初めまして、ベラドンナ
アインスのお部屋は、南棟の奥から2番目。
急患が来てもすぐに対応できるよう、階段から一番近い場所にお部屋があるの。これじゃあ、休めないわよね。前、その話題に触れたら「お嬢様が夜更かししなければ良いお話ですよ」って言われちゃった。
それからは、夜はちゃんとベッドに入って書類確認をするようになったの。
「アインス、入るわよ」
それはさておき、私は「ノックしてご自由にお入りください」の札がかかっているドアを叩いた。
いつもなら「取り込み中」になっているけど、今は違うからなんの疑いもなく開けてしまう。それが、いけなかった。
「アインス!? ダ、ダメ! それを飲んだら、ダメよ!」
部屋の中に立ち込めるのは、私の命を奪い去ったあの甘い香り。
この香りは毒だと、すぐに理解した。
私は、グラスを傾けるアインスに向かって、腹の底から出した叫び声を上げながら走り出す。
でも、よく見れば彼が飲もうとしているわけじゃないことくらいわかったのにね。私ったら、こう言うところがせっかちって言われるのよ。
「お、お嬢様!?」
「アインス! どうして死のうとしてるの? そんなにここが嫌なら、死ぬ前に逃げなさいよ!」
「え? あ? お嬢様、何か勘違いをしていらっしゃるのでは?」
「何も勘違いしていないわ! だって、そのグラスは毒でしょう? 話を逸らさないで!」
「お嬢様、落ち着いてください。なぜ、毒だとわかったのですか?」
「だって、その匂いは毒だもの! 飲んだら、苦しいの!」
「……匂い? しますか?」
「嫌だよぅ、アインスが居なくなったら寂しいよう。ちゃんと夜はお仕事しないで寝るから。セロリも鳥レバーも食べるし、怪我もしないようにする。だから、死なないで。死んだら、真っ暗で何も見えないのよ。苦しさも痛みも何もなくて、ただただ暗いところが続くだけなの」
私は、勢い余ってそのまま涙を流す。グラスを机の上に置いたアインスにしがみつきながら、ワンワン泣いた。
自分でも、何を言っているのかよくわからない。けど、口からは泣き声と一緒に言葉が溢れ出てくる。
そんな私を、アインスは驚きながらも抱きしめてくれた。
頭をぽんぽんと撫でながら、心臓の音を聞かせるように身体を引き寄せてくれる。
「……お嬢様は、まるで死んだことがあるような言い方をしますな」
「また話を逸らす……」
「あちらの世界は、どんなところですか?」
「……何もない。真っ暗なところで、周りが広いのか狭いのかもわからないところで、ずっと何かを待っているの」
「何を待っていらっしゃるのですか?」
「わからない。多分私は、その順番が来る前にベルに呼ばれたから。今度、どんな感じだったのかベルに聞いてみ……あ」
安心し切った私は、アインスの質問にポツポツと答えていく。
けど、その途中で、言ってはいけないことをつぶやいてしまったことに気づいた。
急いで顔をあげてアインスを見たけど、彼はいつもと変わらず温かな微笑みを私に向けてくれる。そして、相変わらず周囲には甘ったるい香りが。それは、良く嗅げば私に懐かしさを与えてくるの。
「あの、今のは……えっと」
「ベルお嬢様でないことは、イリヤから聞いていますよ。中身がどなた様なのかは存じ上げませんが」
「……え」
「イリヤのことは、怒らないでやってください。あの子も、貴女様のことでお悩みになったのです」
「……イリヤ、が?」
「ええ。フォンテーヌ家に仕える者として、本来ならば貴女様を追い出してベルお嬢様を取り戻さねばなりませぬ。しかし、私もあの子も、貴女様に情が移ってしまった……」
「……ごめんなさい」
そうだったのね。
私ったら、自分のことばかりで全く気づかなかった。あんなに良くしてもらったのに、私の存在がイリヤを苦しめてしまっていたなんて。
でも、普通に考えればそうよね。イリヤもアインスも、フォンテーヌ家に仕える使用人。グロスターの令嬢である、私の世話をする義理はない。
私は、涙を拭ってアインスから離れようと腕に思い切り力を入れる。
けど、それは敵わない。
「謝らないでください。それもまた、人生ですから」
「……でも、私は貴方が大切にしているベルじゃないわ」
「言ったでしょう。貴女様に情が移ってしまった、と」
「……アインス」
「私も長年生きてきましたが、こんなことがあるのですなあ」
アインスは、そう言って私の頭を撫で続ける。
ゆっくり、ゆっくりとまるでとても大切なもののように。
この手の温かさは、ベルになってから味わったもの。だから、ベルのものだと思ってた。
でも今、その温もりは、紛れもなく私に向けられている。
「……騙してて、ごめんなさい」
「貴女が悪人でないことは、私もイリヤもわかっておりますよ。騙されたなんて思っておりません。それよりも、ずっと秘密を抱えていたのはお辛かったでしょう」
「……ええ。だって、フォンテーヌ家の人たちはみんな温かいんだもの。こんな私に、優しく、して、くれ、て……」
「それだけのことをしているからですよ」
「してない……。何一つ、……してないわ」
