9月29日


 土曜日。曇りのち晴れ。朝晩は冷える。


 10月のイベントは映画観賞会に決まったそうだ。どうせならハロウィンパーティでも催せばいいのに……と、考えていたら加納さんたちが当日配るお菓子の準備を始めたと聞いたので、調理室へ向かった。

「手伝わせてくれる?」

「もちろん、大歓迎」

 加納さんは先だっての軽いキスや、その後の話題が出て気まずくなったことに、わだかまりを覚えていなくはないが態度に出さないのがベターとでも思っていそうな顔で迎えてくれた。だ。

 スイーツ倶楽部はクッキーの生地を作って冷凍しておくというので加勢した。

「やっぱり型抜きしてデコレーションですよね、先輩」

「彩り豊かにね」

 和気あいあい。ところが、途中、下級生がシナモンと間違えてナツメグの瓶の蓋を開け、中身をブチまけたので軽く騒動になった。

「こんな初歩中の初歩的なミス、よくやらかすなぁ」

 加納部長は呆れてぼやいたが、怒ってはいなかった。失態を犯して落ち込む後輩に優しい眼差しを向けていた。ただ、近くにいた子が咳き込むやらくしゃみの発作に襲われるやらで、しばらく作業が中断した。何人かが出たり入ったりを繰り返した。つまり、腹にイチモツある者にとって絶好のチャンスが訪れた次第。フフフ。

 一段落した後は、みんなで紅茶を飲んだ。美鈴おばさまが送ってくれた、おばあちゃまの形見。五日前に開けたのとは別のキャラメルティ。甘く、微かにほろ苦くておいしいと大好評だった。


 いい気分で引き揚げようとしたら、郵便物が届いているみたいだと同室の一年生・北斗さんに呼び止められた。

「ありがとう、取ってくる」

 サツキさんからだった。嬉しさ半分、悪い予感半分。図書館へ行ってキャレルデスクに就いた。寮の部屋より、こっちの方がよほど一人になれる感がある。手紙には例の女子高生とはつかず離れず、ゆりにも合わせたい、三人でなかよくやっていけそうな気がする……等々、神経を疑う文言が並んでいた。ただ、もっと重要なのは便箋の二枚目[コピー貼付]。


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 そうそう、例の青い粉はイラストを描くとかハンカチを染めるとか、もしくは容器に入れたまま、ただ賞翫するっていうのが正しい使用法だからね。くれぐれもイタズラしないように。もっとも、一部の天然岩絵具、辰砂だの雄黄だのと違って毒性はないけども。あれは白群といって藍銅鉱の粒子を粉末状にしたものナリ

 参考までに。

 ①てんねんいわ絵具えのぐ:鉱物を粉砕・精製した天然の顔料。

 ②しんしゃ:(cinnabar):硫化水銀(HgS)からなる鉱物。

 ③ゆうおう:(orpiment):砒素の硫化鉱物。黄色顔料だが、毒性のため現在はほとんど用いられない。

 ④びゃくぐん:柔らかい緑みの青。藍銅鉱の細粒の一種。粒子の状態・色の濃淡で呼び名が変わる。

 ⑤らんどうこう(azurite):銅の代表的な二次鉱物の一つ。孔雀石と共生することが多い。


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 ……なんだ、毒じゃなかったのか。てっきり遅効性の猛毒だと思っていたのに。ええっと……だったら、わざわざカプセルに詰めて歯をこじ開け――嫌だ汚い、思い出してもゾッとする。もちろん使い捨ての極薄ゴム手袋をはめて触ったが――押し込む必要なんてなかったんだわ。え、じゃあ、あのは死んでいないの? うわぁ、明日ママと一緒に鹿下げてやって来るのかな。勘弁してほしい。

 そうか、じゃあ、今日のひと手間も無駄だったのだ。プチ・パニックを利用して調理室の小瓶を一つニセモノとすり替えたのは。青色1号とラベルを貼ったダミーを置いてきたのに。本物の中身はトイレに流しちゃった。ううむ。呪いの粉で染まったアイシングシュガーに鎧われたペルニークが、あいつの口に入るよう願ったのに。断末魔の叫びの合間に諸々の悪行を懺悔するセリフが切れ切れに漏れる……なんて情景を期待していたのだけど。だって、あいつはいくつも悪事を働いてきたに決まっている(それでいてまったく恥じ入る気色もない傲然たる態度!)。じかに手を下してはいないにせよ、裏で何らかの力を加えて気に食わない教師や生徒を追い詰め、危害を及ぼしてきたに違いないのだから。あたしだって、こんなに混乱したり苦しんだりしているのは、ひょっとすると、あいつの威福とやらが巡り巡って間接的に作用しているせいじゃなかろうか。もっとも、青く飾られたクッキーが必ずあいつの手に渡る保証はないのだが。

 問題は空になった容器の処遇。あいつのガウンが魔法のようにスルッと吸い込まれてコンパクトに収まってくれたらいいのに……なんて、らちもない想念を弄んでみた。


【メモ】

 ①ペルニーク(perník):チェコの伝統的な焼き菓子。英語圏ではジンジャーブレッドと呼ばれる。

 ②威福(いふく):威力または福徳をもって思いのままに人を服従させること。

【引用】

 人間の手は極度に機能的な、簡潔な形をしていた。少なくとも耳ほどグロテスクではなかった。細い皺と、固い皮膚と、敏感な薄い肉がついていた。人が悪と呼んでいるものは、大抵これでやれるのだ。(三島由紀夫「博覧会」)

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