第三十五話 決戦は金曜日なんですか?
「急に言われても困りますよ、不動院さん」
安奈は放課後、学校に乗り付けられたベンツの中で、困惑したようにそう言った。
「高子さんが言うならまだしも、あなたに言われても困ります」
「何故です? あなたも会長の姉妹分になったんですから、てっきり協力してくれるものだと思ってましたが」
天神会会長の白島を暗殺しろ──不動院を経由したその指令に、安奈は反発せざるを得なかった。
直接言ってくれるのなら、あるいは首を縦に振ったかもしれない。人の命を奪うというのは、安奈にとって今なお重い言葉だ。
だからこそ、はいそうですかとすぐに返事などできるわけがなかった。
「不動院さん。前もお伝えしましたけど、わたし、そんなに軽々しく人を殺すのって……変、だと思います」
「変?」
「だって、人の命ですよ」
不動院はふふ、と笑みを漏らした。
「私達にとっては逆ですよ、安奈さん。人の命は、親や姉貴分の命令より軽い。それがこくどうです」
絶句した。不動院はなお穏やかに笑っている。その笑顔が不気味に感じて、安奈はシートの上で拳を握り、汗を滑らせた。
こくどうは、そういう生き物なのだ。
命令があれば、敵と名のつくものを簡単に排除してしまえる。そしてそういうものに安奈はなってしまった。
リノの狼狽の意味が解けた。
なりたいものになれた──そんなことを言ったわたしに、リノがどれほど絶望したことだろう?
わたしは彼女の心を裏切ってしまったのかもしれない。安奈はなんだかズン、と全身が重くなったように感じ、不動院の声が脳から遠のいていくようだった。
「あなたに責任を負わすつもりはありません」
不動院はさらりとそう述べた。
「あなたは二の矢……プランBだ。本命は別ですから、責任も連中がとることになります。しかしろくでもない連中でしてね。ま、一応、日輪会長からお墨付きはもらっています」
そう言うと、彼女は脇から通学用カバンを出すと、そこから白いハンカチで包んだもの──両手で差し出されたそれは、スマホより大きく、その形は死を連想させた──を安奈に見せた。
「会長は仰っていましたよ。『
「それで」
心臓が嫌な脈打ち方をする。安奈はそのリズムをどうにか整えようと、息を大きく吐いて続けた。
「……そんな人と、わたしが……」
「安心してください。それも昔の話──現在の彼女は視力に問題があります。私もボクシングをやるのでわかりますが、視力低下は格闘においてだいぶ不利なファクターだ」
そういう問題ではない。そう返そうとした最中に、不動院は安奈の右手首を取り、その掌の中に、布で包んだもの──道龍会との戦いの中でも感じた、死を孕んだ重さ──を置いた。
「中・遠距離戦なら、勝ち目はある。一の矢で選んだ連中も、それなりの実力者ですが……失敗はできないので」
「無理、ですよ……」
その重さに安奈は引きずられるように、口から弱い言葉を吐いた。
「わたし、もうこんなのは……」
「安心してください。それは道龍会から鹵獲した、米軍横流し品です。使っていた人間ももう死んでいます。あなたに面倒がかかることはなあですよ」
「そういうことじゃ……」
不動院の右手が肩に置かれた。いつの間にか、彼女の体は安奈とぴったりくっついている。その顔も──笑顔で細められた目から覗く、威圧的な視線も、安奈へと向けられている。
「あまり……ぎゃあぎゃあ言わんでくださいや」
「ふ、不動院……さん?」
ぐるる、と獣が唸ったような気がした。
「わたしゃァね……あんたが死んだ御子さんの姉妹分で、正式な披露はまだでも、今や日輪会長の五分の姉妹分じゃ思うて、色々骨を折っとるんですよ。日輪会長はヒロシマのてっぺんを穫る御方じゃ。その姉妹分となりゃあ、それなりの泊言うもんがないと示しが付かんでしょうが」
「わ、わたし……そんなつもりじゃ、ないです。高子さんは、わたしのお姉さんで、と、友達で……」
今度は不動院の左手が、安奈の頬を掴んだ。無理矢理対峙させられた不動院の顔は、安奈は知る由もなかったが、彼女が信奉する不動明王像そのものであった。
「二度と、そがあな、ことを言うな」
「な、なん……」
「あんたはもうただの女子高生なんかじゃない、いうことじゃ。このヒロシマのてっぺんを穫る、日輪高子の五分の姉妹分──あんたの一挙一動が、日輪会長の器や格に繋がるんじゃ。友達? 寝言を言うにゃあ太陽が高いじゃろうが。あ?」
安奈は自分の判断を呪った。呪う他なかった。じわ、と涙が目の端に滲む。
「ご、ごめ……」
謝罪の言葉が口をついてでようとした。謝ってしまえ。謝って飲み込んで、やり過ごせば──人生にそう苦労はない。
素直に否を認めることは、とても尊いことよ。でも、世の中にはあなたに無駄に頭を下げさせることで利を得る連中もいるの。
リノと初めて出会った時の言葉。そうだ。謝ってどうなる?
