第二十六話 あの日から何もかも変わってしまったんですか?

 打ちっぱなしのコンクリートに、二重に仕込まれた強化製の分厚いアクリルで区切られた先──その人物はうなだれていた。


「大竹の姉妹ェ……。あんた、破門ちゅうことになった」


 宇品はいつも咥えているキャンディが持ち込めなかったので、落ち着かない様子で口元に手を近づけた。

 入学直後の大竹が、天神会若頭を刺殺してひと月が経った。協会に無許可、それも姉貴分を殺したとあっては、年少は避けられなかった。


「うち……うちはええんよ。だ、だって……白島の姉貴の……役に立ったけえ」


「いいわけあるかい。それより姉妹ェ。わしゃ決めたで。留年して待つわ」


 入学式で、単に隣になっただけでも──こくどうはそれを運命だと感じ取るものだ。

 中学校卒業からこくどうになることを目指していた宇品は、隣に座った一見根暗な少女を見て『与し易そうだ』と思い声をかけた。

 顔に大きな火傷がある彼女は、声が小さく気弱そうに見えた。こくどうにとって数は力だ。一人でも多くの子分や舎弟を連れることが、渡世で生きるためのコツだ。


「姉妹ェ。ワシャ、天神会でてっぺんとれるとは思わん」

 

 初日の日の昼休み──人気の少ない体育館裏でパンを噛りながら宇品は言った。勝手に姉妹扱いしても、特に大竹は文句を言わなかった。


「ほしたら、ど、どうするの……?」


「決まっとる。ココよ、ココ。ペテンつこうてよ、楽してズルして……ちゅうやつよ。大竹の姉妹ェ、ワシに合力してくれるんなら、ええ目を見しちゃるけえ」


 大竹は牛乳を口に運びながら、少しばかり考える様子を見せてから──口を開いた。


「二年に、白島さんちゅうひ、人が、お、おるんよ」


「天神会のか?」


「ほうよ。う、うち、ほんまは白島さんの組に入りたいんじゃけど、い、一年はそういうんは考えてもらえんけえ……」


「……ワシの姉妹分はいやっちゅうことか?」


「ち、ちがう……もしかしたら、し、姉妹と一緒に手柄を立てれば、目をかけてもらえるかもしれんけえ……ほしたら、白島さんの子分になりたいんよ」


 なんだ、そんなことか。

 実力者から盃をもらうのも、こくどうとしての器量だ。白島といえば、天神会でも最高幹部の一人と聞く。いわば出世頭──そうした人物の子分にでもなれば、安全に楽して上にのし上がれるかもしれない。


「ほしたら、その白島さんの盃を貰うんを目標にしようで。姉妹ェ、あんたが子分になりたいお人なら、ワシも子分にしてもらうんが筋言うもんよ」


 あれからそう時間は経っていないはずなのに、事態は大きく動いてしまっていた。

 宇品は今日、覚悟を決めて面会室に来ていた。彼女は姉妹分のために、他の姉妹を姉貴と呼んででも、彼女を待つと決めたのだ。

 大竹は、白島のためだと発言を変えなかったが、その実は少し異なる。

 ことの始まりは、新入生歓迎会における賭場レクリエーションでのことであった。

 当時の天神会若頭──呉は、こくどうの上下関係に特に厳しく、この新人歓迎会を通し、そうした力関係を教え込もうとしていた。

 賭場──サイコロ丁半博打で何も知らぬ新入部員をカモにして、借金を背負わせ──そのカネを一週間で返してこいとふっかけるのだ。

 一般的な強豪こくどう部なら、よくある通過儀礼だ。

 そんな中宇品は、紙屋や小網など同期達が最低限の借金や収支をプラスにして終えていくのを尻目に、百万近い借金を背負ってしまった。

 パニックを顔に出さないようにするのが精一杯だった。

 同じ様に借金を背負った大竹は、長い前髪の奥で不気味に笑っていた。呉はそれが気に入らなかったのか、手を出した。

 それが切っ掛けだったのか、あるいはまた別か──呉はとにかく、大竹にとって『殺されても文句は言えない』切っ掛けを作ってしまったのは確かだ。


「そのキモい肌をちらちらさせんなや、バカタレが……」


 その言葉を聞いた途端、出会ってそう時間は経っていない姉妹の怒りを、宇品は感じ取った。

 その日のうちに、呉は大竹によって刺殺された。あっけない最期だった。宇品にとって僥倖だったのは、それを機に若頭補佐の白島が新入歓迎会における借金をチャラにしたことだった。

 宇品はそれを、鋭敏な嗅覚で何かあると感じ取っていた。あまりにも対応が早すぎる。

 つまるところ、呉が殺されることは白島にとって織り込み済みだったのではないか?

