第二十七話 天神会が割れる日なんですか?

 御子が不動院の元を離れた直後。高子やゆみが別れた直後──。

 中区、祇園会のシノギであるシャイニーハンズでは、店長である元こくどう──亀山あきが早々に出勤し、事務所の鍵を開けていた。


「さっさっさささとかき混ぜまして〜まあるくまあるく作りましょ〜っと……」


 有名なお好み焼きチェーン店のCMの曲を歌いながら、事務所の電気を点ける。

 東京の大学を出たはいいが、就職がうまくいかず、ヒロシマが恋しくなり──天神会系のフロント企業にもぐり込めたのは、ひとえに天神会のOBだったからだ。

 胸を張れる仕事かと言われると難しいが、食いっぱぐれはない。

 こくどうは互助組織だ。現役時代はあまり意識したことはなかったが、天神会のこくどうだったという事実は、亀山あきというヒロシマの女の人生を保証してくれる。

 もちろん恐ろしいこともある。天神会という看板を背負っていても、切った張ったのトラブルくらい当たり前に起こる。

 自分が当事者となることも少なくない。それでも、天神会というブランドはそれだけで自分を守ってくれる。祇園会という外様がケツモチになったときは、さすがに肝を冷やしたが──大方の情勢に変化はない。

 亀山の人生に大きな差し障りはない。


「失礼するで」


 彼女の背中側から、数名の足音とともにそう声をかけられた。


「……自分ら、店間違っとらん? ここ、天神会系の店よ」


 どんなアホでも、広島に住む人間であればその一言で縮み上がる。しかし今回の相手は違った。ガムをくちゃくちゃと噛みながら、女はあたりを見回してから、あきに向き直った。

 セーラー服に古風なロングスカート──ヒロシマ市内ではあまり見ない制服だ。しかし見覚えはある。


「いいやあね。間違っとらんよ、姉さん。ここ、祇園会いうとこの事務所じゃろ」


 嫌な予感がした。まるで捕食動物が獲物を前にしたときのような居心地の悪さだ。


「ついでよ、ついで。お手洗いは紙屋会の差配じゃろ? ついでによ、会長の反目になっとる祇園会にもちょっかいかけちゃろう思うて……よ!」


 眼の前が暗転し、自分が殴られたことを理解するまでに時間がかかった。


「姉貴、金も抜いちゃろうで。どうせ日輪の外道の金じゃけえ、使っちゃりゃあええんじゃ」


 そう言うと、数人のセーラー服が家探しを始める。現役の頃のあきならば、この程度のチンピラは泣かせてやったのだが、現役こくどうと元こくどうでは根性が違いすぎる。一度カタギに戻ったブランクは大きい。

 それでもあきにはこのシャイニーハンズの店長として意地がある。こくどうと一般人には明確な差があるとしても、今ここを守れるのはあきだけだ。

 荒らされましたごめんなさい、で済ますことができるほど、彼女はカタギではなかった。


「ナメんな、コラァ!」


 あきが拳を振り上げる。片手でそれを受け止めたこくどう──ガムを噛んでいた小柄の女は、手をひねるとにやりと笑った。抗いようのない痛みが腕に走る。


「無理すなや姉ちゃん。OBが現役に喧嘩ゴロまくのは関心せんで」


「ここはうちの店じゃ! で……出てってや!」


「悪いがそういうわけにもいかんのよのう」


 こくどうは腿にマウントしていたナイフをギラッと引き抜いた。

 それが何を意味するのかわからないあきではなかったが、反応する間もなく、その刃はあきの腹に突き立てられていた。


「えっ?」


 困惑する他なかった。こんなことあるわけがない。

 しかし目の前の出来事はすべて現実だった。


「おい、姉妹ェ! ヤバいで、カタギを殺るんは!」


「はあ? 別にええが。OBでこがあな場所で働いとるんならこくどうと変わらんで」


 刺された腹が燃えるように熱い。刃が抜かれると同時に、抜けてはいけない何かも出ていってしまったかのように感じながら、あきはその場に横たわる。

 こくどうではない。しかし否定できるだけの材料もない。命の終わりに思うのは、そうした半端な自分への嫌悪だった。

 そして思う。今ここで自分が死ねば、祇園会──いや天神会そのものが割れる。思い出した。さっきの制服は、曹徳如水館高校の連中だ。今は確か、天神会の──。

 それ以上体も頭も回らなくなって、あきの視界は暗転した。



 その日、SNSサンメン上でトレンドになったのは、襲撃を受けるお手洗いの画像であった。

 女を張る稼業──自分のシマとシノギを守ることが何よりも是とされるこくどうの世界において、それは最大級の侮辱に他ならなかった。今の紙屋会は己の領域すら満足に守れぬのだと示してしまったのだ。

 内外での混乱も激しい。

 紙屋会は暴力という一面を持ってすれば、天神会の金看板だったのだ。それがこうもあっけなく数軒のシノギを荒らされるのは、大多数のこくどう達にとって衝撃的な出来事であった。

 そして、誰もがこう考えた。

 このような大それたことをやるのは、一体どこの連中だ?

