第三十七話 これが夢の果てですか?
中学生の世羅伊織は、空手以外にあまり興味がない人間だった。
おしゃれもしないし、勉強も自主的にはしない。SNSなぞやってるヒマがない。そんな彼女が、ヒロシマ現代美術館にやってきたのは、夏休みの宿題で美術館の作品についての観察とその感想を述べるという、実に面倒なものがあったからだ。絵には殊更興味がなかった。空手をしないクラスメイトにも、同じく興味がなかった。
さっさとグルっと回って、明日の稽古について考えたい、とすら思っていた。
適当に回りながら、ふと一つの絵の前に立ち止まった。絵には興味がなかったが、その目の前に立って見上げている少女は別だった。
よく見ると、同じ学校の制服に身を包んでいる。たしか隣のクラスに、片方の親が海外出身という生徒がいたことを思い出す。
金糸のように流れる見事な金髪で、世羅は生まれて初めて見惚れる、ということを体験した。
美しい少女だった。世羅は初めて人間の顔を美しいと感じた。
「絵って、素敵ね。あなたもそう思わない?」
「東京もんみたいな話し方をするんじゃね、君」
世羅は同じように彼女の隣に立ち、その絵を見上げた。ドービニーの庭、とプレートがついている。
「TPOを弁えてるだけ。今後はヒロシマ弁のほうが便利なこともあるかもね」
「僕、絵のことは分からんなあ」
「そう。でもね」
「でも?」
「この絵、ゴッホが最後に描いた絵なんですって。彼はね、ずっと貧困に苦しんで亡くなったの。それでも諦めなかったのよ」
プレートには確かにそんなことが描かれていたが、世羅にとってはもう意味を成していなかった。目の前の彼女と仲良くなるには、どうしたらいいのだろう。それで頭がいっぱいになっていた。気づいたらさらに彼女に話しかけていた。
「なあ、君。良かったら、僕と……」
しいい、と彼女はこちらを向いて、指を唇に押しあて、沈黙するように促した。それには、世羅を自然と黙らせるような何かがあった。
「今は絵に集中しましょう? こんなにも美しい絵なのだもの。彼は諦めなかった。生きているうちには報われなかった──それでも、その努力はこの絵に表れているから」
美しかった。
この絵の前で、美しい時間を過ごしたことは、その後の世羅にとっての指標になった。同時に、彼女にどうしたら興味を持ってもらうには、一体どうしたら良いのだろうと第一に考えるようになった。
「友達に?」
「うん。君と友達になりたいんよ僕」
「それは無理ね。私、高校になったらこくどうになるもの。それもただのこくどうじゃないわ。ヒロシマで一番──てっぺんに立つ
こくどうのことくらいは知っている。しかもよくよく聞けば、県内一位の偏差値かつこくどう部としても強豪の元町女子学院に進学するつもりだという。
「右腕になるような子分なら欲しいけど、あなたそんな感じじゃないでしょう?」
「空手は強いんだけど……」
「それだけじゃ弱いわね」
じゃあ、どうすれば君と友達になれるんだ。あの時一緒に絵を見たように、美しい時間を過ごすためには。言わずともそういう言葉が顔に出ていたのか、白島は困ったように考え込んだあと、口を開いた。
「そうねえ……。学校一の人気者になって。それに生徒会長になるの。そのうえで、私の盃をあげる。子分のあなたがそういう権威を持てば、色々やりやすくなるだろうし。できる?」
今思えば、彼女にそこまで深い考えはなかったと思う。もしかしたら、体の良い厄介払いであったのかもしれない。しかし、当時の世羅は本気になった。できることならなんでもやった。偏差値を上げるために勉強をし、ヒマさえあれば動画配信サイトでメイクやファッションを研究。高校デビュー後は背の高さを武器にして王子キャラを作り、知名度を上げた。
一方でこくどうとして活躍するためにも、空手の研鑽を欠かさなかった。なにより苦労したのは、それを隠すことだった。ルックスと知名度、自己プロデュース力を使って、インフルエンサー軍団による情報収集・操作を確立した。当然、空手のことなどおくびにも出さない。キャラとかけ離れているからだ。
全ては、白島莉乃をヒロシマのてっぺんに押し上げるためだった。
彼女がそうなりたいと願ったから。世羅はその一心で、この三年間の全てを注ぎ込んできた。
