へと姿を消してしまう。


 さて、これから真冬の長い一日が始まるのだ。


 ◇


 まずはDVDを観ることになった。

 英語を勉強出来るという歌の映像だ。真冬はこれを気に入っており、何回だって繰り返し再生しては一緒になって歌っている。


「おかーさん、もういっかいつけて!」


 しかし、それも何か物足りない。


 ──きょういち、いつかえってくるのかな。


 真冬が歌うと嬉しそうに大笑いする弟。彼がいないと、気持ちの盛り上がりも少々欠ける。

 真冬は歌うのは止めることにした。


 続いて、折紙。


「おかーさーん! ひこうきつくってー!」


 折紙は好きだ。色んな形があって楽しいからだ。


「はいはい、待ってね」


 母が飛行機を折る間、真冬はじっと待っていた。


 ──きょういち、だめーー!


 普段は折紙をする母にくっついていき、折紙の邪魔をする弟を阻止するのに忙しいのだが、今日は母が折るのをじっと見ていた。


 昼からは祖父の家へと遊びに行った。母は激しい運動が出来ない為、真冬の相手など到底務まらないのだ。


「じいさーん! あーそぼ!」

「はいはい、何して遊ぶー?」


 祖父は真冬に甘い。自身の子供が息子ばかりであった為か、息子の娘というものにそうなってしまうのだろうか。


「すべりだいしよー!」

「とらんぽりんしよー!」

「びーずしよー!」


 やりたいことはいくらでもある。


「おやつたべよー!」


 そして、三時になるとおやつを食べる。これは毎日欠かさない。


 ──きょういちー、あーん。


 今日のおやつはアイス。普段はよくカップアイスを半分こしている。ちなみに、父母がいると半分は残さなければならないが、祖父は甘い。

 真冬は一人で全部食べることにした。やはり一人では少し多く感じてしまうが、一日くらいいいだろう。


 やがて、その祖父もくたくたになる。そうなると、真冬は家に帰らなければならない。

 でも、もうそろそろ父が帰っているかもしれないし、晩御飯も近いかもしれない。だから大丈夫。


「た・だ・い・ま!」

「おかえり」


 少し泣いたので、涙の後が残っているが、真冬は元気に飛び込んだ。疲れて眠たくなると、ちょっとしたことで機嫌が悪くなってしまうのだ。

 実は先程、車のドアを誰が開けるかで祖父と喧嘩になってしまったのだった。

 それでも、今日はなんとか持ち直したほうだ。玄関には母が迎えに来てくれたのも嬉しかった。


 父の姿はない。母によると、犬の散歩に出掛けてしまったようだ。母は台所で夕飯の支度をしているようで手が離せない。真冬はしばらくテレビを見て過ごすことにした。


「ただいまー」

「あ! おとーさん!」


 犬、ミレーユの散歩から帰って来た父の声を聞き、真冬は玄関へ駆け出した。今度は彼女が迎える番だ。


「ゆーらゆらしてー!」


 帰宅した父は、真冬を抱えて左右に揺らす。ぶらーん、ぶらーん、という感覚がとても楽しいので真冬はよくこうして遊んでいる。


「あははははー! 次きょういち!」


 普段は交代交代なのである。弟も順番をわかっており、姉の番が終わるといそいそと両手を上げて父へと向かっていった。


 ──あ、きょういちはいないんだった。


 振り返ってみるが、やはりそこには弟の姿はない。


「カレーが出来たよー。真冬、ご飯食べる?」


 少し恭一のことを考える真冬であったが、母の声を聞くとすぐに意識は晩御飯へと移っていった。


「かれー! たべるー」

「どれくらい食べる?」

「いっぱい!」


 彼女はカレーをスプーンで食べる。しかし、弟はまだその扱いが上手でなく、沢山落としながら終いには手で掴んで食べてしまう。そのことを真冬は思い出していた。

 今日のカレーは甘かった。


 ──すぷーんは、こうにぎるのよ。


 そうやって、いつもは彼女が教えてあげている。彼が手で掴み始めると、自分が見本を見せてあげるのだ。


 ──わたしはじょうずだから。

 

 ぶつぶつ言いながら掃除をする父が今日は静かに本を読んでいる。そんな様子を見ると、少し心配になってしまう。


 ──きょういち、ごはんはたべたかな?


 そして、お風呂に入り、髪を乾かし、最後に歯を磨く。


「おやすみ」


 ──きょういち……


 夜中に目が覚めると、添い寝をしてくれていたはずの父がいなくなっていた。自分が寝た後に、母とおやつを食べているのを真冬は知っている。

 気が付けば涙が出てきていた。普段四人で寝ている部屋は、一人では少し広いようだ。


 泣く気配を感じた父が戻ってくる。添い寝をしてもらうと、不思議な安心感に真冬は再び眠りに落ちた。


 そして、翌朝。


「じゃあ迎えに行ってくるから。真冬は母さんと待ってるいてくれるか?」

「いやー! まふゆもいきたいの!」

「真冬、待っていなさい」


 駄目を捏ねてみるが、母に止められてしまう。


 ──きょういち、かえってくるの?


 ◇


「ただいま」

「あー!」


 恭一を迎えに行った父と元気だがまだ何を話しているかわからない恭一が帰って来たのだ。


「きょういちー! おかえりー!」


 真冬は一目散に飛び出していった。


 寂しくはなかったけれど、いや、ちょっぴりは寂しかったけど、今日からはもう大丈夫。

 小さな勇者が帰還したのだ。


「きょういちー! おもちゃ、いこ!」


 昨日よりも大きな声が玄関に響いた。

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スプーンは、こうにぎるの。 山岡流手 @colte

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