安奈の周囲、その時間が鈍化し、ベンツのエンジンの音、呼吸音、不動院の憤怒を象る体温──全てが遠くなって、彼女の思考が先鋭化する。
不動院に譲れば、これから先彼女にずっと引け目を感じなくてはならない。たしかに、安奈は高子のために人を殺した。しかしそれは、彼女がそれだけに足ることをしてくれたからだ。大事にしてくれたから──そして、どんな肩書であろうとも、安奈が彼女のことを友達だと思っているからだ。
不動院は違う。高子が直接言うのと、彼女を通すのではわけが違う。
わたしは不動院の子分でも妹分でもない。
「……聞けません」
「あ?」
「わたしは高子さん……いや、日輪会長から盃を貰いました。でもあなたからは貰ってません。だから、直接命令を受けるまでは、言うことは聞けません」
「なんじゃと、コラ……」
「聞けま、せん!」
安奈は不動院の胸を突いて、その体を振り払った。ドアに背中がぶつかって、彼女は少し苦悶する。
不動院の鋭い視線が安奈を射抜く。それに呼応するように、安奈は手渡された銃に巻かれた布を取り、思わず両手で構えていた。ベレッタM9──米軍仕様から引退した拳銃だったが、安奈は知る由もなかった。
「降ります」
不動院にそう告げた。トリガーに指こそ入れていないが、撃つ覚悟はあった。
「……私を撃ちますか」
「それはこれから決めます。降ろしてください。わたしは歩きます」
不動院は手を挙げたまま、ミラー越しに心配と憎悪の入り混じった視線を向ける子分と目を合わせた。それを察したのか、ベンツはゆっくりと──まるで何もなかったかのように静かに道の端へ停まった。
扉は自動で開いた。安奈は不動院を省みることなく、外へと歩み出た。
「安奈さん。申し訳ありませんが、日輪会長には報告させていただきますよ」
怒気の隠せないその脅迫に、銃を下ろし、安奈は振り向くことなく告げた。告げるべきことを。
「結構です」
「落としたリップは塗れませんよ。……では」
ベンツは何事もなかったかのように走り去っていった。そこは平和祈念公園の裏側──原爆ドームの見える橋の上だった。
知識だけは入っているが、改めて見たことはなかった。
原爆投下時に、爆風ですべてが吹き飛ばされる中、爆心地近くにも関わらず、唯一残った建物だ。
安奈はふらふらとそれを目指して歩き始める。おりづるタワーという観光用タワーの手前で折れて、ドームのそばへ。慰霊碑と共に、色を失ったように佇む遺構が姿を表す。
それを見上げる位置にあったベンチに腰掛けて、ようやく安奈は自分が拳銃を持っていることに気づいた。
慌ててカバンにしまい込んでから、周囲を見回す。ボランティアによるドームの説明に聞き入る観光客は、安奈のことなど見もしていなかった。なんだか恥ずかしくなって、彼女は思わず俯いた。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「安奈……さんですね」
声をかけられ、反応が遅れる。
彼女の眼の前に立っていたのは、元町女子学院の制服──白いブラウスに吊りスカートの背の高い女。見覚えがある女だった。
「あの、もしかして……」
「悠です。長楽寺悠。久しぶりですね、安奈さん」
そう言うと、とくにニコリともせず、悠は隣に腰掛けた。
「生きていらっしゃったんですね」
「ええ、まあ。実は、あなたに伝言がありまして」
「わたしに?」
「ええ。姉様──長楽寺ゆみからの伝言です。これからつなぎを取ろうと思うとったんですが、手間が省けました」