アインスの温かさは、私の罪悪感を溶かすように身体の中へ染み渡ってくる。
心地良い。今までで一番、心地良い温度かもしれない。嬉しいのに、なんだが泣きそうになるわ。こんなチグハグな感情を、私は知らない。
胸がいっぱいになって、それが涙になってこぼれ落ちるの。……ああ、私は泣いているのね。
その温かさで、全身の力が抜けていく。
「……ベルお嬢様が許してくださるなら、どうぞゆっくりなさってください。私は貴女様を主人として歓迎し、これからもここにいらっしゃる限り全力でお世話させていただきます」
「アインスは優しいね」
「貴女様がお優しいからですよ。さあ、そろそろこの老ぼれに、自己紹介をしてください」
「……聞いても、嫌わない?」
「ええ、お約束します」
私は、その温もりに賭けてみようと思った。
アインスも、イリヤと同じ温かさがあるから。きっと、私の名前を聞いても怖がらないで側にいてくれるはず。
そう思った私は、ゆっくりとアインスから離れて背筋を伸ばした。深呼吸し、心を落ち着かせ、真っ直ぐ前を見据えて覚悟を決める。
「初めまして、アインス。私の名前はアリス。アリス・グロスターです」
私がカーテシーすると、それに倣ってアインスも頭を下げてくれた。
少々驚いた顔をしていたから、本当にイリヤは私の正体を言っていなかったのね。
すると、今度はアインスが口を開く。
「では、私も初めまして。アドリアン・ド・トマと申します。以前は伯爵の地位で宮殿侍医をしておりました。王妃殺害未遂によって爵位を剥奪され、刑期を終えて今ここに居ます」
「……え?」
「お嬢様が秘密を明かしたのだから、私も明かさないとフェアじゃないでしょう?」
「……ええ、そうね」
「軽蔑しましたか?」
「何に? 私は、アインスが偽名だったことに驚いたの。アレンやシエラが言っていた「トマ」って、貴方のことだったのね」
「ははは! やはり、貴女様は聡明なお方だ」
だって、アインスが……こんな優しいアインスが、エルザ様を殺そうとするわけないじゃないの。その判決を下した人は、目が見えないんじゃないの? 大丈夫? 人間が判決してた?
でも、もう終わったことで良いのよね? ……アインスは偉いな。冤罪でも、罪と向き合ってここにいるんだから。
私は、自分の罪もわからずここでただ息をするだけなのに。
「ところで、アリスお嬢様は良くこれが毒だとわかりましたね。匂いしますか?」
「ええ、私が死ぬ直前に飲んだ水の匂いと同じだったの。フルーツのような甘い香りがするわ」
「確かに、その香りで合っていますな」
「アインスは……アインスで良い?」
「良いですよ、アリスお嬢様」
「私もいつも通りで良いわ」
「承知です、ベルお嬢様。これは、ベラドンナの実の香りです。しかし、かなり少量で、かつ水に溶かしているので今は香るはずがないんですよ」
「でも、するんだもの」
「ふむ、興味深いですなあ」
アインスは、そう言って机の上にあったグラスを手に取った。
どうやら、匂いを嗅いでいただけだったみたい。飲む気はなかったってことね。私ったら、早とちりして恥ずかしいわ。
でも、彼はとても嬉しそう。
医療者だから、きっと薬の調合が好きなのね。以前も、そんなことおっしゃっていたし。
私は、そんな彼の隣に移動して一緒になってグラスの中身を見る。やっぱり、匂いはするわ。これは、私だけなの?
「ねえ、アイン「あー! アインスったら、部屋にお嬢様連れ込んでる!」」
「はあ、イリヤ。そんなこと言わないでくれ。旦那様がショックを受けてしまう」
やっぱり匂いがすることを伝えようとすると、そこにイリヤがやってきた。開け放たれたドアの前に、1人で立っている。
彼女も特に反応を見せないから、香ってないのかしら? 不思議だわ。
イリヤは、プリプリと可愛く怒りながら部屋の中へと入ってきた。
「あはは、確かに。それより、分析終わりました?」
「ああ、毒の種類も特定できたよ。お嬢様のおかげだ」
「じゃあ、アレですか……。まあ、とりあえずお嬢様、一緒に客間へ行きましょう。アインスも。お客様が来ています」
「アレンは?」
「客間で、そのお客様とお待ちですよ」
「客人って、誰だ?」
「会ってからのお楽しみ。アインスの旧友って名乗っていました。それに、お嬢様のお知り合いでもあります」
誰かしら?
パトリシア様? でも、アインスの旧友ではないわね。
アインスと顔を合わせた私は、部屋に入ってきたイリヤに手を引かれながら客間の方へと向かう。
その間、アインスに正体をバラしたこと、「今まで悩ませてごめんね」と謝罪を口にできた。「イリヤはその分お嬢様に癒されています。ほら、ミミズのお話とか」って言われた時は、アインスにどう言い訳を話そうか必死で考えてしまったわ。
イリヤもアインスも、いつもと変わらない態度で私に接してくれる。
それが、今の私にとって一番嬉しいことだった。
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