その一方で、世羅は一つの願いを秘めていた。あの日、一緒に並んで『ドービニーの庭』を見上げた時のように、同じ夢を見ていたい。
それは嘘偽りのない真実だ。だが、それでもなお彼女は『自分を見て欲しい』という欲に抗えなかった。ドービニーの庭でも、こくどうとしての夢でもなく、世羅伊織を見てもらいたかった。何度も気を引くような真似もしたが、それは叶わなかった。白島は最後まで世羅伊織という一人の人間を見ようとはしなかった。それで良かった。白島莉乃は、子分の世羅という人間如きに興味を持つようなことがあってはいけないのだ。
世羅は息を整えながら、再び拳を交差し構える。無数に放たれ炸裂した手榴弾の影響か、木々に炎が移り始めている。赤く燃え始める城下の中でも、世羅は自身がすべきことだけは分かっている。
僕は白島莉乃と同じ夢を見る。見続ける。これまでも、これからもそうだ。
「姉貴。先行ってぇや」
ミオは鞭を手で輪っか状に巻き取りながら、江藤に言った。彼女の目は暗く、ことここに至っては相手を仕留めねば気が済まぬ、と言った様子である。
「……名前もよう言わんチンピラと、死にかけのこくどう相手にしよることもないで、姉貴」
アオも同じくそう述べて、頭に手をかけ、ゴキゴキと骨を鳴らす。並のこくどうではない、と安奈は感じていた。
「ほたら、任すで。白島の首とっちゃるけんの!」
姉貴分に返事をするように、ミオは鞭を振るって、頭上の木の枝をいくつか吹き飛ばした。くるくると回転する数本の枝のうちから、一番具合の良いものをアオは掴み取り、スイングする。
ここまで振った時の風切り音が届いてくる。
「上島クン。……まさか君がこの場に来るとは思ってなかったよ」
世羅はそう言って静かに笑った。
「味方だと思っていいのかい?」
白島の暗殺を阻止する。確かにそれは、世羅の利益になることだし、味方ということだ。
安奈は二人のこくどうを見据え、ずっしり重いM9の照星を前に合わせる。
「ほしたら地獄見せちゃろうで、アオちゃん!」
「よしきたミオ、やっちゃろうか!」
ミオが鞭を叩くと、地面から土埃が舞い、二人の姿が一瞬消える。その刹那、その壁を破って手榴弾が飛び込んできた。
世羅は咄嗟に安奈を突き飛ばし、地面に足を滑らせ、その勢いで手を付き、空中で蹴り返す。土煙を縫って、アオが合間から即席バットを振り上げて世羅に襲いかかる。
その後ろで、彼女が蹴り飛ばした手榴弾が炸裂し、土煙を吹き飛ばす。安奈はそれを狙い、M9を構えてトリガーに指を入れた。
「ボケ! 地蔵かワレ! 周りをようみんかい!」
ミオの言葉と共に、安奈の肌に激痛が粟立つ。音速を超える鞭の先が、安奈を引き裂こうと苛んでいる。根性を決めて痛みを鈍らせても、照準が定まらない。ミオの動きが速すぎるのだ。
「ハハハーッ! ひき肉にしちゃる! ほいでお前、サンメンにアップしてEJN稼いじゃるわ!」
安奈は激痛の中、弾け続ける思考のかけらを集め続けていた。
よお考え、そして決めろ。
御子の言葉が途切れそうになる意識を繋ぎ止める。恐らくここで意識を飛ばせば、相手の言うとおりの真っ赤なひき肉になることに疑いはない。こくどうはそれができるし、ミオという女はそこまでのことをやる残虐さを持ち合わせている。
では、できることは何だろう。
安奈はM9を構える。前へ。鞭が自らを何度苛んでも、それが無限に続くとしても、前へ。前へ。前へ!
今だ。
ミオの動きが止まる。その手の先には鞭がピンと張って伸び、血まみれの左腕の先、握った拳の中に鞭の先が入り込んでいた。
動かない。ミオは引いた鞭が固定されていることに驚く。
鞭の先は音速を超える。相手を打った先に手元に戻すのも、少なくとも人間が捉えられる速度ではない。
では、安奈は何故その先を捉えているのか。答えは簡単だ。打たれた瞬間、戻る瞬間。何度も打たれる中でそのタイミングを図り、左腕に巻き付いたのを見計らって、鞭の先を掴んだのだ。常人ならば、絶対に不可能な芸当である。しかし、安奈はこくどうであり、根性がある。
そのふたつが揃ってさえいれば、どんな不可能でも実現することができるのだ。
ましてや、覚悟を決めた安奈の根性は、ヒロシマのだれよりもキマっていた!