ゆみがわざわざ自分に何の用だろう。どうにもその考えに至らなくて、安奈は困惑のあまり少し身構えた。
「日輪……さんに、これを渡してほしいと」
今時茶封筒に入った手紙だなんて。安奈には物珍しかった。裏返してみると宛名書きはなく、封緘のバツ印が糊付け部分に示してある。
「ここからは姉様は言われてなあことですが。……安奈さん。それを渡すかどうかは、あなたに決めてほしいんです」
悠は表情を変えず──ゆみとは異なる口調で言う。
「わたしに? でも、悠さんは、ゆみさんに渡してくれって言われて……」
「姉様は、日輪さんとケジメをつけたいんです。この手紙はそのためのもの。……でも、私はそれが正しいとはどうしても思えんのです」
意外だった。こくどうは、親や姉貴分の言うことは絶対で、疑いを持たないと思っていた。
「ゆみさんにお話はされたんですか?」
悠は鉄面皮のような表情の中にふっと笑みをこぼし、口を開く。
「いいえ。……安奈さん。こくどうっちゅんは、わがまま放題の人間です。ほいでも、そういう中で『筋』を通すんですわ」
悠は街の喧噪を背景に、真剣な表情で話すと、微かな風が彼女の髪を揺らした。
「スジ、ですか」
「ええ。筋とは、『流れの中の正しさ』です」
彼女はドームを見つめながら深い哲学的な視点で説明する。
「流れ、の?」
「わかりやすく言えば……安奈さんは、勝手に子供を突き飛ばしたりはしませんね?」
「し、しません」
安奈は少し困惑しながらも、ぶんぶん頭を振って否定する。
「そうでしょう。それは子供を突き飛ばすのは悪いことだからです。でも、その子供がトラックに撥ねられそうだったとしたら?」
悠は一時の沈黙を置いてから、重要な問いを投げかける。
「それなら、まあ突き飛ばしてでも助けられるなら……」
「それが筋です。世間様が見れば正しくないと思われることでも、流れの中では正しいということもある。私たちこくどうは、その正しさを『作って』でも、わがままを通すんです」
「それじゃあ、悠さんは」
「姉様は、天神会の幹部なのに、日輪さんとのケジメをつけるためにわがままを言うとるんです」
悠はももの上に置いた拳をギュッと握る。彼女の葛藤をそのまま示すように。
「そがあなこと、筋が通らんでしょうが。じゃけえ、安奈さん。あんたにこの情報を判断してもらいたい。……うちもこくどうですけえ、そのくらいのわがままを通しても、バチは当たらんでしょう」
「そんな……わたし、そんなの判断できませんよ」
「今度の金曜日──天神会の事始めのリハーサル。ここまで言えば、どういうことかおわかりでは?」
安奈の中で電撃のように情報が繋がっていく。天神会会長の暗殺──不動院が話の流れで言っていたこととも合致する。
銃の重みが、安奈の魂を引っ張ったような気がした。
「ゆみさんは……」
悠は手でそれ以上の発言を制した。当然、それは肯定と同じだった。安奈でさえ、何が起こっているのかはわかる。
ゆみ達天神会幹部は、親である白島会長を切り捨てたのだ。
自分たちの都合で、自分たちの絆をなかったことにする。たしかに、それはわがままだ。反発するのもわかる。
「では、私はこれで」
「えっ」
「伝えるべきことは伝えました。これ以上は長居無用……それでは」
悠はそう告げると、ふいっと踵を返して、観光客達の間に紛れて消えていった。茫然自失という他なかった。正しさという『わがまま』。自分がわがままなんて言ったのは、いつのことだっただろう。
筋を通す。自分にとってのそれは、一体なんだろう?
