第104話 哀怨4
するとマイヤーは刃先で丁寧に糸を切っていった。皮膚と骨の間に刃を入れ、少しずつチップを剝がしていく。
チップに傷一つ付けずに剥がし終えると、胸の中心には真っ赤な長方形の傷跡が残っていた。
「おい、こいつを解析してみろ」
マイヤーはモニター付近で作業を続ける研究員たちに向かって声をかけると、小泊が走ってきた。
「これはいったい……」
血の付いたチップを両手で受け取った小泊が呟いた。
「ハコニワに敷かれた防壁の鍵だ。後のことはあんたらで好きにやれ」
「分かりました。すぐに調べてみます」
小泊はチップを握り締め、所定の位置に戻ると作業を再開させた。
「待てよ……」
仕事を終え、再び壁際に戻ろうとしたマイヤーに疋嶋が声を掛けた。
「先ほども言っただろう。これ以上の譲渡はないと」
「ああ、だから後は俺たちが何とかする。でもこれだけは言いたかったんだ」
「嫌味か……」
マイヤーが引きつった笑みを浮かべなら目を向けると、疋嶋は頭を下げていた。
腫れた頬を冷やすより先に、殴った相手を殴り返すよりも先に、疋嶋はただ頭を下げた。
「あんたが居なければ、気が付かなかった。その情けに感謝したい」
その拍子抜けな謝礼にマイヤーは戸惑いつつ、舌を鳴らした。
「これだから日本人は嫌いだ。いつだって頭を下げればいいと思っていやがる。世界では武器を持ち、食うか食われるかの戦争をしているというのに、日本だけが平和という甘えに固執して、隷属を甘受する」
マイヤーはそう言うと、疋嶋の前に突き出た頭頂部を小突いた。
「だが、嫌いじゃない点は一つだけある。俺は日本のことわざで唯一、知っているものがあるんだ。『情けは人の為らず』こいつだけはまだ俺がティーンエイジャーだった頃に親父から聞かされた。他にもいくつか聞かされたが、あいにく覚えているのはこれだけだ。因果応報という言葉よりも甘ったるく、そして妄信じみている。だがそんな言葉が好きだった。つまり俺は自分のためにやったまでだ」
「あんたが隊長をやっている理由が何となく分かったよ」
疋嶋がそう言うと、マイヤーは鼻で笑いながら答えた。
「分かってたまるか……人の考えや過去が読めた日には戦争なんて起こらない。俺はテロリストの考えなんて分からねぇ。だけどよ、この女の恋慕に侵された目を見てふと気が付いたんだ。この女も俺と同じで愚かだとな」
「だから大事なチップの場所も分かったのか」
「そうだ。人は大事なものは遠くに隠しておけばいいものの、なぜか近くに置きたがる。自分の監視下に置き、決して離さぬようする。それが一番危険であることを知りながらも、心臓の近くに置きたがるのが性分ってやつだ」
「士錠が言った染白の〝らしさ〟というものか」
「あそこでふんぞり返るテロリストに恋をした女は、その残された繋がりである使命を遠ざけることが出来なかった。そしてその使命が体現したものがあのチップだ。それゆえ、この女は壊すように言われたチップを自分の心臓の一番近い部分に縫い付けたのだろう。それが感情を持つ人と感情の持たない人工知能の違いだ。人の感情などは欠陥品だ。その人間である〝らしさ〟があのテロリストにとっては分かりえない部分であったのだろう。だがいくら戦場で人を殺そうと、殺されそうになろうと、人である以上、その欠陥部分を捨て去ることができない。それは俺も同じだ」
マイヤーはそう言うと、疋嶋に背を向けた。
「柄にも無く、長く喋っちまった。これは俺からの儀礼だと思え」
壁際に戻ろうと歩き始めたマイヤーのうなじにはペンダントのチェーンが二本見えた。一本は軍人が着用するドッグタグだろう。ではもう一つは何か。
疋嶋はそのもう一つのペンダントが何なのか想像し、微笑んだ。
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