トリガーに指を入れて引くまでに、そう時間はかからなかった。
銃声。
マズルフラッシュ。硝煙のかおりが炎の中を貫いて、死をもたらしたことを感じさせた。
「うああっ……」
ミオは情けない声をあげて、肩を抑えていた。本来ならば頭を狙ったのに、外れたのだ。
「鞭はもう使えないでしょう。利き腕ですから。……降参してください」
涙の間に、鋭く、勝負を諦めていない瞳が覗く。ミオの目はまだ死んではいなかった。
「ほしたら撃ちぃや」
安奈は油断なく銃口を向ける。死に触れる冷たさが指の先から上がってくる。
「ウチはダメでも、姉妹がおるけん」
その時だった。
安奈の視界が急にぐるりと暗転して、身体中に激痛が奔った。
何かがぶつかったのだ。くぐもったうめき声。世羅の声だ。三メートルは離れていた筈なのに、ふっ飛ばされたのか。
「姉妹ェを殺らせんよ、ウチはさァ!」
アオは叫ぶと、バットを振りかぶり、手元の球を浮かせた。
もちろんただの球ではない。真芯で捉えた手榴弾がライナーとなって迫る。
世羅はすぐさま立ち上がり、構えて備える。回し受けの体勢だ。
「来い!」
スイング後のアオは、それを見て笑っていた。変だ。先程と同じ轍を踏んでいるのに、まるで勝ち誇ったように──。
「知っとる? 手榴弾ってさ〜。ピンを抜いてから三秒で爆発するんよ」
そのセリフが聞こえたわけではなかった。世羅は咄嗟の判断で回し受けを諦め──手を大きく広げた。
直後、閃光が疾走り、爆炎が世羅を包んだ。
「世羅さん!」
「タイミングずらしゃあさぁ、ざっとこんなもんなわけなんよね」
吹き飛ばされた先でコンマ数秒うずくまっていた彼女は、背中を炎に舐め取られ、ボロボロになってもなお、立ちあがった。回し受けでは間に合わぬと判断した彼女は、爆風のベクトル方向にジャンプしながら安奈に覆い被さり、地面に伏せたことで即死を免れた。
だがその背中は、酷い有様であった。
安奈でさえ、それが致命的なもので、戦うどころか立っているのでさえやっとのはずだと見て取れた。
「どうして」
「さあ……どうしてだろうね」
世羅は構えを解かず、アオとミオを見据えたまま続ける。
「ことここまでくれば、誰だって良かったのかもしれない」
白島莉乃の子分として、姉妹達に嫌われるようなことを幾度もやった。白島自身を試すようなことも。敵対する者に容赦なかったことも。生徒会長として、学院の人気者として、若頭として──やれることはすべてやってきた。そこに後悔はない。
だから、今ここ一番でとる行動に間違いなどない。
「上島クン。あとを頼む。君は体を張ってここまできた。だから頼む。会長を守ってくれ」
安奈はその言葉にただ頷く。敵味方の垣根を超え、こくどうとこくどう──いや、ただの女同士の約束だ。そこに打算も憎しみもない。託した者の意を汲んで、託された者は走るだけだ。
「お楽しみタイムかいや?」
アオはミオの左手を引っ張りながら彼女を立ち上がらせ、バットで地面を突く。
「アオちゃんさあ、地獄ノックでもやっちゃる? ウチ、右手動かんからそんくらいしかできんけ」
ミオは頷くと、羽織っていたユニフォームを脱ぐ。その下には、複数のベルトが体に巻きついていて、その全てに手榴弾が下げられていた。
「十五個か……まあ仕留められると思うわ」
アオはそう笑って、ベルトをとってミオに渡した。世羅は息を整えながら、少しでも体力を戻そうと構えを解かない。
「ほしたらさ〜、トドメ、刺しちゃるけんさあ! 俳句でも考えといてや」
「バリウケる! アオちゃんバリ博識じゃん!!」
息を整える。そのたびに、炎の燃える音が、二人のバカ笑いが遠くなっていく。心臓の鼓動だけが世羅の耳を通り抜ける。
そんな心に去来したのは、あの日──白島に初めて会った日のこと。ドービニーの庭を二人で見上げた日。
美しい時間だった。
何よりも、だれよりも、どこよりも──。