安奈は心の内の澱が揺蕩うのを感じていた。この手紙を、子供のお使いのように高子へ渡すのも違う気がした。
「正しさって、何?」
鳩が呼応するように、ばさばさと飛び立ってゆく。いつのまにか日は傾き、夜が顔を覗かせつつあった。
「こくどうって、一体何?」
誰も応えてはくれなかった。それでも、安奈は前を向かなくてはならない。手にした死の重さは、すでに彼女が流れから外れることを許さないだろう。
「聞こう」
高子に、この手紙を渡し、真意を問おう。自分をどう思っているのか。この銃を撃たなくてはならないのかを。
結論から言えば、安奈はそれから高子に会うことはできなかった。
ありとあらゆる通信手段を自ら断っているのか、メッセージアプリにも返信はない。学校もサボっているし、校内の祇園会の事務所はカラだ。市内にあるお手洗いも、店長のあきが亡くなったことで休業状態。
だがまだ手段はあった。
「そがあな流れで、なんでワシのとこに来るんじゃお前……」
結局、安奈は唯一連絡先を知っていた宇品とコンタクトをとることにした。
彼女にとってみれば、弱みを握る一人からの呼び出しだ。来ないわけにはいかなかった。本通りを通り過ぎた老舗ファッションビルの側、階段を登った先の喫茶店。
しかも一人で来てくれという指示にも律儀に従っていた。
「お願いです、宇品さん」
安奈はたちあがり、深く頭を下げた。
「高子さんに会わせてください!」
「無理じゃ。会長の身柄は不動院預かりの話じゃけえ」
そう言うと、手元のミントタブレットを口に入れ、コーヒーで飲み下す。
「話はわかったわい。まあ、いきなり白島会長を殺れいうて、不動院に言われりゃ面食らうのもわかる」
一番面食らっているのは自分だった。事始めのリハーサルはもう明日に迫っている。しかも、よりにもよって先程、小網に対して報告を済ませて来たばかりだ。今更間違いでした、などとは言えない。
となればどうなる?
宇品の思考がフル回転し始め、最悪の想定が算出される。白島が倒れれば、天神会の支柱となっていた白島伝説は当然終わる。自分は天神会に戻れる──はずだ。小網とそう約束はしている。ただ、紙屋連合の大部分の構成員は、白島を倒して改めて天神会に帰りたいと思うだろうか。
小網の狙いは、あくまでも宇品の持つ『紙屋会二代目』の看板であり、その看板についてくる構成員達だ。紙屋会の金看板は、それほど天神会にとって重要なのだ。彼女の読みは深い。それは認める。ただ、現場にいる構成員達の士気はそう簡単には伝わるものではない。
不動院は着々と白島に取って代わる『日輪高子の伝説』を定着させ続けている。
元々、彼女は白島を倒そうが手打ちをしようが、割った組織を元に戻す気がないのだ。その中で、日輪の妹分となったこの上島安奈が暗殺を成功させでもすれば──。
「の、のう安奈よ。お前、ワシにこの話、預けんか?」
「預ける、というのは?」
「言葉どおりじゃ。ワシがええがにするけえ」
絶対にまずい。成功の可否はともかくとして、このままでは宇品の紙屋連合における立つ瀬はなくなる。小網と取引した姑息なこくどうとして、下手をすれば粛清対象だ。白島が死んでも、死ななくても天神会に戻る目が──。
「あの、宇品さん。高子さんから聞きましたけど、大竹さんとは姉妹分だったって本当ですか?」
「なんなら、やぶからぼうに……それがなんじゃいうんじゃ」
「わたし、高子さんの姉妹分になったんです。でも、姉妹分ってことは、間違ってることを間違ってる、って言いあわないといけないと思うんです!」
ドキリとした。
大竹の姉妹は、笑って死にに行った。こっちは早々に見捨てたのにも関わらず、だ。
「私、高子さんに思ってること言わないと、後悔するような気がするんです。私のことどう思ってるのか、ひ、人を殺すのを他人を通して命令するのとかっ……そんなの、おかしいって……」
「お、おい安奈……」
ええんよ。うち、それでええ。
そう言ってたった一人、こくどうとしての地位も名誉も全て捨てた。大竹は天神会に背いた裏切り者、日輪を襲ったことで紙屋連合からも卑怯者として扱われている。もはやその名誉を回復する方法は永遠にない。
