第29話 退職
「声でしか食っていけない自分」を卒業する事を、瀬奈は決心した。
亮太にはもちろん内緒だ。
自分の一番得意な事を手放す。
とても怖かった。
正社員を辞めてまで、ベティー一本に絞ろうと思えたのは、時給がある安定さもあった。
十二時間フル出勤していれば、雑費抜きで二万四千円はもらえた。
週五で出勤すれば月給五十万弱になる。
家賃や生活費を抜いても、貯金額は上がった。
正直、営業会社とかけもちの週七フル稼働は、しんどくて体が悲鳴をあげていた。
退社するのは、本当に面倒な作業だった。
課長や親しかった役員と面談を重ね、何度も引き止められた。
退社ではなく休職を強く勧められた。
営業成績が悪い者はすぐに辞めたがったので、ただでさえ離職率が高い会社だったし、社員の出入りも激しかった。
瀬奈はある程度、自分が会社にとって価値ある存在だと自覚していたので、上からの粘りは覚悟をして挑んだ。
どう考えても休職するのが現実的だった。
だけど瀬奈は、全てを達成した後で、ここが戻ってきたい場所かと聞かれたら、胸を張ってそうだとは答えられなかった。
借金を返済した後で結婚が実現したら、数字なんて必死こいて追う必要はなかった。
亮太が奥さんだと認めてくれるだけで、心は満たされるだろう。
過去の自分を捨てて、なにか新しい事がしたいと思った。
ベティーでの日々は幸せとはかけ離れているが、瀬奈にとっては驚きの連続だ。
ほんの少しだけ、楽しさも感じつつあった。
長いこと、自分が狭い世界に閉じこもっていた事にも気付けた。
退職理由は、嘘でも結婚を理由にすると騒がれそうだし、転職と言っても深く詮索されそうなので避けた。
実家に戻り、病気で倒れた母の代わりに、祖母の介護をするという理由にした。
他の家族は遠方に住んでいて、自分にしか出来ない。
親戚を含めた家族会議で、全会一致した結果だというストーリーで進めた。
あまりにも急な話に彼らは唸ったが、瀬奈はどんな言葉にも揺るがなかった。
何度も頭を下げた。
課長をなんとか情で口説き、月末までの退職が認められた。
あちこちで、ひんしゅくを買ったようだが、元々好かれてもいなかったので、瀬奈は気にしなかった。
ランチに一緒に出かける若いバイトの子たちは、「やだー、寂しい」「辞めても絶対月一で飲み会しましょーね」と、本当か嘘か分からないくらいに高いテンションで悲しんでくれた。
プライベートでは仲良くしなかった同僚たちも、それぞれ挨拶に来てくれた。
散々「くそブー」扱いしてきた主犯格の男もやってきた。
瀬奈は嫌味を言われると思い、身構えた。
彼は決まり悪そうに頭を掻きながら、ぼそりと言った。
「お前のこと、数字でけちょんけちょんに負かしてから辞めさせたかったわ」
その言葉は、瀬奈に何よりの達成感を与えた。
ずっと言葉では言い返せなかったが、仕事でやり返せた。
心残りが、これで完全に消えたと思った。
毎月、数字を追って勝ち続ける。
その優越感にすがりついてないと生きていけなかった。
プレッシャーや焦りと戦う日々に休みはなかった。
瀬奈は解放感と共に、また新たなレースが始まる事へ、怯えもした。
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