第63話 沈黙の少女

 周辺にはこんもりとしたツツジが茂っている。セリカの膝上ほどの高さで群生している緑の裏に、その気配は小さく息づいていた。

 危険な気配ではない。逆に怯えている様子だ。

 セリカはゆっくりとその気配に近づき、ツツジを優しく手でかき分けた。


 (・・・女の子?)


 そこには体を強張らせた髪の長い少女がペタンと座っていた。

 5歳~6歳くらいだろうか。セリカの気配に逃げることもできず、気配を殺していたのだろう。

 少女の傍には分厚い本が1冊と、オレンジ色をしたスケッチブックが置いてある。 

 セリカを見上げる瞳は恐怖に揺れ、唇が小さく震えていた。


 「フリージアのいい匂いがした。正体は君だったのか。」


 セリカはまず少女のようにペタンと座り視線を合わせた。少女は一瞬目を大きくする。


 「驚かせてすまない。散歩をしていたらいい匂いに誘われたんだ。その髪飾りかな。」


 視線を少女の頭に向ける。そこには黄色と白のフリージアで作った可愛らしい髪留めが揺れていた。


 髪留めについてはその場しのぎにすぎない、敵意がないことを伝える為の咄嗟のウソだった。それほどに少女の纏う空気には恐怖と畏怖が溢れていた。

 自分の存在すらも押し殺そうとする緊張の吐息を早く解いてほしかったのだ。


 少女の眼にはまだ怯えが見える。彼女は傍にあったスケッチブックと本をギュッと抱きしめた。


 「ここは気持ちがいいね。空気がとても優しい。」


 さっきのように上を見上げ目を瞑る。

 セリカが目を瞑っても隣の小さな気配は動く様子がない。セリカは目を閉じたまま続けた。


 「そのフリージアの髪留めは手作りなの?とてもあなたに似合っている。」


 僅かだが少女が動く気配がする。セリカはゆっくりと目を開けた。

 少女は頭から髪留めを外して手のひらに乗せている。そしてセリカの方におずおずと差し出したのだ。

 瞳にはわずかに怯えが見え、セリカの反応を伺う不安な眼差しだった。


 「見せてくれるのか?」


 少女はコクンと、とても小さく頷いた。


 「ありがとう。あなたも優しいんだね。」


 少女の目にわずかに光が潤む。

 セリカはゆっくりと髪留めを受け取るとまず鼻先に持っていった。

 スゥゥッと吸い込めば柔らかく甘い匂いが鼻孔をくすぐる。


 「新鮮な花の匂いだ。どこか咲いている場所があるのかな?」


 覗き込むように少女を見れば、遠慮がちに視線を先に移した。この奥に咲いている場所があるのだろうか。

 少女がセリカをうかがう素振りを見せる。


 「私にも髪留めを?・・・ううん、この髪留めは私よりあなたの方が似合っている。それに私にはこのお気に入りの赤いリボンがあるからね。」


 セリカは結っている髪を揺らした。髪を束ねているリボンがふわりと揺れる。


 「だからこの髪留めはあなたに返そう。私が付けてもいいか?」


 少女が体を硬くしたのが分かった。


 「不安ならこれ以上近付かない。自分で付けられる?」


 セリカは髪留めを手に乗せて少女に返そうとした。

 しばらく悩んでいた少女だったが、躊躇いがちに頭を下げて見せた。どうやら髪留めを付けてもいいようだ。


 「見せてくれてありがとう。よっ・・・と。・・・うん、やっぱりあなたの方がよく似合っているよ。」


 可憐なフリージアが少女の頭に再び飾りつく。

 髪留めを付け終えたセリカはニッコリと笑うと、少女の顔をのぞきこんだ。


 子ども特有の大きな瞳は薄いこがね色だった。小さな鼻とぽってりとした口は見るからに柔らかそうだ。

 明るい茶色の髪は腰の位置まで長く、麻のワンピースを着て足元は裸足だった。

 しかしまず1番に目を引くのは、少女の首にグルグルと何重にも巻いている厚手のマフラーだった。


 「それは何の本?」


 敢えてマフラーから視線を外したセリカは、少女が持っている分厚い本を指さし聞いてみた。すると、ゆっくりとした動作で本を差し見せてくれた。


 「・・・人魚姫か。アンデルセンの童話だね。」


 少女が見せてくれた本の表紙には、岩場に腰かけ、悲し気な表情をして月を見上げている人魚姫の様子が描かれている。

 くすんだ色の本は汚れたり擦り切れたりしていて、いくつかページも折れていた。お世辞にも状態がいいとは言えないだろう。しかし、あらゆる人の手で捲られた物語が呼吸をして年を取っているようだとセリカは思った。


 「その本が好きなのか。」


 セリカが少女に本を返すと、少女は大事そうに本を抱えコクリと小さく頷いた。


 「どのシーンが1番お気に入り?」


 俯き加減の少女の目が揺れる。恐怖ではなく動揺した眼だった。

 セリカの中で生まれた小さな疑惑はすでに確信へと変わっていた。

 少女の小さな口は一向に動く様子が無い。しかし、意図的に口を閉じているわけでもなさそうだ。


 少女はオレンジのスケッチブックを開くと鉛筆が挟んであるページで手を止めた。鉛筆を握るように持つと、真っ白なページに何かを書き始めた。

 少女の力強い筆圧が心地よく風に乗る。

 しばらくすると満足げに顔を上げた少女がスケッチブックを見せてくれた。セリカは文字を読み上げる。


 「にんぎょひめがうたをうたうしーん」


 殴り書きに近い文字が彼女の無邪気さを伝えている。


 「そうか。私もそのシーンは好きだな。人魚姫の唄はどんなメロディなのか聴いてみたい。」


 少女は目をキラキラさせた。どうやら同じ気持ちのようだ。すると少女は再び人魚姫の本をセリカに差し出した。


 「読んでほしいのか?」


 少女はコクコクと頷く。無垢な少女の表情にセリカは自然と笑みがこぼれた。


 「いいよ。こっちへおいで。」


 既に少女に迷いは無かった。セリカの膝に乗ると、ワクワクした顔で本を見つめている。

 少女の顔の前で本を開くと、セリカは落ち着いた声で本を読み始めた。抑揚のない、でもどこか安心する声は樹の下でとてもよく響いた。


 (そういえば、母さんにもこうやって本を読んでもらったっけ・・・。)