安奈は、大竹に勝るとも劣らぬ覚悟だ。ただひとつ、こくどうの筋を通すためだけに、日輪に意見しようとしている。しかも、後ろ指を差されるような方法でだ。
「安奈。会うのは無理じゃ。諦めえ」
宇品は何故だが思考がクリアになったような気がして、冷めたコーヒーをまた口へ運んだ。
「どうしてですか!」
「場所がわからんのよ。つなぎを取る手段もない。ほいじゃが、お前が筋を通したいいう気持ちもわからんでもないわ」
本心だった。
自らの信じる物のために死んでいった大竹の二の舞いに、安奈はなるかもしれない。それでも、その貫きたい想いを通してやりたい気持ちのほうが、宇品の中で勝ったのだ。
「知らんのなら教えちゃるが、事始めのリハーサルは、明日ヒロシマ城で行われる。不動院の話がほんまなら、別の刺客がおるんじゃろう。ほんならお前も行けや」
「そ、それじゃ変わりないじゃないですか!」
「バカタレ。ええか? 脳ミソよう頭に詰めんかい。日輪会長は白島会長を殺って、ヒロシマのてっぺんに立つんじゃ。言うてみたら、お前はそれが嫌じゃ言うてゴネよるわけじゃろ。ほんなら逆に不動院の刺客とやらをお前がなんとかすりゃあええじゃろ」
自分の目論見も多分に含まれてはいたが、これがベストだろう。すでに不動院は今日から姿をくらませている。自分が安奈とこのような話をしたことも、そう簡単には伝わらないはずだ。
ならば、そういう気持ちを利用して、安奈を暗殺の妨害に使ってやる。白島が生き残れば、彼女の長期政権は無理でも、小網に禅譲する形で平穏に跡目を譲る未来はある。
当然そうなれば、手打ちも成立するはずだ。不動院はともかく、紙屋会本家を天神会へまるまる戻す目も出てくる。
そうなれば、あとはパワーゲームだ。不動院を暗殺未遂で追放すればよいのだから。
生き残れる。安奈を利用することにはなるが、それは彼女も望んでいることだ。
こんな生き方しかできないのが、彼女の前ではなんだか恥ずかしく思えてきて、宇品は目を伏せる。入学してすぐに、大竹の前で楽してズルしてうまくやる、なんてことを言ったのを今更ながら思い出す。
「……高子さんは、その、白島さんを……」
「お前、知らんのか? 白島会長は、祇園会の前の会長を直接殺っとるんじゃ。八つ裂きにしてもまだ足らんじゃろう。それを邪魔したりゃあ、そらお前のことを無視はできんじゃろ」
安奈は一瞬、躊躇の色を瞳に宿したが、それはゆらぎのようのものだった。
ゆらぎは消えた。
宇品は直感する。こいつはやる。
白島を殺っても、殺れなくても、上島安奈はヒロシマ中のこくどうのほぼすべてを敵に回すことになる。それがわからないはずがない。
今それを理解して、飲み込んで──それでも姉妹分に筋を通すためだけに、死地へ赴くというのだ。
「宇品さん。ありがとうございました。私、暗殺を阻止します。そしたら、私の『筋』が高子さんに伝わるって、信じてます」
どこか言い聞かせるような痛々しい言葉を残して、安奈は千円札をテーブルに置いて席を立った。
なんと小さな背中だろう。その背中が大竹と重なり、宇品は思わず手を伸ばす。
「待てや」
「はい?」
あの日かけられなかった言葉が、口をついて出た。振り向いたのは大竹ではなかった。当たり前だ。
「のう、お前、安奈……その……お前! 生き残ったら……ワシを──ワシを姉妹にしてくれや!」
安奈は驚いた顔を見せて、すぐにふっと笑った。
「ありがとうございます」
「ほいじゃけえ、お前──死ぬなや! 絶対死ぬな!」
「ありがとうございます、宇品さん。でも私知ってますよ。そういう気持ちがあるのなら──乙女同士の心の繋がりがあるのなら──もう私達は姉妹じゃありませんか」
ドアベルは鳴る。寿ぐように。さよならを告げるように。夜を裂くように。
そこには、もう安奈の姿は無かった。宇品はその場に座り込んで、彼女が残した千円札を見ていた。
「大竹の姉妹ェ。……すまん。ほいでもワシャあ、今度は筋を通したで──」
呟いた言葉に返事をする者はいなかった。サーキュレーターの音がそれをかき消して、喧騒に紛れていく。
そして朝が来て、金曜日がやってきた。
ヒロシマの全てが変わる日がやってきたのだ。
続く
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