第2話 可愛い彼氏

「私達って、いつか結婚するのかな?」

「もちろん。でもまだ早いから、少しだけ待ってね」


 あのやりとりから、二年が経つ。

 しかし一向に、亮太からのプロポーズはなかった。


 瀬奈は、毎日心の中で同じ質問を繰り返した。

 今年で三十歳を迎える。歳と一緒に、焦りも迫ってきた。


 もしかして、りょーちゃんは、あの話を忘れてしまったのかな?


 不安が溢れだしそうになれば、その思いに蓋をした。瀬奈の心は、まるで便秘のようだった。

 

 亮太は、シンガーソングライターだ。プロとしての志はあるが、まだデビューの兆しはない。

 彼の現在の収入は、ほとんどゼロだった。自分のCDアルバムを作成した時には赤字になるほど売れなかった。

 音楽活動の片手間に、日雇いでイベントやライブ会場設営の派遣アルバイトもしていたが、気分が落ちると、家に引きこもり休んだ。彼は、やりたくない事には徹底的に消極的だった。気が向いた時にしか、働きにいかなかった。


 多くの売れないミュージシャンは、アルバイトで自分の生活費をまかなっている。でも亮太は、その時間に好きな音楽を作り続けていた。

 瀬奈と一緒に住み始めた頃には、四万五千円ずつ折半した家賃だったが、二ヶ月目には三万、その翌月は一万二千円、徐々に〇円にまでなり、出世払いの借金という態で、今は無料で住んでいる。生活費も、全て瀬奈が出していた。


 瀬奈は、彼がいつか本当に売れると信じるのは難しかった。

 正直、彼が売れても売れなくても、どっちでもよかった。ただ、彼と一緒に過ごす為の代償だと思い払っていた。

 この生活は三年間、続いている。


 端から見れば、同棲ではなく「養っている」に近かった。

 しかし、瀬奈にとっては、亮太と不釣り合いな自分に出来る最大限の事だった。それで彼が好きな事に没頭出来て、いつまでも自分と一緒にいてくれるなら、幸せだった。


 瀬奈の友人は、亮太を「無能な音楽オタク」だと蔑んだ。

 友人達は、瀬奈と同じように正社員で働く女が多かったので、亮太のような男は甘ちゃんのヒモ男扱いされた。次第に瀬奈は、彼女達に亮太の話をしなくなった。


 亮太は瀬奈にとって、自分を女として扱ってくれる希少生物だった。

 だから守りたかったし、何があっても味方でいてあげたかった。


 そこまで尽くしても、亮太の音楽仲間に「彼女です」と正式に紹介してもらえた事はない。

 ライブ後の打ち上げに呼んでもらえた事もない。

 瀬奈は、ライブ会場で一般のお客さんとして扱われた。それは悲しかったが、自分の容姿のせいだと諦め、「亮太のメンツが保たれるなら仕方ない」と思うようにした。


 顔に対する慢性的な憂鬱は、ずっと拭いきれずにいた。

「プチ整形でもしちゃえば?」

 女友達にそう勧められた事もある。彼女は瀬奈と同じ一重まぶたで、可愛くないという共通の悩みを持っていた。

 彼女は目を大きく見せようとマスカラをひじきのように塗りたくり、アイシャドウで目の周りをカラフルに強調させていた。


 そんな彼女がある日突然、目がぱっちりと開き、ナチュラルメイクに変わった。瀬奈はその変化に戸惑っていると、二重まぶたの整形手術をしたと告げられた。術後に腫れ上がってしまうダウンタイムは、たった一週間だったそうだ。年末年始の休みを使ったので、瀬奈が見ないうちに、彼女はすっかり回復していた。


「人生変わるとまでは言わないけど、気持ちが楽になるよ」

 一重まぶたとサヨナラした彼女は、すっきりとした顔で言った。


 ずるい。

 瀬奈は、置いてきぼりにされた気持ちになった。

 たしかに、金でコンプレックスが解消出来るなら、合理的だった。

 瀬奈が今まで整形に手を出さなかったのは、手術に伴うリスクもあったが、何より亮太の為にお金を使ってあげたかったからだ。亮太を養っている分、費用を工面するのは難しかった。


「私、美容整形したいんだけど、どう思う?」

 瀬奈は、亮太に相談した。

 目、鼻、ホクロ……。変えたい所はいっぱいあったので、優先順位も参考に聞きたかった。

 亮太は突然の話に目を丸くし、まじまじと瀬奈の顔を見つめた。

「瀬奈、どっか悪いの?」

 亮太は真剣な顔だった。

 瀬奈はぶっと噴き出した。


 亮太を一生大事にする。

 瀬奈は、そう心に決めた。

 亮太は、私の顔の悪さなんて気にしていなかった。

 プチ整形の話は忘れよう。

 稼いだお金は、この人と過ごす為に使いたい。


 亮太の全てを把握しておきたかった。     

 毎日、SNSで亮太の名前を検索しリサーチするのが、瀬奈の日課だった。出てくる情報は少なかったが、ライブの評判が流れてくる事もあった。


 人前で歌うなんて、大胆な人にしか出来ない。

 昔の瀬奈はそう思っていた。

 だけど亮太は瀬奈よりずっと繊細な人だった。

 葉っぱの上にころがる朝露みたいだと思うことがある。

 彼の心は、ギリギリのバランス感覚を保っている。それを楽しんでいるかのように見えて、何かの拍子に零れ落ちてしまわないか。瀬奈はいつも気にかけていた。


 路上ライブやスタジオから帰ってくれば必ず「今日はどうだった?」と母親のように聞いた。

 亮太はいつだって、楽しかった事や、自分が格好よく立ち振る舞えた事、皆を爆笑させた事ばかり話した。亮太の話だと、彼は誰よりも個性的でセンスが良く、常に皆の注目の的だった。

 瀬奈は亮太の楽しそうな顔を見るのが好きだったが、内心そんな事ばかりなはずがないと疑っていた。


 ライブの評判が悪かったり、パフォーマンスが思うようにいかない時、それについて亮太は何も言わなかった。だけどそんな日の彼は、瀬奈に後ろから抱きしめてもらわないと眠れなかった。


 亮太を抱き、彼の髪の柔らかさを鼻先で感じる時、瀬奈は一番誇らしかった。 

 こんな弱い彼を見ているのは、自分一人だけ。

 どんな時よりも深く、自分が亮太の女なんだと思えた。

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