それは少女の隣で鈍く。輝く。

望矢りんご

第1話

 鼻に不快感を与える湿った土埃の臭い。その強い不快感に少年は目を細めた。顔先に舞っているそれを手で扇ぎ払い目を開くと、瓦礫の隙間から雨粒が目元に落ちた。ついさっきまではしわの一つも無かった制服も茶色に染まり、少しずつ雨に濡れて重くなっていく。新しく始まったばかりの生活に終わりを告げられたかのように。その身に纏っているのは、絶望という漠然とした喪失感であった。

 隙間から入ってくる破砕音と金属を叩く音が、己の日常が手元から出奔したことを裏付けるように、けたたましく体の底に鳴り響く。突如として眼前へと現れた非日常に、身を動かす気力が湧くはずがなく、少年は地べたで横になり、顔を伏せた。鼻につく土の香りも気にならない程に、絶望は心にじっくりと広がっていった。幾らか時が経ち、生きる活力も失った時。

 少年の視界が一瞬にして開け、光に包まれた。少年はあまりの眩しさに目を伏せる。

 全てを塞いでいた瓦礫は吹き飛び、破散した。全てを呑み込む闇は消え失せ、雨が止んだ。再び目を開いた少年の眼前には、大きく裂かれた鈍重な雲の間に見える青空と、宙を舞う透き通るようなブロンドの髪をした少女だった。

 少女は右手に持った短刀で矢を弾き、キレのある動きで一つまた一つとかわしていく。彼女の羽織っている深い緑色のローブが、動くたびにふわりとはためいた。彼女の蒼眼は敵を見逃さんと眼前の敵を見据え、集中を崩す様子はない。少年は彼女の姿に、体の底から湧き出るような感銘を受けた。彼女の姿から目が離せなかった。少年は体を起き上がらせて、まじまじと彼女を見つめ続けた。この世界に自分の存在が無いと錯覚するほどに、視覚以外の感覚は薄くなっていた。

 ふっと急に少女は足を止めた。

 少年の存在に気付いたのだ。少女は目を泳がせ何かを考えている仕草を見せた。その表情からは焦りを感じ取れる。

 敵がその隙を見逃すはずもない。無慈悲にも放たれる矢は彼女の頭部に真っ直ぐに吸い込まれる。だが、彼女の頭部を穿つかと思われた矢は、彼女に届く寸前で姿を消した。

 気づけば少女の足元には黒猫が矢を咥え、自らの顔を洗っている。

 チッと舌打ちが聞こえた方を見ると、少女と同じ深い緑色のローブを深く被った大柄な男の姿。深く被ったフードを取り、もう一度左手に持った紅色の弓に矢をつがえた。男は額に血管を浮き立たせ、怒りを全面に主張している。冷静ではあるのか、矢を放つことはせず、しっかりと狙いを定めていた。

「オイラに矢を止められたことがそんなに悔しいかい?」

 男を馬鹿にする小さな子どものような声。声の主は黒猫であった。

「ヘク、戦闘中に余所見をするのはやめるべきだ」

 黒猫は今度は馬鹿にするような言い方ではなく。相手を諭すような優しい声で、黒猫は少女に声を掛けた。

「ごめん」

 少女はバツが悪そうに人差し指で頬を掻く。そのまま彼女は少年の方に視線を向けた。

「危ないから早くここから離れて」

 幼い声であったが、その声は落ち着きがあり、透き通っていた。少年に慈心に満ちた微笑みを見せた少女は、顔を強張らせて男に視線を戻す。それと同時に矢は放たれた。少年は思わず声を上げたが、彼女はそれを短刀で軽く弾いてみせた。

 少年は離れろと言われた手前、やはり彼女から目を離せなかった。彼女が心配だとか、危なっかしいとかではなく。純粋な好奇心のようなもので、彼女の姿を見ていたかったのだ。

 男の様子を伺っているのか、矢が切れることを待っているのか、彼女は攻撃を仕掛けることなく、淡々と矢を弾き、男から目を離すことはない。ついぞ、矢を弾くばかりで攻撃を仕掛けない彼女に対し、男は声を荒げ叫んだ。

「なぜ背中に携えた遺物を抜かない! 俺には抜く必要がないと言っているのか! 俺を馬鹿にしているのか!」

 少女は背中に背負っている布を巻かれた剣に軽く触れるが、すぐに手を離した。

「これのことを言ってるならあなたには使わない。私はあなたが持ってる遺物の回収ができればそれでいい」

 男は彼女の言葉を鼻で笑うと、矢筒から先ほどまでの矢とは明らかに違う金色こんじきの矢を取り出した。金色の矢は異様な存在感を放ち、その身を輝かせる。

「俺は今こいつを手放すわけにはいかないんだ」

 男は矢筈やはずを弓の玄にかけ、引き絞った。力を集めるように周辺の空気が金色の矢の先端へと収束した。男の顔には迷いはなく、この一撃で終わらせると決めていた。少年は息を呑み、見逃さんと今一度目を開く。

「大空を裂け、大地を抉れ。天羽々矢あめのはばや!」

 男が口上を叫び、少女がため息を付いた刹那せつな、金色の矢は放たれた。金色の矢は空に広がる鈍重な雲の裂け目を広げた。直線状にある瓦礫を薙ぎ払い、少女へと高速で滑翔かっしょうした。

 少女は即座に少年の襟首を掴み、後ろに飛び退った。それでは間に合わないことが目に見えているのにも関わらず、彼女の表情は焦りも諦めも見えない。彼女の眼はただ一点に、滑翔している矢を捉えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る