覚悟は決まり、熱い血潮と共に足の先まで根性が流れ込む。彼女は第一歩を踏み出して、歩き出す。その歩みは一歩一歩早くなる。
「逝ねやコラァ!」
ミオがトスバッティングの要領で手榴弾を放り投げると、アオはそれを握った枝で真芯で捉え、弾丸ライナーを放つ。世羅はそれを身を屈め避ける。
普段のアオが愛用するバットであれば、スピードやコントロールから見ても、一撃で決していただろう。世羅にとって運が向いた。走る。近づく。アオとミオにとってその一歩は恐怖と焦りを生む。時間差手榴弾のコントロールもさらに崩れ、爆風をくぐり抜けてさらに前へ。
「なんでや!なんで死なん!」
泣きそうになりながら、ミオはなおもトスを上げる。アオもそれを打つ。
爆風の中から世羅は何度も現れる。二人にとってまさにそれは恐怖であり、悪夢であった。
「おかしいじゃろコレェ!」
最後の一発も外し、世羅はとうとう二人の目の前にたどり着く。焼け焦げた血が、拳に散って乾いている。音もなく、世羅は鋭いキックをミオの顔に叩き込む。あまりの衝撃に吹き飛ばされ、地面に三回転して転がったまま動かなくなる。
「ミオッ!!」
アオが叫ぶが返事はない。荒くなる息を必死で整え、世羅はなおも構えを解かない。解けばぷつりと全てが途切れる。彼女はとっくに限界を超えていた。
「来なよ」
世羅はただ一言そう言って笑った。アオはそれにただ怒りを感じていた。
それはミオを殺されたことに対する怒りだったのか、この満身創痍の女が吐いた強がりに対する怒りだったのかは分からなかった。もうそんなものは全て吹き飛んで、このいけ好かない女をぶん殴ってやると決めた。
アオも、力には自信があった。ミオと一緒にどんな相手もぶん殴って黙らせてきた。だからこそ、ナメられるのは許せなかった。死にかけのこくどう一匹に、殴ってみろと言われて退けるほど、腰抜けではなかったのだ。
ぎりぎりと拳が音を鳴らす。二人のこくどうが弓を引くように拳を構える。先に拳を放ったのはアオだった。鋭く重い拳が打ち下ろすように世羅の顔に突き刺さる。
「……効かないね」
世羅は笑う。もはや人気者の顔も、王子の顔もはがれ落ち、そこにいるのは一人のこくどう。白島莉乃の一の子分──。
「拳というのは、こう打つんだよ!」
人中、喉仏、水下──瞬きの間に三撃!
世羅伊織という一人のこくどうが、この世で最後、体裁を省みず、ただ相手を倒すことのみを目的とした拳は、音を置き去りにし、一つに束ねてアオの体にほぼ同時に着弾、宙に浮かせてふっとばした。
彼女はミオの側まで吹き飛ばされ、やはり動かなくなった。
勝った。
燃え盛る城下に一人佇む。
ベンチがすぐ近くにあったので、世羅はそれによろよろ近づき、腰掛けた。もう何もできなかった。一歩も動けない。
白島の元に行かなくてはならないが、体が追いつかなかった。なんと情けないことだろう。これでは天神会若頭として責任を果たせない。
世羅は夜を見上げる。燃え盛るヒロシマ城を。もう夢は見られない。届かぬ星に手を伸ばすような、胸高鳴るような時間はとうに過ぎ去った。
結局、自分のやってきたことは何だったのだろう。
『彼は諦めなかった。生きているうちには報われなかった──それでも、その努力はこの絵に表れているから』
初めて会った日の会話が脳裏をよぎる。
そうか。僕もそうか。
世羅は思わず笑みを浮かべる。こくどうとしての絵の極地は今ここだ。美しい
僕はそれでいい。ベストは尽くした。夢の果ては見られないが──。
世羅は目を閉じる。
これまでのことを、これからのことを反芻し噛みしめるように。
やがて火の粉の弾ける音だけがあたりにこだましはじめて、世羅伊織の耳には何も届かなくなった。それは彼女にとって幸せだったのか、不幸だったのか──彼女以外には、もはや誰にも分からない。
続く
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