ギムレット

柏堂一(かやんどうはじめ)

ギムレット


「やっと会えたね」


 彼女はそう言った。


 けれど僕は彼女の顔に見覚えが無かった。


「以前どこかでお会いしましたか?」


 僕はこのバーに週に二度通っている。彼女は初めて見る顔だった。


 僕の質問には答えずに彼女はカクテルを一口飲んだ。


 そこに居るのに、だけどそこには居ない。そんな不思議な雰囲気の女性だった。僕は記憶を辿ってみたけど矢張やはり彼女には見覚えが無かった。


 その後は特に会話をすることもなく時間が過ぎた。彼女が帰り支度を始めたので僕は


「ギムレットを飲みませんか?」


と言った。そうしないと彼女とは二度と会えないような気がしたのだ。


「ロンググッバイね」


 レイモンド・チャンドラーの書いた『ロンググッバイ』という小説の中で、探偵と依頼人がギムレットを飲みながら友情を育むシーンがあることを彼女は知っていた。


 僕は考えていることを見透かされたような気がして恥ずかしかったが、彼女は快く受けてくれた。


 僕たちはギムレットを飲んでこの日は別れた。


   ☆


 僕は相変わらず週に二度そのバーに行っている。彼女と会える日もあったが会えない日もあった。


 僕たちは少しずつ打ち解けて会話をするようになった。彼女はいつも僕の話を頬杖をついて楽しそうに聞いてくれた。


 その仕草は、僕には懐かしいものだった。


 僕には婚約者が居た。過去形。婚約者は事故で亡くなってしまった。


 今はもうこの世には居ない婚約者の仕草と、今隣に座っている彼女の仕草は同じだった。


 ある時、僕には婚約者が居たことを彼女に話した。


「今でも愛しているの?」


「うん、忘れることが出来ないんだ」


「素敵ね」


 意外な一言だった。


 僕の周りの人たちは、もう忘れて前に進めと言う。僕もそうしないといけないと思っていた。でも忘れていくことは辛くて苦しいことだったから、僕はこの一言に救われたような気がした。


 この日もいつものように二人でギムレットを飲んで、僕たちは店を出た。


 ☆


 ある日、僕は彼女に言った。


「ねえ、どうだろう。連絡先を交換できないかな。その、君がここに来る日を教えて欲しいんだ」


「連絡先は無いわ」


 教えたくないということなんだろう。だけど連絡先が無いという断り方は初めてだ。僕は少し笑ってしまった。


「本当よ。本当に連絡先は無いの。信じてくれないの?」


「信じるよ。みんなが連絡先を持っているとは限らない」


 お互いに連絡先を知らずに、行きつけの店で会ったときにだけ話をする。そんなことはよくあることだ。彼女の連絡先を知らなくてもここに来たら話ができる。それで良いと僕は思った。


 この日も最後に二人でギムレットを飲んで、僕たちは店を出た。


 ☆


 ある日、バーのマスターから連絡が来た。


 彼女が店に電話を掛けてきて、今日お店に行くから僕に来て欲しいと言っていたそうだ。


 その日、僕は友達と会う約束をしていたけど、次の日に変更してもらいバーに向かった。


「来てくれたのね」


「うん、来なきゃいけないって思ったんだ。何かあったの?」


「何もないわ。何かが無いと呼び出したら駄目なの?」


「そんなことは無いよ。僕を呼び出すなんて珍しいから心配になっただけだよ」


「ありがとう。嬉しいわ」


 僕はジントニックを、彼女はハイボールを飲んだ。


「ねえ、いっぱい話を聞かせて」


 僕は彼女にいろんな話をした。彼女はいつもの仕草、頬杖をついて楽しそうに微笑みながら聞いていた。


「ありがとう。あなたの話は本当に楽しいわ」


 もちろんこの日も二人でギムレットを飲んで、僕たちは店を出た。


 ☆


 次の日、僕は昨日会う約束をしていた友達との待ち合わせ場所に向かった。


 待ち合わせは昨日と同じ場所。そこには規制線が張られていた。そこにある店のショーウィンドウは壊れていた。


 暴走した車が店に突っ込んだ、幸い怪我人は居なかった、そんな話だった。それは昨日僕が待ち合わせをしていた時間の出来事だった。


 昨日彼女に呼び出されていなかったら、そう思うと僕は震えが止まらなかった。


 友達には緊急の用向きが出来たと伝え、僕はバーに行った。彼女の姿は無かった。


 次の日も、その次の日も。それ以降、僕は彼女に会うことは無かった。


 初めて会ったとき、彼女はやっと会えたねと言った。


 彼女は僕が事故に遭わないように僕の前に現れたのだろう。そうすることが彼女にとってどれだけ大変なことだったのか、僕にはわからない。けれど忘れなければいけない人は、忘れてはいけない人になった。


 ☆


「マスター、ギムレットを作ってくれるかい」


「かしこまりました」


 マスターはそっとギムレットを置いてくれた。僕はグラスに手を伸ばしたが飲むことは出来なかった。


「かまいませんよ」


 マスターがそう言ってくれたので僕はギムレットを飲まずに店を出た。


 僕から彼女へ、まだまだ話したいことがいっぱいある。


 だからいつかまた彼女に会うことが出来たら、たくさん話をして、その時にまた二人でギムレットを飲もうと思った。



 了

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