桜散る中で

 ずいぶんと昔の話になる。それはまだ日本に電気の光がなく、森も田んぼも山ほどあった頃だ。

 その子はそもそも、生い立ちから不幸の香りを纏わせていた。彼女はある豪商の妾の子として産まれた。腹違いの兄弟達が、立派な屋敷で両親の愛に恵まれてぬくぬくと育っていたのに対し、その子は父の愛を知らず、忙しい母と、貧しい暮らしを営んでいた。

 母の帰りは常に遅く、物心ついたときには一人で飯を食うのが当然だと思っていた。

 それでもささやかだが、確かな幸せがそこにはあった。母はどれだけ生活が苦しくても娘を捨てはしなかった。例え帰りがその子が眠った後になって、なかなか顔を合わせられずとも、親子の絆はそこにあった。

 どんな粗末な飯も母が自分のために一生懸命働いて、買ってくれた物と思えば、白米や鯛なんかより素晴らしいごちそうだった。古い長屋の一室も彼女にとっては桃源郷だった。

 しかしその幸せは、ある日儚く、呆気なく散った。母が病で死んだ。

 そこから先の数年間。少女が生きた日々は地獄も同義だった。彼女は父である豪商の主に引き取られた。

 だがその先、彼女が死ぬまで歩む人生を考えれば。いっそ路上に放り出され、秋に産まれた子猫の様に、冬の寒さにの垂れ死んだ方がましだっただろう。

 父の屋敷は大きかった。きれいな着物もごちそうも装飾具も山ほどあった。しかしその内のどんな小さな物置も、ぼろの着物も、白米一粒でさえその子には与えられなかった。それは父の正妻からの虐待だった。この正妻は潰れた蛙の方がまだ美しいだろうと思えるような、醜い心の持ち主だった。そして顔もそんな本性が滲み出た醜女だった。

 この女は自分が「豪商の主の妻である」ことを何よりもの自慢にしていた。「町一番の豪商の女」は自分以外にいないはずだと思っていた。だから許せなかった。自分以外の女、それも身分の低い貧乏人の女が夫の寵愛を受け、しかも子供まで産んでいたことが。

 だが憎い女は死に、その憎らしい血をたっぷり受け継いだ娘が、性根の腐った女の下に転がり込んできた。この嫌らしい性格の女がその子を苛めぬ訳がなかった。

 その子の寝床は馬屋の汚い藁の上だった。彼女の服は屋敷に来てから一度も変えられなかった。与えられる食事は、屋敷に来る前に食べたものよりずっと粗末なものになった。その上その子は毎日、どんな下っぱの使用人も真っ青になるくらい働かされた。当然幼い少女は汚れて痩せ細った。そしてそれを見て女は実に醜く、嘲笑うのだ。

 さらに不幸なことにその女と豪商の主の子供達、つまり少女の腹違いの兄弟達も母親似の嫌らしい性格のぼんくらどもだった。そして質の悪いことに、その兄弟達は無邪気で無知だった。苛めるにしても加減がわからず、何度も彼女を殺しかけた。

 その子に味方はいなかった。実の父である豪商の主さえ、その子を守りはしなかった。彼は娘が正妻にどれだけ酷い仕打ちを受けようと、兄弟達に殺されかけようと、過労で倒れようと、知らないふりを決め込んだ。その態度はさしずめ『引き取ってやったんだ、もう父親としての責任は果たしただろう』とでも言わんばかりだった。彼とその子の間には血の繋がり以外、何もなかったのだ。

 その子は幼いながらに自分の存在は、誰にも望まれていないのだと知った。父にさえ望んでもらえぬ産まれ。きっとこの父は自分と妾の間に子をもうける気など、さらさらなかったのだろう。

 そんな地獄を一年、二年と過ごす内に少女の感情は欠落していった。もともと母のいない寂しさを圧し殺すことには慣れていた。寂しさの他に、悲しさや苦しさや痛みや怒りを圧し殺すことが今更何だと言うのだろう。

 彼女にとっては、今日という日は、あらゆる痛みに耐え過ごすだけのものだった。昨日も一昨日もその前も今日と同じ、痛みの記録。明日も明後日もその先も、間違いなく今日と変わらない。何の変化も、救いもない日々。何も感じなければ、痛くない。慣れてしまえば、苦しくない。