 セリカは文字を目で追いながら、小さい頃を思い出していた。髪を掬い、時に頭を撫でもらうのが気持ちよかった。

 セリカは自然と少女の髪を梳きながら物語を読み続けた。時を忘れ少女も集中している。柔らかい日差しに優しい風が心地よい空気を作り出していた。

 

 20分程経った頃だろうか。膝に乗る少女が急に重たくなったのだ。音読を止めたセリカはゆっくりと少女の顔を覗き込んだ。

 少女は気持ちよさそうに寝息をたてて眠っていた。安心しきった顔に長い睫毛が頼りなく震えている。

 音を立てずに本を置き、少女を起こさないように体勢を変えようとする。足が痺れそうだったからだ。その時、少女の首に巻いてあった厚手のマフラーがパサリと落ちかけた。


 「しまった、汚れてしま――」


 セリカが慌ててマフラーを拾い上げようとした時、思わず手が止まる。そしてマフラーが無くなったことでさらされた白く細い首を凝視した。

 しばらくして、セリカはマフラーを少女の首に優しく巻き付けた。少女の頭を膝に乗せ、ゆっくりと深呼吸をする。


 「おや、随分と懐かれたのう。」


 足音も無く急に現れた人物にセリカは驚かない。


 「ソフィア。」

 「珍しいのう。ワシ以外の人には絶対なつかんのに。やはり互いに惹かれる部分があるのかのう。」

 「惹かれる・・・?」

 「共有するものがある者同志ってことじゃよ。」

 「・・・。」

 「この子はクーランといってな。数か月前に表門に母親と倒れておったんじゃ。2人とも瀕死の状態での。」

 「瀕死・・・?」

 「気を失ったクーランを庇うように倒れておった。ワシの気配を察知した母が最期の力を振り絞ってクーランを託したのじゃ。『名はクーラン。この子をお願い』と。母は既に顔が潰され眼も見えておらんかったよ。敵か味方かも分からん相手に縋るほど必死だったんじゃろうな。」

 「母親は?」

 「表門の静かな場所に埋葬したわい。母の惨い姿を見なかったのはクーランにとって良かったのかもしれん。」

 「何があったんだ?」

 「近くの村が霊魔に襲われたらしい。少なくとも2つ3つの村が全壊だったそうじゃ。母親は命辛々にここまで逃げてきたんじゃろう。」

 「そうか、だからクーランはあんなに怯えて・・・。」

 「村が霊魔に襲われ、人が死んでいく様子も目の当たりにしておる。よほど怖い思いをしたはずじゃ。」


 クーランの眼を思い出す。次こそ殺されるかもしれない・・・。どれだけ怖い体験だっただろう。


 「クーランも危ない状態だったが、ワシの魔法で何とか持ち直した。きっと母親が守ったんじゃのう。しかし、目を覚ましてからがまた大変じゃった。」

 「母親が突然消えたんだ。それは戸惑うだろうな。」

 「あぁ。大きな目から涙をボロボロとこぼす日々じゃった。」

 「母親を探して泣き叫ばなかったのか・・・?」

 「・・・。」

 「・・・んだな。」

 「気付いておったのか。」

 「今さっき偶然に見てしまった。痛々しく残る喉の魔障痕に。」

 「霊魔に喉を傷つけられたんじゃろう。魔障痕はクーランから声を奪ったのじゃ。」

 「声を・・・。」

 「声が出せなければ言霊も詠唱も唱えられない。精霊を使役できんということは魔法を使うことができんということじゃ。そう、お前さんと一緒でな。」

 「・・・。」

 「お前さんの魔障痕のある場所は魔法力の器が備わる場所。魔法力の器に影響が及び、言霊も詠唱も唱えられない。そういうことじゃろ。」

 「・・・あぁ。おっしょうもそう言っていた。だから私は魔法力の器を使わず魔法を使えるように鍛えてもらったんだ。」

 「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ、無茶をする。」

 「あぁ、無茶苦茶だよ。それでも、感謝している。それでクーランはどうなったんだ?」

 「大きな傷も時間が回復してくれる。少しずつワシに慣れてくれたわい。言葉を交わせなくても意思疎通ができるくらいにのう。」

 「おじいちゃんと孫だな。」

 「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ。この年になって子育てをするとは思わなんだがな。」

 「もうこんなに字が書けるのか?」


 セリカはクーランが持っていたスケッチブックを取り出した。


 「ここは知識の宝庫。ワシが具現化した本を与えていたら勝手に覚えよった。子どもの成長には驚かされるのう。」

 「なるほど。」

 「知識には困らん。しかし知識だけでは生きてはいけない。クーランにとって、ここはあまりにも大きく狭い場所じゃ。どうにかせんと、と思っていたとこじゃ。」

 「どういうことだ?」


 その時、セリカの膝で寝ていたクーランがゆっくりと動き出した。どうやら短いお昼寝から目を覚ましたようだ。

 一瞬、クーランが身を固くする。しかし、セリカとソフィアの姿を認めるとすぐに緊張をほどいた。

 その様子を見たソフィアが笑ったことに、セリカは気が付かなかった。

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