 しかし、それをどうやって予測したというのだ。単なる新入生でしかない大竹のことを、一から十まで知っていたとでも言うのか。

 真実は何もわからない。


「それより姉妹ェ……白島の姉貴のためになった、言うたが、あん人となんかあったんか?」


「……な、内緒よ。うち、言わんもん……」


 大竹はそう言いながら、嬉しそうに小さく笑うのだった。


「ほうか」


 宇品もまた小さく笑った。付き合いは短いが、大竹は彼女にとって友人で姉妹だった。姉妹がそう言って笑うのだ。ならばこちらも笑って済ますのがこくどうだ。

 一年に及ぶ年少──女子高生にとってそれは、永遠に等しく、こくどう社会で言えば殺されたに等しい仕打ちだ。

 今回は特に、一家内──それも姉貴分を殺したことで、大竹と親しくない組員達の印象は最悪だ。

 だからこそせめて、宇品は彼女の受け入れ先になろうと考えたのだ。


「のう、姉妹ェ。破門はワシが何しても必ず解いちゃる。ほいじゃが、もしかしたらワシを姉貴くらいは言うてもらわんといかんかもしれんで」


「え、ええよ。うち、別に気にせんから……天神会に戻してくれりゃあ、文句言わんけえ」


 それから、一年が経った。あの頃は、全てがうまくいくと思っていた。

 白島は呉の後釜として早々と天神会の跡目に納まり、同期だった紙屋や小網達は大幹部へと出世した。

 宇品も、留年組ではあったが紙屋会の舎弟頭かつ、一年生の筆頭として、それなりの力を持つようになった。

 今、彼女は紙屋会二代目になるかもしれない立場にある。考えてみれば信じられなかった。安全にズルしてでも出世する──それなりの綱渡りはしたが、目標は叶ったのだ。


「う、宇品の姉貴……考え事、ですか」


 紙屋会事務所──元町女子学院のクラブハウスの一室。主を失った部屋は、どこか冷えているようにも感じた。

 宇品は大竹の言葉で現実に引き戻され、未来のことを考えねばならなくなった。


「ま、そんなところよ。二代目の襲名にゃあ気苦労が多いで」


 きな臭い話も随分飛び込んできている。天神会舎弟頭の立町が二代目になるかもしれない、などという話はその筆頭だ。

 ありえない。内外共に波立つような話だ。大体が跡目は若頭保佐の天満屋が順当なところを、本人が辞退してきたので宇品にお鉢が回ってくるシナリオなのだ。妬み嫉みが生んだデマに違いない。


「一週間後の幹部会が楽しみでやれんのう」


 宇品は夢想する。その一方で目を背けてもいる。姉貴分を殺し、姉妹達や子分達を死に追いやったことで得た血染の代紋。

 それが永遠の存在で自分のものになったと、そう確定したと考えている。彼女は故に気づかない。気づこうとしない。

 永遠などない。



 一方。

 ヒロシマ市中区郊外、とある寺院の境内にて。


SNSサンメン見ましたよ、御子さん。破門ですか。日輪さんも随分厳しいですね……口添えなら、させてもらいますよ。何があったんです?」


 他人事のように言いながら、作務衣姿で箒を操っているのは不動院である。

 こくどうであっても寺の娘、という心情の彼女は、こうした掃除を始めとする修行を欠かさない。


「不動院の親分。折り入ってお願いがあるんです」


「紙屋会二代目のことなら、あなたには口出し無用です。あれは紙屋会──一歩引いても、それを承認する白島会長との間で起こるいざこざです。たとえ誰が二代目になろうと──」


「舎弟頭の立町が二代目になってもですか」


「……今、なんて言われました?」


 箒を掃く音が止まる。不動院には初耳だ。

 白島はおろか、立町本人からも、宇品を含む紙屋会の人間からも聞いていない。


「立町さんは天神会の舎弟頭代行でしょう。……聞き捨てならんですね。どういうことです」


「長楽寺の叔母貴がそがあな話がある、言うとります。ガセ話にしちゃあ良うできとるでしょうが」


「バカな。筋が通らんでしょ」


 紙屋会は今回の抗争における犠牲こそ多かったが、貢献があったかと言われれば疑問符は付くだろう。しかし、その身を犠牲にしてでも道龍会を追い詰めた紙屋に報いるのが道というものだ。

 会長はあの日、日輪一行をホテル内に紛れ込ませてでも紙屋に道龍会を殺らせろ、と言った。これでは、紙屋達は死に損だ。


「……で、それをこの私に伝えてどがあになさるつもりです」


 冷静を装うのに必死になっている自分に、不動院は修行が足りないな、と自嘲気味に考えた。


「立町を殺っちゃるつもりです。不動院の親分は、紙屋会系列の方──どがあに思われるか、聞きたかったんですわ」


「バカな。たしかに私は貴女を買いに回ると言いました。でもそれは、天神会に火を点けて回るためじゃない!」


 口ではそう言ったが、不動院の心のうちは揺れていた。立町が二代目など、考えられない。紙屋は姉妹として尊敬できない部分もあったが、かつての子を出世させることには協力的だった。不動院もそうした引き上げによって取り立てられた。