 その議論が活発化するはずのSNSサンメンでは、なぜか実行犯の情報が遮断されたように出回ることはなかった。

 ただただ紙屋会の不甲斐なさとその親団体である天神会──即ち白島莉乃の神通力が失われたのだ、と嘲笑する声だけが溢れた。

 こうなれば天神会としてもあとに引けなくなった。


「問題が山積している中、集まってくれてありがとう。皆も知ってのとおり、異常事態が発生している。そこで、いくつかの問題について話し合いたい」


 元町女子学院生徒会室には、直系幹部ともう一人──日輪高子が姿を見せていた。


「それより、若頭。なぜここに日輪が? 幹部じゃなあでしょう」


 小網が落ち着いた調子でそういうのへ、反論したのはなんと他でもない白島であった。


「私が呼んだのよ。理由はいくつかあるけれど──第一に、彼女から非常に興味深い情報を提供してもらったわ」


 白島は顎でしゃくると、高子へ発言を促す。彼女は立ち上がるとなぜか咳払いをしてから口を開いた。


「幹部の皆さんにおかれては、たいぎい話を持ち込みまして申し訳なく思うとります。うちの若頭の太田川御子がこともあろうに舎弟頭代行の立町さんを狙う言うて走りまして、ついては破門にさせてもらいました」


「あらあ……それは困りましたねぇ……」


 立町はまるで知らぬ風を装い、頬に手を添えた。彼女には、高子からすでに話を通している。紙屋会のシノギへの襲撃事件があったのは、まさしくその最中であった。なし崩し的に、幹部会に参加するよう指示されたのだ。

 しかしこれは高子にとって渡りに船だった。騒動によって警戒が増した天神会本部には、御子といえど侵入できまい。今彼女に立町を狙われれば、天神会全体との戦争へ舵を切ってしまう。


「幹部を狙うというのはいただけませんが、破門にしたということなら祇園会とは関係ないということですか。手回しが早うてええことですね」


 皮肉交じりにそういうのは不動院だ。ゆみや小網も同意見、とでもいいたそうに、静かに頷いた。


「まだ何もないうちに目くじらを立てるつもりはないわ」


 白島はずず、と愛用の茶碗から梅昆布茶を啜り、冷静に述べた。高子からすれば苦々しい。御子が走ったのは、他ならぬ彼女が原因だからだ。


「……それに立町さんは、これから紙屋会二代目代行を襲名してもらう身。なにかあったら天神会の今後に関わるもの」


 思わず身を乗り出したのは宇品だった。


「か、会長! それはどがあな意味でしょうか!? 紙屋会にゃあ生え抜きの天満屋もおりますし、その……なんならワシも代貸し(作者注・舎弟頭の別名のこと)として席を預かるつもりで……」


「席を預かるゥ? 宇品よ、わりゃあ紙屋の姉妹のシマをボロクソカチコまれてよ、どがあな了見じゃコラ」


 小網がずい、と体を乗り出すように凄んだ。宇品からすれば姉貴分にあたる彼女がこのように怒りをみせるのは、この場の誰もが目にしたことがなかった。穏健派のはずの彼女の怒りは激しかった。


「しかしそれは……」


「しかしもかかしもあるかいや。代貸しっちゅんはのう、長がおらんその時に、シマを守ってバトンを渡すんが仕事と違うか」


「まあまあ、小網の姉妹もそのへんで……ともかく、天神会のシマが真っ昼間から攻撃されたという事実は変わりないこと。寺の娘としては大事にするのはいかがなものかとは思いますが、形はつけにゃならんでしょう。若頭、なにか情報はなあですか?」


 世羅は神妙な面持ちで頭を振る。


「正直言って、道龍会が壊滅した今、真正面切って天神会に喧嘩を売る組織自体想像もつかないよ。せらふじ会でも調査は進めるが……まあ個人的なところを言うと、紙屋会二代目を早々に決めてことを当たらせるのがベストだろうね」


