第7話 絵を塗りつぶす黒

帰らない。

そう言ったのは僕だった。


まさか自分が迷わずそう言うなんて思いもしなかった。思わず口を手で塞ぐと、アミルはその手をそっと外す。

「なぜ口を覆うの? それが君の本心じゃない」

「違う、僕は帰りたいんだ」

「本当に?」

「嘘じゃありません!」


「本当に……?」


アミルの雰囲気が変わった。

内に秘めた悪意が垣間見えたような、そんな感じだ。

気配が見えない大蛇となり、僕を締め上げてくる。そして、僕の頬を舐めるようにアルミが顔を近づけてきた。

「君は本当に、帰りたいの?」

耳元で囁かれる。アルミの息が耳に触れた。生暖かくて、ねちっこい、艶めかしい吐息が僕の心臓を握りしめる。


「私、知ってるよ。君の世界」

「え……?」

そう告げるアミルは、楽しそうに微笑んでいた。


何かを聞き返すより先に、部屋の扉が開く。

そこに立っていたのは、手提げ袋に食料を詰めて帰ってきたグランだった。


「アミル……」

「やっほ、グラン」


アミルは僕から離れ、グランに駆け寄って軽く抱擁をする。

グランは顔色一つ変えず、アミルを睨みつけた。

「なんでお前がここにいるんだ」

「ん~、それは私が天才だから?」

アミルは勝手にグランが持ってきた袋から果物を一つ奪い、口に放り込む。

「やっぱ美味しくない」

「お前のものではないんだ。勝手に食うな」

アミルを押しのけ、グランは袋をテーブルに乗せた。

「おい、お前、アミルに何か言われたか?」

「え……別に何も……」

咄嗟に嘘をついてしまった。

ただ、ここで言ってはいけない気がしてならなかった。


「この子に、元の世界に帰りたいか聞いたの」

僕の思いとは裏腹に、アミルはすぐに言ってしまった。

「でも、帰らないって即答したよ。ほらね、私の言った通りだった」

アミルの嬉しそうな表情にそぐわぬ、狂気そのものが声に乗って部屋に響いた。


「やっぱり私のやり方に間違いは無いんだね」

優しく語り掛けるアミルに、グランは無言で抜刀する。

僕に刃を向けた時と、目が違った。

「待ってよ、グラン……!」

「下がってろ。邪魔だ」

グランが僕を一瞥する。

「アミル、命令だ。自分の部屋に戻れ」

「嫌よ。あんな部屋、暇でしょうがないもん」

自分に向けられた刀を指でなぞる。

「それに、あんな拘束じゃ私を捕らえることは出来っこないもん」

なずる指を液状化させ、刀を包んでいく。グランは引き抜こうとするが、刀はビクともしない。

「私の体は自由。私の思考は永遠。どんな檻でも、私を飾れやしないわ」


そのままアミルの体が全て液状化し、グランの体にまとわりついた。

首だけアミルのままなのが、逆におぞましい。


「グラン、あなたはあの子になんて説明したの? この世界の事」

「……すべて説明したさ」

「嘘。ちゃんと説明したなら、私にあんな目は向けないわ」

グランの体にまとわりつきながら、アミルの顔だけがゆっくりと僕の方を向いた。


「良い事を教えてあげるね。私、この世界で起きてる、生態系の異常変化の元凶なの」


首だけが伸びてきて、僕の鼻に触れる距離まで近づいてくる。

後ろに下がろうとしたが、壁が邪魔して逃げられない。

「ちょっとムカつくことがあったからね、適当な動物の細胞をいじっちゃった。まさかここまで事態が大きくなるとは思ってなかったけど。それに関しては、私も驚いてる所よ」

驚いている素振りなんて、どこにもなかった。

「私ね、見ての通り、細胞を自由自在に変化できる魔法を使えるの。自分の細胞だと、液体にもなれるし、発火もできるし、出来ないことは無い。今、グランを締め上げながら、鉄になることだって出来るわ」

「やめろ……アミル!」

「しないわよ。重い女は嫌いでしょ、グラン」

グランの拘束を解き、再び元の体を構築する。テーブルに腰掛け、また果物を手に取った。


「でも、他人の細胞をいじると、ついつい失敗しちゃうこともあるんだよね~。難しいんだよ、人を変えるのって」

取った果物を僕に放り投げた。反射的にそれを取る。小さなリンゴみたいな、見慣れない果物だ。

「だから、久しぶりに成功した君に会いに来たの」

「僕が……成功……?」


この世界に繋がる穴の中で、僕は一度分解され、再構築された。

そう、グランが言っていた。

にわかに信じられなかった内容だが、これほど目の前で液状化・再構築を見せつけられたら、嫌でも納得せざるを得ない……。

「なんで元凶であるあなたが、世界を助けようという計画に加担しているの?」

自分で壊した世界に、なぜ手を差し伸べるの?


アミルの答えは、至ってシンプルだった。

「なんか思ってたのと違ったから」

ね、とグランに笑いかけるが、グランは何も言い返さなかった。


「私ね、本当は死刑なの。私が元凶なのは皆が知ってる。だから、本当は別の部屋に厳重に監禁されてるの。私にとってはただの玄関と変わりない厳重性だけどね」

体が自在に変化できる彼女にとっては、小さな隙間も出入り口になる。こんな石造りの建物では、隠し通路の宝庫なのか。

「でも、こんな簡単に死ぬのもつまらないし、最後にこの世界を救ってやろっかなって思って、今回の計画を実行させたってわけ」

うんうん、と一人満足そうにアミルは頷いた。


「他の世界から人を連れてくるってのは考えなかったけどね。まぁ、自分も化け物になるかもしれないってわかってれば、そりゃどこかから代理を連れてこようと必死になるわよね」


その一言に、僕がこの世界に連れてこられた意味が全て込められているのか。

身内に被害者を出さないための処置。


戦力が欲しかったんじゃない。欠員を作りたくなかったんだ。


「だから、君のような完成品がいて私は嬉しい。一緒に、私の失敗作を壊しに行こうよ!」

話を聞いたまま動かない僕の頬に、アミルは軽くキスをした。

「どうせ、帰らないんでしょ? あんな世界には」

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