豊国のプリンス〜豊臣秀頼に生まれ変わったので、滅亡エンドを回避しようと思います〜

橘 孝明

人物紹介等

今回は私が歴史好きであり、羽柴家が存在したらなと思い、考え、妄想した事を文にしてみようとはじめました。ろくに完結させずに懲りずに他の作品を書き出しました。許してください(土下座)

当然IFルートを早々に歩むことになります。歴史が好きでIFルートなんて嫌いだって方にはブラウザバックをオススメしま……嘘です是非読んでみてください。なるべく資料に基づいて、少しでも違えばあるだろうルートを歩ませます。此処違うぞというところが有れば是非教えてください。

では今回主要となるであろう人物紹介です。いるんですかね……


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大谷 秀胤おおたに ひでたね

鹿児島県出身、親より口伝で薩摩に落ち延びた秀頼の落胤であると教えられる。戦国史が好きであり、中でも百姓上がりの秀吉が大好きである。当然相対的に徳川を嫌っている。通り魔に脇腹を一突きされたことによる失血死。幼馴染は真隅 朱音ますみ あかね尚登場はしません。


転生後主要人物

秀頼を除いて、紹介文は史実通りとなっています。物語上ではこれとは大きく変わる可能性があります。


羽柴豊臣秀頼はしばとよとみのひでより

羽柴秀吉の三男。記録上197m、161kgの巨漢、1615年大坂の陣にて自害した。享年23

秀胤転生後

→羽柴豊臣家の嫡子として才覚を現す。現代知識も活かしているため神童と言われる。秀吉の日輪の子説を補強したとかしないとか

当然生きます、23では死にません


羽柴豊臣秀吉はしばとよとみのひでよし

尾張国中村に生まれる。木下弥右衛門の息子であるとされる。若くは今川家臣松下に仕官し、その後織田信長に仕える。小谷城攻めに於いて戦果を残した為、信長から小谷城を与えられる。尚小谷城は直ぐに破棄して、長浜城を築城している。この頃に木下藤吉郎秀吉から羽柴藤吉郎秀吉へと名を改めた。

本能寺の変に際して中国大返しを断行して、山崎にて明智光秀を破り、清須会議で織田家重臣の地位を確立する。

当初本姓を平氏として、羽柴平秀吉はしばたいらのひでよし名乗っていたが、近衛藤原前久このえふじわらのさきひさの猶子となり、本姓を藤原に改め、関白へ就任した。その後正親町天皇より、豊臣の姓を下賜され、羽柴豊臣秀吉はしばとよとみのひでよしと改めた。


千姫

秀頼の正室。秀頼の娘を養女に迎えその命を助けた。秀頼、淀の方の助命嘆願もした。羽柴宗家滅亡後に本田忠刻と再婚した


毛利輝元

五大老のうちの一人。関ヶ原の戦いでは西軍総大将を務め、大坂城に入城した。関ヶ原の戦いに於いて西軍が敗れた後、ほぼ無傷の毛利軍、島津本隊など主力がまだいた為、大坂城を以って抗戦する派と開城する派に分かれたが、結果開城した。


宇喜多秀家

五大老のうちの一人。秀吉より偏諱をうけ、『秀』の一字を貰い秀家と名乗る。関ヶ原の戦いでは主力として奮戦。敗走後は薩摩に落ち延びたが、徳川に引き渡された。

八丈島に流刑となった。大坂の陣の後刑が解かれ前田領十万石の分知で再興を勧められるが、拒否し八丈島に留まった。豊臣に忠誠を最後迄果たした義理堅き武将である。享年84


上杉景勝

五大老のうちの一人。関東管領を務めた名門上杉の名跡を継いだ。長尾政景の実子であり、長尾景虎/上杉政虎(謙信)の養子である。養父政虎に似て義将として知られる。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、会津征伐に対抗した。関ヶ原の戦い後は120万石→30万石に大幅に減封されたが、存続が許された。


前田利長

五大老のうちの一人。父利家の死後秀頼の傅役に就任したが、直後反徳川の急先鋒的立場と立たされた。加賀征伐に対抗するかに家中は割れたが、交戦を回避することに落ち着いた。加賀120万石の始祖。


徳川家康

五大老のうちの一人。関ヶ原の戦いでは東軍を率いた。当初西軍に兵力で劣るなどするが、秀秋を筆頭に諸大名が西軍を離反したため完勝した。

この後200万石から400万石に加増するなど、豊臣の力の削減を行った。

1602年征夷大将軍に任命され、1605年秀頼に内大臣を、徳川秀忠に将軍職を譲った。

方広寺の鐘に刻まれた『君臣豊楽』『国家安康』に難癖をつけ、これを開戦の大義名分とした。

1615年大坂夏の陣にて豊臣宗家を滅亡に追いやった。


石田三成

五奉行のうちの一人、関ヶ原の戦いでは西軍を率いて戦った。秀吉の九州征伐の後に、九州筑前37万石への加増転封を勧められたが、『遠方では太閤殿下に近侍するのに不便ですので、恐れ入りますがご辞退申し上げます』と固辞した。

六条河原にて斬首。


真田信繁

真田幸村としても知られる。大坂の陣では長男大助幸昌と共に大坂城に入城し、大坂五人衆の一人として数えられた。大坂城の急所であった南端に真田丸などを作り奮戦するなど、表裏比興の昌幸の子に恥じない戦いぶりであった。

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