第42話 突撃5

 蛭橋と幡中は砂ぼこりと黒煙の中で立ち尽くしていた。

 天井から垂れさがる切れた導線がバチバチと電流を帯び、光っている。事務所で炸裂した爆弾の威力は軽く手榴弾を凌駕する。散乱した事務所はまるで焼け野原だった。

  焦げあがった、散乱物を蹴り上げてどかしながら爆心である人形に近づく。窓ガラスも割れ、夏の生暖かい風が入って来た。

 幡中は倒れた机を踏みしめ、窓に身を乗り出しながら言った。


「この窓、最初から開いていましたよ。恐らく、この窓から飛び降りて逃げたのでしょう。つまり先輩が見た士錠の姿は本物だったんですよ」


「確かにここは二階だ。飛び降りることが出来ない高さではない。だけどなぁ……」


 蛭橋は考えながら言った。


「士錠は右足が義足のはずだ。いつもステッキを欠かさず持ち歩いている。健常者ならともかく、片足が不自由な士錠がこの高さから飛び降りて、無事に着地できたと思うか」


 幡中と同じように窓から体を乗り出し、駐車場の様子を見ながら言った。


「確かに……五メートルの高さから飛び降りた場合、足にかかる負担は自分の体重の何倍にもなる。作り物の足で支えられるほど簡単ではないですよね。じゃあ、俺たちがビルに入った時には既にここから消えていたのでしょか」


 あの時見た士錠の顔はもう一度思い返してもこの床に転がる石膏だと思えない。目には生が宿り、こちらに向かって笑いかけたのは紛れもなく生きた人間だ。長年の刑事生活で幾人もの死体を見てきたため、死者と生者、そして人形の違いくらい一目見れば分かる。

 自分の判断に狂いはなかったはずだ。自分だけは裏切られないと思っていた。しかし今日、初めてそれが覆った。屈辱と言うよりは純粋に不可思議だった。


「この窓から飛び降りたとなると、もう一人、協力者がいるんじゃないのか。例えば、東堂紬とか。駐車場をよく見ろ、士錠の車が消えている」


 蛭橋が指さした方向に目を向けると、来た時には確かに駐車していたポルシェボクスターが消えていることに気が付く。


「じゃあ、やっぱり……」


「士錠は何らかの形で、俺たちを躱して車で逃げた。もしあの時、俺が見た士錠が本物だとするなら、幡中の意見も一概には否定できない」


「まさか東堂紬が現れ、下で士錠を受け止めたんでしょうか。いやでも……それなら人だかりが出来るはず……やはり、顔も名前の世間一般では有名になっていない士錠だけがこの二階から飛び降りたなら、話がつく。だけど、士錠は足が……」


「まるで『クレタ島のパラドッグス』だな」


「なんすか、それ」


「『クレタ島の住人は全員が嘘つきだ』とクレタ島に住む男が言った。この場合、本当に嘘つきしかいない島ならその男の行ったことも嘘になるため、クレタ島の住人は全て嘘つきではないことになる。しかしそれでは全員が正直者であるはずの住人が嘘を言うのはおかしい。有名な二律背反の思考実験だよ。士錠は飛び降りることができない、しかし飛び降りる以外に逃げる道はない」


 蛭橋は踵を返し、窓から離れると扇子を開いた。


「でもただ一つ、この二律背反を打ち破る方法がある。それはそもそもこれを言った男がクレタ島の住人ではなかった場合だ」


「つまり……」


 幡中が息を飲み、問いかける。


「士錠の足は義足ではない」


 蛭橋は扇子を仰ぎながらそう言った。


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