『正義』という名の凶器
冷門 風之助
PART1
『
まりは割増し料金として一日4万円の危険手当をつけます。他に聞いておくことは?』
『ありません』
彼はそう言って黙って首を振る。
俺は窓際に立ち、ブラインドを上げて外を見た。
もうすっかり冬の寒さはどこかに行き、温かい日差しが俺の仕事場、即ち”乾宗十郎探偵事務所”にも入り込んできている。
依頼人はソファに座り、眼鏡を持ち上げて、俺が渡した契約書をもう一度見直し、それから最後の頁の署名欄に、几帳面な字で丁寧にサインをした。
俺は流しに行ってコーヒーを二杯淹れてくると、一つを彼の前に、もう一つを向かい合わせに置き、その前のソファに腰を降ろし、渡された契約書を眺め、
『結構』
と呟いた。
『さて、それではまずお話を伺いましょう』
コーヒーを一口啜ってから俺が声を掛けると、彼も同じようにカップに口をつけてから、少し俯き、小さな声で話し始めた。
依頼人の名前は・・・・いや、仮にも有名人なんだからな。一応仮名にしておこう。
作家と言ってもピンからキリまである。
彼はその内のピンとキリの中間に位置する。
元々書くことは好きな方だったから、中学、高校時代はマメに小説らしきものを書いては、クラスメイトと作った同人雑誌に発表したり、時には雑誌社への持ち込み、或いは新人賞のようなものにも盛んに応募していたが、一つとしてモノになった試しはなかった。
やがて”自分はもうプロの作家になるのは無理なのかな”と思い、普通に大学に通い、そこを卒業した後、常駐警備専門の警備会社に入社し、警備員となった。
何故警備会社だったのか?答えは至って簡単である。
”小説を書いていたかった”
からである。
常駐警備というのは、勤務時間は結構長いものの、人が帰ってしまった後は定時に巡回をするくらいで、後は警備室に籠りきりでも問題はない。その時間を小説の執筆に宛てることにした。
夜、誰もいない中で、原稿用紙の上にペンを走らせていると、不思議とはかどった。
(彼はワープロは使わず、もっぱら原稿用紙と鉛筆を用いている)
そうして書き上げたものを、仕事あけに自宅アパートに持って帰り、眠い目をこすりながらもう一度清書をして、出版社に持ち込むのである。
勿論断られる割合の方が多いのは確かだったが、諦めずに続けていれば、いいことはあるものだ。
20代後半になったある時、彼の原稿がある小説雑誌(主にライトノベル専門だった)の編集者の目に止り、
”今度ウチの新人賞に応募してみないか”
といわれ、張り切って一本書き上げて応募した。
流石に入賞とはいかなかったものの、佳作第一席となり、10万円の賞金が出た。
それからも根気よく書き続け、やがて同じ社の漫画雑誌から”劇画の原作を手掛けてみないか”と言われ、それを引き受けたところ、運よく大ヒット。
それからは小説、漫画原作ともに注文が来るようになり、そのことをきっかけにして会社を辞めて、本格的な作家の途を歩み出した。
流石に出せばヒットという訳には行かなかったが、それでも順調に売れ、今ではもうすっかり
”職業は作家です”といっても恥ずかしくないと、自分でも思えるようになった。
『ところが、です』
彼はそこで言葉を切り、
”煙草を喫ってもいいか”と恐る恐る言う。
俺は何も言わず、
青木は少しばかりほっとしたような表情を浮かべ、ジャケットの中からセブンスターを取り出して中から一本摘み、火を点けた。
『私は今、もうどこにも書けなくなっているんです』
『書けなくなっている、とは?』
俺はカップを
『言葉通りの意味ですよ。作品を発表する機会を失ったんです。いや、奪われたと言った方がいいかもしれません。』
青木はため息を煙と共に吐き出し、うなだれた。
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