 世羅は足を組み、余裕をもった落ち着いた仕草で手を立町へと向けた。


「会長が立町さんを二代目に据えると仰っている以上、僕に異論があろうはずもない。宇品クン、残念だが君や天満屋クンの跡目は無い」


 絶句であった。自ら、姉貴分たる紙屋を殺れといいのけた白島が、その子分たちまでも集まって、その梯子を外してきた。

 宇品の脳裏に切札の二文字がよぎる。そうそそのかしたのは白島だと言う事実を、宇品は間接的だが知っている。ただそれをここでぶちまけたとて、何になる。何の証拠もないのだ。

 それに相手は天神会の中枢にいる大幹部達。もがいたとてひっくり返せる材料があるでもない。

 宇品は呆然と己の足先に目を落とすばかりだった。


「さて、紙屋会二代目の話はこれくらいにして。日輪さん、あなたにも話があるの」


「ええ話ですかいの」


「もちろん。先の道龍会との戦いで、あの金本を討ち取ったのはあなた。この際今までの事を水に流して、あなたを直参若衆に取り立てることにしたの」


「ほお……そら大出世ですのう」


「日輪さん、めでたいことですね」


 その場の幹部──もちろん宇品を除いてだが──が祝福の拍手を送る。

 不快なそれに、高子は奥歯を噛む。クソども。己の盃如きが価値を持って当たり前と奢る豚ども。

 高子は思う。茶番劇がしたいのなら、いつまでもやらせてやるが──こと白島莉乃の盃など、欲しくはない。


「会長。結構な話ですが──ワシャあんたの盃だけは受けるわけにゃあいかんのよ」


 笑顔だった白島の目が憎悪に細まっていく。


「今なんて?」


「いらん、言うたんですよ。目ェ以外に耳も遠なりましたんで?」


「私、いま機嫌が良いの」


 白島は茶碗を持ち上げ、ずず、と梅昆布茶を啜る。その手が震えているのに、他の誰もが体を固くした。


「だからもう一度聞くわ。今、なんて?」


「あんたも分からんお人じゃのう。い、ら、ん、ちゅうたんじゃ。人の親を殺しくさった外道の盃、誰が受けるかいや」


「日輪……ワレ、混ぜ返すのもええ加減にせえ! 会長がお前に盃下ろすちゅうんじゃ。お前に損はなかろうが!」


 ゆみが慌てたように詰め寄って、耳元で囁く。それでも無理だ。


「姉貴、ちいと黙っとってくれや」


 ゆみを押しのけ、高子は白島の前に立ち──あろうことかスカートの裏からリボルバーを抜いた!


「ばっ、バカタレ! そがあなもん仕舞え!」


「大体のう会長よ。ワシが一番気にいらんのはよ。紙屋会の跡目をあんたが勝手に立町に決めた言うことじゃ」


 白島は身動ぎひとつ、眉一つ動かさない。敵ながらあっぱれ、やはり只者ではない──尊敬の念すら覚えながら、トリガーに指をかけ、高子は話を続けた。


「紙屋会は体を張って天神会の筋を通したじゃろうが。立派なもんで? それを何か? 都合が悪うなりゃいらんいうてポイかや。跡目の順序は宇品か天満屋が筋じゃろ」


「その筋があなたのいう『都合』なの?」


 白島は皮肉交じりにそう吐き捨てた。そのとおりだ。ぞっとするような洞察力だ。


「銃突きつけられたくらいで、一度吐いた言葉を飲み込むほど私はヤワじゃないつもりよ」


「おう、よう言うたわ会長。ほしたらワレ、丁度ええけえここらで始末つけさせてもらうけん、覚悟せえや」


 会議室に緊張が走る。その手を止めたのは──誰あろう、明王不動会会長・不動院であった!


