第82話 災厄9

 疋嶋がタカマガハラの完成と同時に変わってしまったと思うのは周りにいた人間がその本質を見抜けなかったからかもしれない。変わっていくのは人として成長する研究員のほうであり、その当たり前の流れに乗らず、頑として、一貫している疋嶋を相対的に変わったと見なしているのかもしれない。

 つまり、タカマガハラの制作には人員が必要であったため、研究員との関係を円滑に進めていたが、次なる研究に研究員たちの力は必要ではなくなったため、姿を現さなくなり、冷徹に変わったと勘違いされたのである。

 しかし、そんな疋嶋に士錠はさらに没頭していった。社会的生物の人間としては欠けている部分が多々あったが、科学者としてはこれ以上にない才能を持っていた。士錠は度々、疋嶋の自室に顔を出すようになり、その行動を手記に記すようになった。

 しかしそんな士錠を歯牙にもかけず、その研究内容は疋嶋独りで保持し、黙々と実験用マウスと電極が繋がったコンピュータを睨みつけていた。

 そしてこの頃である。全く芸能界に興味などなかった士錠が東堂紬という女優に目を付けたのは。いわば士錠はこのとき、脳科学の研究と言うよりは疋嶋陽介と言う人物を研究していた。そして、東堂紬が疋嶋のかつての友人であったことを知った上で、シジョウプロダクションを設立し、そこにスカウトしたのだ。

 確かにこのときから疋嶋に対する不信感はあったのかもしれない。そのため、無意識のうちに記憶を失った以前の疋嶋へ近づこうとしていたのだ。


 そしてあくる日、あれは早朝であった。

 朝方までパソコンに向かって論文を書いていた疋嶋が寝た後、士錠はこっそりと疋嶋の自室に侵入した。

 書き終わってすぐに寝たらしく、パソコンにはまだ論文を打ち込んだ画面が残っている。士錠は椅子に座り、マウスをスクロールしながら読んだ。

 約一時間が経過し、半分まで読み進めた士錠は目頭を押さえながら、口元に手を当てた。

 ――脳髄影写システム

 それは疋嶋が長きにわたって研究を続けていたソフトの正体だった。人は肉体を失い高次元の生物に進化する。しかし、脳をコンピュータ上に写した電脳領域でのみ生きる生物を本当に生物と呼んでよいのだろうか。

 士錠は背もたれに体を任せ、ぼんやりと画面を見つめた。すると画面に映った自分の顔の後ろに疋嶋の姿が見えた。

 慌てて振り返り、弁明をしようとしたが、声が出なかった。


「読みましたか、それが僕の理想形です」


「いつからそこにいたんだね」


「最初からです、一時間もの間、僕はずっと教授の背後からその姿を見ていました」


 その言葉に背筋が凍る。額から噴き出した冷たい汗がこめかみを伝い、顎に流れるのを感じた。


「勝手に見てしまったのは済まないと思っている。だがこれは……」


「人類は変わらなければならない。タカマガハラという理想郷に住まうことが出来るのは同じく肉体を捨てた理想生物のみです」


「確かに机上では完成している。しかしこれを実装するとなると、いったいどれだけの犠牲が出るのだ。これは実験が成功しても失敗してもどちらにせよ、生物としては死ぬんだぞ。そもそも脳という容量を無くして生きていけるのか……」


 すると、疋嶋は黙って指を三つ突き立てた。


「三人です。一人目で挑戦し、二人目で調整し、三人目で成功させます。無駄に出来る人員はたった二人で十分です」


「君はそう簡単に言うが、人の命はそんなに容易くないんだぞ!」


「安心してください。他人は傷つけません。だからこれは僕の実験ですので僕の身内でやらせていただきます。いるではありませんか、自分と最も近い二人の親族が」


「まさか……君は肉親を……」


「それでは士錠教授。僕は少しの間だけ帰郷させていただきます」

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