 彼女は、人間の尊厳さえも放棄しなければ、生きられなかった。来る日も来る日も、殴られても蹴られても怒鳴られても、ただ無機質に無感動に、人形のように生きた。

 そして、屋敷のもの達がその子をのけ者にして、どこかへ出掛けたとき、あるいは皆が寝静まった夜にだけ、少女は人間に戻って、母を偲んでは泣くのだった。

 そうして生死の境を綱渡りし続けるような時間が、ただ淡々と流れていった。何度も何度も死にかけた。何度も何度も殺されかけた。

 それでも少女は心臓が脈打ち、体が暖かいと言う意味でならば生きていた。そして雀の涙程の栄養を吸収して、確かに成長していたのである。

 やがて、地獄が終わる時がきた。それはその子が年頃になった頃だった。父が死んだ。また新しく設けた贔屓の情婦のもとで裸でふんぞり返っている間に、突然心の臓が止まってしまったのだから、情けないこと限りない。そして彼女は父の葬儀も済まぬ内に、義理の母に屋敷から追い出された。

「あんたはもうここの子供じゃないよ。私はあんたみたいな薄汚い子の親じゃありませんから。さあ、どこへでもお行き!」

 鐚一文渡されず、着の身着のまま、町の宵闇につき出された。

 しかし、寒風に肌を殴られながらも、少女の心を占めていたのは、不安でも悲しみでもなく、紛れもない喜びだった。もう心を殺して生きる必要はない。もう殺される恐怖に怯える必要はない。それは至高の喜びだ。あの屋敷での生活に比べれば、足の裏を突き刺す砂利も、肌を切るような凍てつく風も、話にならない。

 その子は暗く冷たい夜の町を、極楽の花園で踊るかのように駆けていった。振り向くことはしなかった。

 屋敷の者達はおそらく少女が、寒さになす術なく、食べ物を得ることも金を稼ぐこともできずに、の垂れ死ぬことを期待していたのだろう。

 しかし、屋敷の世間知らずな餓鬼どもとその母親には、その子が立派に成長し、巣立つには充分な能力を獲得していることが分からなかった。

 いつかこの家を出て、幸せになる。その為にどうやって生計を立て、どう生きていくのか。そう願い続けた少女にとっては、夜な夜な夢見た未来が、紡いだ計画が回り出す日が、少し早く訪れただけのことだった。

 その子は町の商家に片っ端から願い出て、働き口を探した。数日間は汚い身なりのせいもあり、なかなか雇っては貰えなかった。それでも恵んでもらった飯で腹を満たして、橋の下を寝床に、根気よく雇い主を探し続けた。

 そしてとうとうその子は町外れの穏やかな呉服屋で、住み込みで働くことになった。最初はあまりに可哀想だと同情でその子を雇った店主も、ものの数日としない内にとんでもない儲け物をした、と諸手を打って喜ぶことになった。

 その子はよく働くし、手芸の才能はある。一を聞いて十、二十と働くことができるし、人付き合いがうまく同僚にも愛された。働き者で物覚えはよく、その子がいると職場の雰囲気が明るくなる。おまけに風呂に浸からせて、髪をとかし、着物を新調してやれば、目も眩まんばかりの美女ときた。

 もともと母は富豪の妾になれる女だ。その子は掃き溜めに埋もれてしまってはいたが、母の美しさはしっかりと受け継いでいた。暫くは平凡で単調な幸せに満ちた日々が続いた。少女の望んだ満ち足りた日々。

 世に語られる波乱万丈の人生などいらないから、ずっとずっとこんな日々が続けばいい。そんな思いで、少女は毎日毎日骨身を惜しまず働いた。過労を心配する者もいたが、屋敷での労働に比べれば楽なものだった。

 才能を備え、努力を怠らない。いつの間にか彼女は誰もが認める看板娘になっていた。もともと隠れた名店だった呉服屋は、美人の売り子が評判になってから、瞬く間に町中に知れ渡った。着物と言わず浴衣と言わず帯と言わず、巾着から手拭いに至るまで誰もがこの店の品でなければ頷かない。呉服屋といえばこの店、この店といえば町一番の呉服屋。店の名は人から人へ、町から町へと轟き渡った。

 だが、その幸せは巨大な不幸の皮切りだったのだ。なまじ店が有名になったのが裏目に出た。今まで細々と営んできた店が、一気に老舗や大御所と張り合う店になったのだ。そしてそんな商売敵の中には、少女に地獄を見せてきたあの豪商の家族もいたのだ。

 かの店は、商才だけはあった主が亡き後、その子の腹違いの兄弟の一人が跡を継いでから、経営があっという間に傾いた。そしてもちろん彼らは自分を省みることなどするはずもなく、己の不幸に他人を呪い、妬み憎んで日々を過ごしてきた。