「そこまでにしましょう、日輪さん。……あなたの気持ち、よう分かりましたので」


「不動院の姉妹ェ。ケジメつけちゃれ。こん外道、会長にまた牙を剥きよったで。生かしちゃおけん!」


「普段なら止める側だろうが、今回ばかりは許せない。後始末はこちらでやるよ、不動院クン」


 小網や世羅が暗に殺すよう仕向けるも、不動院はそれには頭を振った。彼女の思惑は完全に別に向いていたのだ。


「親が言うなら白いもんでも黒というのがこくどうですが──元はと言えば紙屋は私の親です。その紙屋のこと、紙屋会のことをそこまで考えてくれた日輪さんに感じ入りました」


 不動院はその場に座ると、右掌を床に叩きつけ、スカートの裏からドスを抜くと、迷いなくそれを小指の爪の境目に滑らせた。

 ぶつり、と爪が剥がれる音にも、不動院は冷静そのものだった。ハンカチで小指をきつく縛ると、そのまま高子の手首を左手で握り、それを降ろさせた。高子は抵抗しなかった。敵対する天神会の幹部とはいえ、ここまでされて約束を反古にするのは女がすたる。


「会長。紙屋会の跡目は、紙屋会内部から選びます。日輪さんが言う事は尤もです。元紙屋会の人間として、立町さんを受け入れることはできません」


 絶句から生まれた静寂が、その場をツンと通り抜けた。親である白島を相手取ってまでも、その意に反するという不動院に、小網は怒りを浴びせた。


「わりゃァ口が過ぎるど不動院の姉妹ェ! 会長がお決めになったことじゃろうが!」


「不動院クン。気の迷いというなら不問とする。詫びをいれたまえ」


 不動院は構わず立ち上がり、血染めの爪を応接机に叩きつける。


「若頭。小網の姉妹ェ。こくどうが爪出してまで通す言うた言葉を飲み込めんでしょう。落としたリップは塗れんですよ。……会長。この爪で、日輪さんを不問にしてもらいたい。この私は破門だろうが降格だろうが文句は言いません」


「不動院さん。あなたはもう少し賢い人だと思っていたわ」


 そう冷ややかに述べると、白島は足を組んだ。


「出した爪はもう引っ込められない──分かったわ。今日のところは日輪さんと出ていきなさい」


 普段より冷静に見えるのは、うわべだけだ。世羅にはわかる。


「あのう……で、宇品さんはどがあになさるんですかあ?」


 いたたまれぬ様子で、立町は宇品に水を向けた。彼女はといえば、脂汗を流している。全員の視線が注がれている。不思議と紙屋の笑顔が脳裏に浮かぶ。


『ワレ、直参に盃直しちゃるけん』


 そして、命の終わり──絶望の顔が。大竹は言った。紙屋を殺すのも、祇園会を殲滅するのも、折り込み済みだと。それもあって、二代目はてっきり自分だと信じ込んでいた。

 それがどうだ?

 このままでは、ただ単に自分は親を殺し、跡目を掻っ攫われたマヌケだ。

 紙屋は──姉貴は──何のために死んだのかわからなくなる。

 こくどうでもない常人ならば、何を愚かなことをと一笑に付すだろう。自分で殺しておいて、死んだ意味だのなんだのとどの口が言うのだと。

 しかしこくどうとは、意志を継ぐものである。想いを繋ぐ者である──その断絶が自分によって引き起こした身勝手なモノだとしても、それは同じだ。

 動物が子孫に遺伝子を託すように、こくどうはその意志を引き継ぎ、各々が考えるてっぺんを目指す。

 宇品にはその義務がある。己が姉貴分の命を奪ったからには、彼女の命を踏み台にして走り続けねばならないのだ。

 ここで潰されるということは、宇品にとってすべてを否定されるに等しい。


「か、会長。わしゃこれでたちまち失礼させてもらいますけん」


「ええっ? 宇品さんの答え、聞いてないんですけどぅ……」


 立町が困惑した様子でそう言うのに背を向けて、宇品は会議室の扉、そのドアノブに手をかける。


「宇品さん。そのノブを回した先には貴女──地獄しかないわよ」


 地獄。

 道龍会の戦いで死なせた人々のことを考えれば──自分がどういう選択肢を取ればよいのか、自明の理ではないか。

 大竹しまいは自分を許すだろうか。白島会長と反目になったと知ったら、かつての姉妹分でも許さぬだろう。

 でもそれでいい。こくどうなのだ。てっぺん取るために動いて何が悪い。

 宇品は白島の言葉に応えず、ノブを回して退室した。どこかで思い描いた未来と間違ってしまったのは間違いない。

 でももう足を踏み出してしまった。そのすれ違いで命をやり取りするのがこくどうなのだ。

 もう誰かの命をベットしてしまっている。次にベットするのはおそらく、自分の命だ。

 こうして、一枚岩だったはずの元町天神会は割れた。白島にとっての破滅の足音、そして天神会という組織そのものの崩壊のカウントダウンが始まったのだ。

 それは、日輪高子の復讐計画が紆余曲折を経ながらも、着々と進行していることを指すのだった。


続く

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