第50話 接近5

 一度も目を動かすことなく、落ち着いた様子で、滔々と語り出し

 た。

「陽介の言う通り、あたしは社長……いや士錠兼助に頼まれて、陽介をここに連れてきた。その時にあなたの記憶が大学四年生まで遡ってしまったことも、タカマガハラのことも、警察に追われていることも、全て聞かされたわ。だからあたしはあなたを助けて、ここまで導いたのよ」


「じゃあ、やっぱりその士錠が全ての元凶なのか」


「それはわからない。でも士錠兼助は何かを知っている口ぶりだった。あの時はこんなことになるとは思ってなかったわ。あたしも軽率だった……この場所が警察から逃れられる隠れ家なのだと思っていたから。でも真実は違ったわ。士錠兼助がなぜこの場所に陽介を導くように言ったのか分からない。もしかしたら、あなたの記憶を呼び起こすつもりだったのかもしれないけど……」


 野島が不倫報道で記者たちの囲む家には帰れなくなり、事務所の用意したホテルに宿泊していた時のことだった。マネージャーから謝罪会見の電話を受け取った後、もう一度、受話器が鳴った。

 ホテルにかけてきた相手は社長である士錠兼助だったのだ。その時に野島は初めて疋嶋のことを聞かされた。

 始めは戸惑ったが、中学時代の友人を見捨てることは出来なかった。芸能界の花道で浮足立っていたその足元をすくわれた今回の報道。もう一度、自分の初心を見つめ直そうと思った矢先に持ち掛けられた相談だった。

 ある意味、自己満足の罪滅ぼしとも言えよう。そのため、社長に対する罪悪感。そして自分自身を慰めるための庇護欲。等々の感情が弱り切った野島の心を簡単に動かした。

 その一本の電話の後に、ファックスで送られてきた報道陣の醜聞資料。あの記者会見は野島の全てを投げ捨てでも純情な頃に戻るという覚悟の表れだったのだ。野島は士錠にうまく感情をコントールされ、踊らされていた。

 そのため、妄信的に自分の使命を全うし、疋嶋を混乱させてしまったのだ。


「それが全てか……」


「そうよ。今話したのがあたしと士錠兼助のとの関係性の全て。もう何一つ隠していないわ」


「それなら……俺はノンコを信じてもいいのか」


 野島はその質問に言葉を詰まらせた。素直に首を縦に触れるほど、図々しくはない。


「この後に及んでそんな高慢なことは言えないわ。あたしはあなたを裏切ったのよ」


「そうか……だったら俺が決めるよ」


 野島は息を飲んだ。この後、落ちている拳銃で額を撃ち抜かれても文句は言えない。むしろそれが懺悔と言う形での救いだったのかもしれない。野島は目を瞑り、答えを待った。


「俺はノンコを信じるよ。例えそれが邁進した考えだとしても、ノンコのおかげでやっと本丸が見えたことは事実なんだ。東洋脳科学研究所に来て、士錠の影を掴んだ。ここまでがシナリオ通りと言うなら、この先は未知だ。俺はこの先を独りで進めるほど強くはない」


「え……許してくれるの?」


「許すとまでは言わない。でも……お前は俺の親友なんだよ」


 疋嶋の返答はあまりに優しすぎだ。決して、野島を傷つけず、全肯定することなく、極力気を使い、そっと隣に寄り添う言葉だった。野島は自分の荒んだ心が洗われるように大粒の涙を流した。

 手を床につけ、その甲が濡れていくのが分かる。しかし、その水は温かかった。涙と言うものはこんなにも温かいものなのだろうか。この時に感じた感覚が女優を辞めて初めて感じた演技と現実の違いだった。

 演技で流す涙はいつでも出せるが、冷たい。しかし心の奥底が決壊して流れ出る涙と言うものは想像以上に甘塩っぱく、温かかった。


「おい、大丈夫か」


 笑いながら声かける疋嶋にいつの日かの青春を思い出した。そして誰にも見せたことのないような、涙でぐちゃぐちゃになった笑顔で答えるのだった。


「ありがとう」


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