 恩義がある。

 その紙屋会を、なんの縁もゆかりもない本家の舎弟頭になど任せられない。


「……立町をどうしても殺ると言うんですか」


「ワシは日輪の若いもんですが……紙屋会は命賭けて天神会の看板を守ったんです。それを蔑ろにするような人事にゃ納得できません。『会長がそがあなことをするわけがない』。立町が余計なことを吹き込んだに違いありませんわ」


 すべてが方便だった。

 打算と方便の中に、太田川御子なりの筋──そして焦りが見て取れた。

 おそらくは彼女にとって、立町が二代目になるのは不都合なのだろう。

 不動院にとっては、不都合でこそないが、彼女の意見に同調する部分がある。

 命を賭けた看板を、他人がかっさらうような真似は許してはいけない。


「……立町には、武闘派の曹如会がついとります。御子さん、あんたの命を賭けなくちゃならないですよ。……私としては、おすすめはできません」


 静かにそう切り出して、不動院は覚悟を決めた。自分が認めたこくどうを死地に送り出す。子分でも姉妹でもない彼女には、そんなことしかできないのだ。


「……親が何も言わんでも、やるべきことをやるんがこくどうでしょう。不動院の親分、それはあんたにも当てはまるんじゃなあですか」


 御子の言葉に、不動院は静かに頷いて、箒を置いた。


「紙屋会の二代目は、当然紙屋会から出す。……御子さん。あなたに言われるまでもなくね」


 立町を殺す算段をつければ、反目ということになる。しかしそれは不動院が積極的に関わったならば、だ。

 明王不動会と関係のない御子が暗殺を成功させられれば、その限りではない。


「御子さん。ただ、あなたにして差し上げられそうなことが今のところありません。『私も反逆者になりたくない』。わかりますよね?」


「当然のことでしょう。ワシが破門になったんは、間接的に祇園会も長楽寺の叔母貴も、ワシにらいたくないけんです。本家に睨まれて耐えられる屋台骨でもない」


「でも貴女は本気でやる、それを分かっていると」


「事実ですけ。こくどうもんが落としたリップ塗れんでしょうが」


「……あなたの気持ちはようわかりました。私には、協力はできません。寺の娘でなくとも、親への反逆を呑み込めませんからね。ですが、聞かなかったことにはできる」


 僅かに触れた鋼鉄特殊警棒の冷たさが、御子の冷静さを取り戻した。不動院を味方につけられるかどうかは賭けだった。そうならぬのであれば、聞かれてはならない話をしてしまったことになる。

 この冷たさをそのままにしておけることに感謝しながら、御子はそれから手を離した。


「御子さん。これだけはいうときます。行く道は修羅の道ですよ」


 御子は静かに頷いた。

 もはや止められぬ流れを感じながら、不動院はスマホを操作し、耳につけた。


「どうも。不動院です。立町の叔母貴をお願いできますか? いない? では直接お話を。……なぜできないんです? 身体を躱してる? ではどこに?」


 しばらくの沈黙の後、とうやら立町が電話口に出たらしかった。


「立町の叔母貴、どうも。天神会の直通から失礼しますが、サンメンで妙な話が出とるようですよ。紙屋会の二代目を継ぐとかどうとか……会長もご存知なんですか?」


『ご存知も何も、会長から指名されてまして……私も困惑しとるんです』


「会長がそがあなことを? 今は学校ですか? 理科準備室? いつものところじゃなあですか。身体は本当に躱すつもりで? ……明日から。そうですか。わかりました。他のモンとも話してみて、今日中にまた寄せてもらいます。ハイ。では」


 スマホを仕舞うと、不動院は背を向けた。もはや言葉はいらなかった。

 不動院は御子に立町の居場所を間接的に教えたのだ。買いに回る、応援すると言ってくれたのは、口だけではなかった。ともすれば、裏切りとして断じられよう行為にまで手を染めて。


「御子さん。このような形でしか、わたしは貴女を推せません。本懐を遂げられなければ、身の置き場所はありませんよ」


「不動院の親分。ワシのことはええです。もう破門された人間ですけえ。ほいじゃが、うちの日輪を──祇園会を頼みます」


 それだけ言うと、御子は深々と頭を下げて、早々に背中を向けて去っていった。

 その背には、太田川御子という一人のこくどう──その不器用な生き様が現れていた。

動かなくてはいけない。

 不動院は箒をもとの位置に戻し、髪を後ろに撫でつけるようにかき上げた。

 戦争になる。紙屋会を巡っての大戦争に。その中で、明王不動会がきっちり生き残らなくてはならない。


「……姉妹同士での殺し合いとは、嫌なものですねえ……」


 不動院は呟き、己の運命を呪う。こくどうとしての本能を呪う。

 こくどうの世界では親の言うことは絶対だ。それでも、承服できることとしかねることがある。

 御子がそうした壁を穿つ一つの楔となるのなら、それにこしたことはない。

 それで彼女が命を落としたとしても、不動院は骨を拾ってやるつもりだ。子分でも姉妹でもない彼女に、本来であればそんなことをする義理などない。しかし、こくどうとして不動院はそれを果たそうとするのだ。

 なぜか?

 それが、惚れた女に対する仁義というものだからだ。


続く

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