 自分が悪い筈がない。悪いのは誰か他の奴等だ。一体誰だ? そんな彼らにとって破竹の勢いで伸びる呉服屋は格好の恨みの的だった。あいつらだ。あいつらのせいだ。あいつらが何か卑怯な手を使って自分達を貶めているに違いない。

 何の根拠もない怨恨が彼らを動かした。そして彼女の兄弟達は自分の店の経営も差し置いて、呉服屋にいちゃもんを付けに来た。お前らが卑怯なことをしているのはわかってるんだ。人を蹴落としてまで有名になって嬉しいか。こんな劣悪品をよく売れたものだ。

 根拠も一貫性もない事実無根の苦情に嫌がらせ。呉服屋の売り子や職人達はほとほと困り果て、そして店で一番人付き合いがうまいその子に泣きついた。対応に出た彼女は、その厄介な客がかつて自分を何度も半殺しにした、実の兄弟達だとすぐに悟った。

 だが兄弟達にはあまりにも美しく花開いたその子が、ぼろ雑巾の様だった腹違いの妹とは気づけなかった。あまつさえ、惚れてしまったのだ。呉服屋の名を天下に轟かせるような、その美しさに。

 兄弟達は我先にとその場でその子に求婚した。自分達が呉服屋に来た目的も忘れて、傲慢に、高飛車に「私の妻にしてやろう」と言った。そして当然、にべもなく断られたのだ。

 彼女は実の兄弟、しかも自分を殺しかけた人間と結ばれる気など更々無かったのだ。だが彼女の対応が、火に油を注いだことも事実だった。可愛さ余って憎さ百倍、商売敵に恋慕の愛憎。人を突き動かすのには充分な理由だ。

 その日から、苦情は脅迫に、嫌がらせは暴力に変わった。兄弟達は止せば良いのに荒くれ者を雇っては呉服屋にけしかけた。商いにかける情熱は微塵もない癖に、嫌がらせは足が付かないように考え抜いて、労力を惜しまなかった。

 品は良いが、いつ暴力の飛び火を食らうか分からない。そんな店に客が寄り付く訳がない。客足は遠退き、呉服屋は廃れ始めた。その子にとって最も辛かったことは、呉服屋の主人や女将、同僚達が自分を許してくれたことだった。

「わかってる、こんなことをする奴等と祝言なんてあげたくないだろう」

「大丈夫、あんたは悪くないさ」

「いいの、いいの、気にしないで」

 いっそ、お前のせいだ。と追い出された方が気が楽だった。自分のせいで傷ついている誰かが自分を恨んでくれないことより、心が痛むことがあるだろうか。優しさが苦しい。自責の念に胸が抉られる。

 やがて金繰りが難しくなり、給金が払えなくなる。職人も売り子も皆が皆一人、二人と呉服屋を去っていった。誰もが「気にしないで」と言って去っていった。

 呉服屋には主人夫婦と、その子だけが残った。彼女はお金はいらないから、最後まで働かせて欲しい。と申し出た。主人夫婦は微笑んで感謝の言葉をくれた。感謝すべきは自分だとその子は泣いた。

 しばらくはたった三人で細々と、理不尽に堪えながら生きていた。だがある日、呉服屋の主人が倒れた。主人の体は心労に蝕まれてぼろぼろだった。主人の奥方とその子が手を尽くして看病をし続けたが、怒声と破壊音の鳴り響く店での療養では、主人の容態は悪化の一路を辿るだけだった。かと言って他所に身を移すだけの金は、もう呉服屋には残っていない。

 四月の桜が散る頃、主人は帰らぬ人となった。奥方と、その子の願いも桜の花びらと共に、風に千切られ舞い落ちた。

 それから数日としない内に奥方も主人を追って、首を括った。薄暗い部屋の中で、奥方の骸がゆらりゆらりと振れていた。その様子はその子の目に焼き付いた。消せども消えぬ焼き印になって。最期まで彼らはその子を恨んでくれなかった。

 彼女は恩人を失い、友人を失い、そして再び居場所さえ失った。心優しい主人達と共に、理不尽な暴力に耐え続けた店は、荒らされ、汚されていた。その中で働き、戦い続けた人間達はもういない。廃屋と化した店には、戦い、戦い、戦い抜いて、そして負けてしまった呉服屋の者達の痛みと無念が刻まれている。

 呉服屋の姿を、そこに残る人と店の傷跡を、その子は絶対に忘れないよう飲み込んだ。怒りの焔が腹の中で、鈍く、暗く燃え続けるように。

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